椿落ちる頃

四季山河

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第二章 神はいずこ

14-1 神はあえかに

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 一枚、また一枚と、簾を下ろすように布地が垂れ、水に溶かした墨で線を描くようにそれらは畳の上に伸び、重なっては濃淡を生む。
 それを横目で眺めながら、ついに春絶は長い溜息をついた。

「……塵何、もうよい」

「はい?」壁際の衝立に引っ掛けていた帯を比べていた塵何が振り向く。「もうよい、ですか。しかしまだ襦袢の色しか決まっておりませんよ」

 社の奥座敷はもう足の踏み場もない。絹織物に反物、帯、水引に金物飾り。黒という色で縛ってなお、よくもまあこれほど集めたものだと感心する。
 だが起き抜けからこの座敷に立たされ、右から左からあれこれ布を当てられ、かと思えば脱がされ、また着せられては次々に重ねられ、いよいよ終わったかと思えばやはり脱がされ、またはじめから。

 もう陽は真南に高く昇った。たかだか半日だが、半日もただ立っているというのもなかなかに苦痛だった。瞑想していれば瞬きの間に過ぎるというのに、それは当然塵何が許さない。

「名代」

 新たに帯を手に取り、塵何が音もなく春絶の前に立った。今日もまた今までに見たことのない艶やかな羽織と背広を着て__ただしそれらは脱ぎ、今は深い灰色のシャツに黒いネクタイ、長い髪をひとつに結わえて片眼鏡をかけている。

「そうわかりやすく飽きた顔をなさらないで頂けますか。そもそも、真神ともあろうお方が御色直しの一つも持っていないから、私がこうして大急ぎで誂える羽目になっていることをお忘れで?」
「誂えてくれと頼んだ覚えは……」

 ない、と言おうとした春絶の首筋に塵何の手が触れる。黒い革手袋に二つばかり金色の指輪を通したその指先は、しかしひんやりと冷たい体温を感じた。
 塵何は春絶の首に金物の飾りを巻き付けた。そうして数歩下がり、全身をくまなく見回す。「ふむ……とりあえずこれで一着目か」
「終わったか」
「一着目だと言ったでしょう。動かずに」
「いくつ仕立てる気だ」
「六つか、七つほど」
「その全てに私が袖を通すまでに、この国の年号がいくつ変わると思っている」
「名代は着飾るということを覚えなさいませ。これまでは夢境に引きこもっていれば良かったかもしれませんが___

 ___あの天神公が仲人の婚儀となれば、まさか野山を歩いた帰りのまま出る、とは行かぬでしょう」

 塵何が再び春絶の首元に触れ、金飾りを外す。首元で金属が動くことに春絶の耳がかすかに震えると、塵何はくすりと笑った。

「あなたのことです。天神が仲人とはいえ本人が来るわけでもなし、内々で済むだろうとお思いかもしれませんが、存外下界のものは図太いのですよ。数日前まであなたを煙たがっていたものたちも、手を揉み、鼻の下を伸ばして山に入るでしょう」
「懺悔でもしようというのか」
「はっはっは!」

 塵何が口に手も当てず(彼の手は春絶の服を脱がすのに使われていた)笑う。普段の淑女が如き、あるいは遊女の如き妖艶さとは無縁の笑いぶりは、しかし彼の素面のひとつであった。

「いいですねえ、あなたを上座に座らせて、来賓どもには挨拶がてらその来歴と犯した愚行を吐いてもらいましょうか。きっと盛大な式になりますよ」
「塵何」
「あなたが仰ったのでしょう。眉を顰めたところで、あなたの心などお見通しですとも」
「……祝い事とは理解しているが、まさか我が身に起こるとは思わなんだ。言祝ぎも、誓言の儀も、ただそれだけならば良いものを、それに乗じ、纏わりつく二心のなんと多いことか」
「気の早い連中はもう山に分け入っておりますからね。玉置の老公なんかは、社を貸してやって、贈呈品の酒を飲み干してしまうかもしれない」
「贈呈品を失った体裁の悪さを恥じて、客が減ればいい」
「まあ、そうはいかんでしょうね」

 するすると解かれた帯や羽織が畳に落ちる。まるで山水画を描いた水墨画のようだ。この部屋は。
 しかし衣装合わせだというのに、部屋に鏡はない。春絶が特段自分の格好を見たがらないのと、それを塵何が分かりきっているからだ。鏡を一つ置くだけの場所すら、衣装箪笥や帯を並べたほうが有意義だ。

 袴だけを残し、露わになった春絶の上半身を前に、また別の反物を手に取った塵何は、しかし布を当てるより前にその手を当てた。

 ちょうど心臓のある位置に。
 そこから真っすぐに手を下へ。指先が撫でる。
 線を引くように。腹の窪みを伝うように。

 __そこに一線はしる、亀裂のような太い傷跡をなぞるように。
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