椿落ちる頃

四季山河

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第二章 神はいずこ

12-3 神はいつからか

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 「誰もが揶揄えなくなるほど、あの武者ならば道理だ、と不届き者どもを黙らせるほどの技を身に着けて、きっと」

「白綺、」春絶は言葉を遮った。「自分が何を言っているのか、何を言おうとしているのか。道の岐路にあって、自らそれを潰そうとしているのを、理解しているか」
「私の為であるなどと、それを盾にするのは止めていただきたい!」

 やんわりとした拒絶に、柔らかすぎる拒絶に、白綺は歯噛みして吠えた。「私を猛者だと認めてくださるのなら、道半ばとて、一人の男として私を見てください! 私は、あなたに大事にされたいのでも、親になってほしいのでもありません」

 ついにそう言ってから、誰よりも白綺自身が自分の言動を恥じるように瞼を伏せた。

「___大宰府に出向いた後は、滅私奉公して参ります。脇目することなく、一心に鍛錬に励みます。未熟なままで、どうこうしてほしいとは、申し上げません……」

 忘れないでくれ、と白綺はついにか細い声でそう言った。「どうか、せめて私が太宰府より戻るまでは、どうか……誰かのものにならないでください……」

 熟れすぎて、今にもぽっくりと落ちてしまいそうなほどに赤い顔を震わせてそんなことを言う。

 きっと大成して戻ってくる。けれどその間に、春絶が誰かと契り、番ってしまったらと思うと遣る瀬無い。あの日掻き消えようとしていた自分に名前を与えてくれたひとが誰かを選ぶなら、たとえ最後に選ばれなくても、そこに立てる自分でありたい。

 白綺は間違えようもなく武者だった。生前幼い頃より鍛錬し、青春もなにもなく戦場をひたすらに駆けた短い人生だった。たとえそれは今や記憶として思い出せずとも、そう生きた事実は存在の根幹に染み付いている。
 戦ったうえで、負けて退くのはいい。敗北の将に弁明の余地はない。だが、戦うことすら許されないのは、断じて受け入れられない。
 だから戦うための力を蓄えるまでは、どうか待っていてほしい。何もできない子供のように奪われるのではなく、せめて武者として戦わせてほしい。
 強大な力を持つものが春絶を欲しても、どうかどうか、その敵(かたき)と相対する機会を自分に与えてほしい____と。

 そんな白綺の決死の告白。
 それを聞かされた春絶はと言えば。

「……春絶殿?」

 白綺は、初めて見た。
 豪雨の夜に、社のすぐそばに雷が落ちた時でさえ動かなかった春絶の眉が動くのを。
 いつも物憂げに細められた瞼がそんなに大きく開くのを。

 春絶の瞼が、ぱちぱちと、たった二回__されど二回も、忙しなく動くのを。

「白綺」
「ぅえっ」自分がしでかしたこっぱずかしい言動に冷や水を被せられたような心地で、白綺は思わず悲鳴を上げた。「あ……え、と。はい」
「お前は」
「はい……」
「私が誰かのものになると思っているのか?」
「……?」
「誰かが、この私を欲しがると思っているのか。
 私が誰かに取られると。誰かが、私を自分のものにしたがる、と」

 白綺はぽかんと口を開け__そして言われた言葉を理解するなり、絶句した。

「あ____あ、あると思っているから言っているのに! 私があなたを欲しいと思っているのですから、他にもそんな輩がいると思って気が気でないのです! だ、だというのにあなたは! 人が恥を忍んで! 恥を忍んで恥を晒しているというのに!」

 先ほどまでの恥じらいは吹き飛び、白綺は憤慨した。そしてそんな白綺の様子を、春絶は首をかすかに傾げて不思議そうに眺めている。

「どうせ、どうせあなたのことだから心は自由にとか、人も心もものじゃないだとか言うのでしょう! そういうことではないのです! とにかく、私は、私の知らないところであなたをどこの馬の骨とも知れぬ輩に取られるのが嫌だと言っているのです!」
「ああ……まあ、おおよそわかった」
「絶対にわかってない!!」
 白綺は頭を抱え、折角綺麗に束ねた髪を乱した。「明日瞑想しながらよくよく考えればいいとでも思うてか! あなたのそういうところが、そういう、そ、うう、うううう……」
「白綺」
「なんですかもう!」
「私は誰のものにもならん」
「今の話の流れでどこをどう信用しろと!?」

 孤高かと思えばわりかし知り合いはいるし、その知り合いは一癖も二癖もあって、普段合わないくせによこす手紙は気安い語り口調であるし、そもそも春絶殿はひとに対して好きと言わなければ嫌いともいわない、それだから知らぬうちに面倒なのが増えて、いやこれは私の話ではなくうんぬんかんぬん。

 白綺が呪詛のように吐きまくる前で、おもむろに春絶はかぶりを振った。
 本来ならば人の耳が生える部分に、春絶の場合は獣の耳が生えている。黒い毛に覆われた三角形のそれには、鮮やかな朱色の札と銅の重石を括りつけた耳飾りが吊るされている。

 春絶は左耳に吊るしていた飾りを外すと、それを白綺に差し出した。
 そして白綺は、突然差し出された耳飾りをただぽかんと見た。

「あの、これは」
「やる」
「え」
「今においては、言葉よりこの方が早かろう」春絶は言った。そうして白綺が呆けているのをいいことに、その耳飾りを白綺の左耳につけた。

 そうして手を離せば、まるで鏡合わせのように二人の耳には同じ飾りが揺れた。
 本来一人が左右対称に備えて然るべきものが片方だけに装着されているというのは、いやに目につくものだ。ましてや春絶の耳飾りは朱色の札がまるで帯のように長く、色も鮮やかで目を引く。
 それが片方だけないとあれば、片方をなくしてなおもう片方を外さないとあれば____そこに憶測を生むのは必然だろう。誰かと分け合ったのではないか、などと。

「お前がそれをつけるかどうかは好きにせよ。もとより大宰府には、より華美な飾りもあろう。これはただ単に、私がおまえという求道者へ義を通すための行いだ」

 白綺はそこでようやく、そろそろと手を伸ばして自分の左耳に触れた。ひんやりとした銅の金具が耳の骨を噛み、そこから長く朱色の札が下がる。
 そして目の前には、まったく同じように、片方にだけ耳飾りをした春絶がいる。

「道を究めた暁には、また顔を見せに来るといい」
「……顔を見せに、ではなく、戻るのです。私は、ここに」
「そうだな」春絶はそれ以上は正さなかった。「技を究め、知見を広げて尚そう思うのなら、己の心に従えばいい」

 白綺は長く垂れた耳飾りの朱をそっと手で握り、頷いた。

 そうしてそれから間もなく、白綺は太宰府へ発った。元より飛鳥の地でも腕の知れていた白綺が、新たな環境で頭角を現すのに時間はかからなかった。
 白綺が春絶の神使でないとはいえ、義理立てのためか大宰府からはたびたび白綺の近況を伝える文が届いた。白綺本人が書いたものではない。それは大宰府の神使であり、文中には、白綺に筆を執るようすすめたが、彼は弓を手放そうとしないのだ、と常々書かれていた。
 春絶はその文に簡単な礼を返したが、それ以上のことは書かなかった。ただのひとつも、何かを尋ねたり、聞き返したりしなかった。まめな連絡の手間をかけさせたことを詫び、礼を述べ、そしてよしなにと頼む。それだけだった。

 時が過ぎ、やがて白綺が太宰府へ発って、季節が一巡した。共に過ごしたよりも長い時間離れて、白綺はついに大宰府でも五本指に入る猛者として名を馳せていた。
 大宰府の環境は、やはり白綺と合うようだ。このまま大宰府で名を上げ、多くの神使を束ねる将としての道を進むことは、これ以上ない立身出世と思われた。

 だが、そんな幻想は一通の文で粉々に砕け散ることになる。
 いつもより分厚い大宰府からの文を春絶が開くと、それはこんな一文から始まった。

 ”東風こち吹かば 匂い起こせよ梅の花 主なしとて 春を忘るな”

 それはどんな口上より明朗な名乗りだ。
 学問の神、天神、三大怨霊。神も霊も恐れ、畏れる大宰府の永代・菅原道真。

 予想だにしない人物の名とともに、その文には驚くべき内容が記されていた。さしもの地罰神たる春絶が眉を顰め、言葉を失わずにはいられないほど。
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