椿落ちる頃

四季山河

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第二章 神はいずこ

12-2 神はいつからか

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 春絶が腰を上げようとしたのを察してか、白綺は膝を引いて体ごと向きを変えた。縁側の方へ顔も体も剥けてしまって、室内にいる春絶から見えるのは背中と、その中央に垂れる長い髪だけだ。
 開かれた縁側から乾いたそよ風が流れ込む。庭先に枯葉が転がり、カラカラと音を立てた。ここまでの白綺の怒髪天に恐れをなしてか、見渡す限り周囲に鳥の一羽、虫の一匹も見えない。
 青々と水気をふくんで潤んでいた植物は乾き、腐り、まもなく訪れる冬を前に大地へ降り積もり、そこへ生きものたちのあたたかい寝床をあつらえている。

「白綺」

 春絶が縁側へ出て、隣に膝をついても、白綺は頑なに顔を背けて、硬く正座したままだ。けして目を合わせようとせず、かといってあけすけに無礼なことをするのは気が引けるのか、きちんと膝を揃えて座っている。
 兎にも角にも。
 春絶が白綺の顔に手を添えてこちらを向かせる。それは想像よりずっと、あまりに容易いことだった。まるで飾り風車を回すような、向かせるというよりただ指を当てただけ。
 最後の底意地で視線だけは明後日へ背けている白綺の真正面に、春絶が自分の顔を据えた。

「白綺」
「……子供の自儘だと、そう思っているのでしょう」
「いいや」
「嘘だ」
「虚弁を講じてどうする。昼には昼の、夜には夜のささやかな出来事に思いを馳せ、心を揺らすのがお前の在り様だと知っている。お前が自儘に振舞ってそうなるのならば、相応の理由があるはずだ」
「あなたは、」

 白綺が勢いよく顔を上げ、そして予想よりずっと近くにあった春絶の顔に分かりやすく瞠目し、首を縮める。
 そうして限界まで縮めた首から白綺が見下ろせば__膝を強く握りしめる白綺の手は、黒い袖当てを巻いた春絶の手に覆われている。

「て、手が」
「白綺」
 春絶は咎めるように呼ぶ。気を逸らすなと言うように。「聞け、白綺」

 白綺がじりじりと視線を動かし、そうしてようやく春絶の目を見た。

「きっとおまえは、太宰府へ行くべきだ」

 白綺はまるで傷ついたような顔をしたが、春絶は片手を白綺の頬へ、もう一方の手を白綺の膝元の手に重ねたまま続けた。

「おまえが求める道は、私の予想だにせぬほど長い。そして長く険しい道をゆくならば、その道は広く尋ねるべきだ。多くの知見と、多くの出会いが、きっとおまえを扶け、おまえを導くだろう。おまえほどの猛者には、この山は狭すぎる」
「私は……」
「白綺、お前がまだ、私の心を動かしたままのお前であるならば。道半ばの求道者であるあらば、私はお前の歩みを妨げるものになりたくはない」

 既に心は決まっているのだろう、と問われたとき。言い当てられたとき。
 白綺はついに項垂れ、そして本当の子供のように首を振った。

「心は、心だけが、決まっていません。頭も体も、大宰府で得る学びや経験に是非も無いとわかりきっている。それなのに……」

 白綺が春絶に包まれたほうの手を開き、そしてかすかに手のひらを傾けて、春絶の掌のほんの端を指で握った。挟んだ、と言った方が正しいかもしれない。
 部屋の中へ吹き込んだ秋風が、卓上で避けて丁寧に綴られたいくつかの文を揺らした。かさかさと乾いた音が立つ。
 数少ない春絶の知古からの文を、白綺は視線だけで見つめた。

「私が、もっと、ずっと前……ずっと古くに出会って、今より遥かに高みにある存在であったならば、春絶殿は私との別れを惜しまれたでしょうか」

 自分でそう言いながら、白綺は顔から首まで赤くした。男にしては白く、しかし同時に引き締まった精悍な顔立ちが自分の体温で蒸され、赤らんで湿る。
 白綺の言葉の指すところを、もはや春絶はわざわざ聞き直したり、言い直したりはしなかった。代わりに、自分の肩へゆっくりと、ひどくゆっくりと頭を寄せ、額を押し当ててくる白綺を好きにさせた。
 繋いだ手と額を当てられた肩口がぼんやりとあたたかくなる。

「お前は普段あれほど流暢だのに、獣のようなことをする」
 白綺が押し当てた額をさらに強く押し付けた。「春絶殿は、獣とは思えないほど平静すぎる」
「私にも、ただ闇雲に野を駆け、月に震え、訳も知らず鳴いた夜もあった」
「……そのときのあなたは、一体何本の足で野を駆けていたのです?」
「さて、いくつだったか」

 それとなく春絶の過去を尋ねても、いつもこうしてはぐらかされる。少なくとも一朝一夕でない時を共にしてみても、白綺は春絶のことを何も知らないのだと思わされる。そのことが今日は特に心に障った。
 自分が太宰府へ行ったとて、春絶には文を送ってくるような知古がある。まったく孤独だと思っていた彼を慕い、山中を歩く彼を追う獣もいる。

 春絶の知古は、いったいいつから春絶を知っているのだろう? 
 彼が生まれ、闇雲に野を駆けるさまを見たことはあるのだろうか? 
 彼が訳もなくもの寂しくなって月に吠えるその声を、聞いたことはあるのだろうか?

 名前を与えられたという事実は白綺の心を支えたが、しかしただそれだけで支えられるような心ではなくなっていた。
 明確に告げたくて、拒まれるのが恐ろしくて、けれどもただその庇護に預かりたいだけの子供ではないことを知ってほしくて。
 そうして勝手に一人で雁字搦めになっては、こうして手を煩わせて。
 それでも煩わせれば差し出されるその手が、どうしても嬉しくなる。

 思いを向けてほしいという気持ちはある。だが向けてほしいのは、庇護や慈悲ではない。

「私は……太宰府へ行きます」

 白綺が言った。春絶は短く「そうか」と答えた。その声からなにか聞き取れるものがあればと白綺は思ったが、春絶の声にはやはり抑揚がなく、木々のざわめきと同じだ。

「太宰府へ行き、己を鍛え、そして____必ずや立身出世し、戻ってきます」

 きっと、と白綺は繰り返した。刻みつけるように。それは自分に対してであり、そして春絶に対してでもある。
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