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第二章 神はいずこ
10 神は何れか
しおりを挟む思い起こせば全身が燃えるように沸き立つ記憶は、しかし極寒の白銀に塗りつぶされている。
____風も無いというのに、ただそこに満ち満ちた空気は肌を切るように鋭く、冷たい。
「面を」
手足が棒のようだ。指先ひとつ、もはや自分の意志では動かせない。
ギャアギャアと鴉が鳴いた。雪原に膝を折り、精魂尽き果てて首を垂れる己にはその姿は見えないが、喧しいその鳴き声と羽音に耳を塞ぐ気力も無い。
面を上げよ、面を上げよ、と鴉がいくら喚いても、出来るのはただ項垂れることだけだ。
音もなく振り続ける淡雪が肩に積もる。それがひどく重い。
鴉が、ふいに鳴き止む。
凍り付いた草花と雪とを踏みしめる足音が近づいてくる。
雪の上に散らばった赤い糸の切れ端はまるで血飛沫のようだ。それも間もなく、雪に覆い隠されるだろう。
__まったく笑えた話だ。昨晩まで鴨川を臨む納涼床で絢爛な夏の夜を過ごしていたというのに、今日は極寒の山嶺で野垂れ死にとは。
まったく笑えた話だ。
傾都の狐と持て囃された自分が、一夜にしてこんなに笑えた体だというのに、地獄から笑いに来る亡者も無ければ、俗世百景を酒乱の摘まみにしていた自分でさえ、自嘲ひとつ浮かべられない、などと。
サク、と場違いなほどに軽い足音と共に、黒く艶やかな革に包まれたつま先が視界に入る。
「面を」
まるで半分眠っているかと疑わしいほど凪いだ、穏やかな男の声だった。だがその抑揚のなさに脊髄がひやりとするのは、つい先刻まで何度もこの声の主に翻弄された記憶が骨にまで沁みついているからだ。
動くはずがないと思っていた体は、動いた。自分の意志でも気力でもどうともならなかった首はもたげ、顎を反らす。
まるで、自ら首を差し出すような無様なほどに仰け反ってようやく、声の主の全貌が視界に収まる。
それは黒い影だった。空も山も、木々も土も白く塗りつぶされた純白虚無の世界で、そこだけが奈落へ続く亀裂のように黒く裂けている。
「……満足いただけましたか、」どうにか言葉を発せば、まるで咎めるように冷たい空気が喉奥まで切り付ける。「随分と、まあ……苛烈な、沙汰もあったものだ……”裁きたがり”の噂は、かねがね、伺っておりましたがね……」
黒い影は。
奈落への亀裂は。
その男は。
いたぶるか? 尾を引き千切るか? 舌を抜くか? 指先から手足を裂くか? それとも犯すか?
経験のある拷問を一通り思い浮かべたが、果たして現実に起きたことはそのどれでもない。
手を取られた。もはや神力の抜け落ちた赤い糸が幾重にも指に絡みついたままの手を取り(随分と広く、こちらに負けず劣らず冷たい手だった)。
そして、男はおもむろにその手に口を寄せた。
「____、____」
絶句するこちらをよそに、男は数秒そのまま静止し、そして手をそっと離した。
「……血の匂いがする」
と、男は抑揚のない声で言った。「血と、涙。人と人外。老若男女の隔てなく、濃い。京のみならず、随分と愉しんだようだ」
男が虚空を仰いだ。振り続ける雪を浴びながら何事か思案するようにふたたび静止する。不思議なことに、雪は男の体や纏う黒い和服には積もることなく滑り落ちていく。
そしてあるとき、男が再び視線を寄越した。
雲のない夜に浮かんだ月のように、金色の双眸が音もなく光る。
「沙汰を下す。貴様の行いは、非である」
「ハッ……」
「京のみならず各地で他者を弄び、時としてその生命すら己が享楽のために嘲笑うその営みは律に反し、同情すべき点を差し引いても、到底許されるものではない」
「どうぞご自由に審判なされよ、思うがまま、死ぬまで私を弄ぶがいい。私がしたように__今度は、貴様が。私を嬲るがいい」
牙を剥いて返された言葉に、男は眉一つ動かさなかった。
「贖い(あがない)の何たるかを知らぬようだ、傾都の狐」
「よく知っていますよ」眉間に力を籠める。「あなたの先代によくよく、教えていただきましたからね____寝台の中で、ですが」
男の左耳がかすかに跳ねた。吊り下げた耳飾りも同じく。だがそれは雪のひとひらが掠めただけのことだ。
妙に腹が立った。こちらが投げかける言葉には一切揺らがない男を、あんな淡雪がくすぐったことが。
「それは重畳」
男が言った。「ならば、再び長い午睡に耽るがいい。貴様の慕う先代と共に」
言葉の意味を理解できなかったのは数秒だけだった。
まさか、と頭が理解すると同時に思わず口が開く。「まさか、あなた」
思わずその場に後ずさる。立ち上がることも出来ず、崩おれた姿勢のまま、這うように後ろへ下がっただけだ。
男はそんな行動すらも、まるで小石が転がるのを眺めるような目で見ている。ただ動いたものがそこにあるから目で追っている、とでも言わんばかりに。
だが__その金色の目がたしかに、一瞬、逸れたのを見逃さなかった。
逸れた先は、足元。
雪に覆いつくされた、地面。
己がはいつくばっているこの山の、地面の、雪の、氷の、草の根の、さらに下。
「まさか、」
____御山の頂。
霊峰に根差すこの巨大な神域は、まるで大きな墓のようだ。
「自らの先代まで……裁い____」
言葉は搔き消された。つんざくような鴉の断末魔、もとい号令によって。
高く一度、低く一度。それを三度。
「沙汰は下った」男が言った。「此れより先に罪は無く、此れより後に憂い無し」
永久の氷と雪に覆われたこの領域のどこから摘んできたというのか。
男の手には、一輪の椿があった。花弁を閉じていた椿は、男の手の中で盛りを迎えたようにひとりでに開いていく。
それに呼応するように、体から力が抜けていく。骨が脆く、ひび割れ、崩れていくのを感じる。肉が水気を含み、皮膚がほどけ、爪と牙が抜け落ちていく。
意識が急激にかすみ、自我がほつれる。
「罪過尽く腐り果て、彼の者の咎が雪がれんことを」
様々な人を見てきた。神も。妖も。混ざりものも。
長い間生きてきた。狐に生まれたからには、知恵をつけ、人を騙し、世を嘲笑い。そうして生きていく。生きていかねばならぬ。
嘲笑い、嘲笑われ、乞い、乞われ。いたぶり、いたぶられ。弄び、弄ばれ。
「怨恨の残火が安らかに、悲嘆の波濤は平らかであるように」
にわかに勢いを増した雪が嵐のように渦を巻いて視野を奪う。鴉が鳴いている。
吹雪にかすんで見えるのは、男が耳に着けている長い、朱色の飾りが靡くさまだけだ。
「再度の芽吹きには、必ずや御代の祝賀があらんことを」
長い間生きてきた。
しかし____祈られたのは、はじめてだった。
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