椿落ちる頃

四季山河

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第二章 神はいずこ

09-5 神は何時も

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「私は、」
 涙で濡れた唇が動いた。「わ、わたしは、神なのに……」
 そこから先は言葉にならなかった。喉元までせりあがっていたものはあったが、青年が口を閉ざしてしまった。
 行き場を失ったその言葉はすりつぶされ、それでもどうにか外へ這い出ようと藻掻き、そうして散々擦り切れて無色透明になった後、両目から零れた。
 おとがいへ伝い、ぶつかって太り、滴が椿の手の甲に落ちた。涙を拭くためのものを持っているのに、いつしかそのことは忘れていた。
 ____きっと。
 慰めるべきなんだろう、と思う。
 椿から見た青年は、記憶を失い、人智を超えた誰かでしかない。神かもしれないし、神ではないかもしれない。よく泣きよく笑い、常に一所懸命な喜怒哀楽の豊かな青年でしかない。
 けれど、青年にはそれが歯痒いのだろう。溌溂と気丈に振舞っているが、自分自身でも真偽の定かでない「己が何者か」ということへの疑いと期待、そして不安があるのだろう。
 椿は青年ではない。青年自身のことは、極論、そして正論ともに、青年にしか感じ取ることはできない。
 けれども、椿は少なくとも、青年がその振る舞いの裏に様々な懊悩を抱えている、ということは察している。共感はできずとも、そこまでは理解している。
 慰めるべきなんだろう。それは最もありふれたやさしさで、きっと青年を満足させるだろう。
 間違いのない方法を取るべきだ。
 誰もが選ぶだろう、その場しのぎをするべきだ。今はきっと。
 気休めを与えるべきだ。優しい嘘を吐けばいい。例えば、辛いのだろう、と不安を言い当てて、でもそれはいずれ晴れるものだ、などと未来に責任を投げ捨てておけば、少なくともその遠くへ投げた不安は、今日には戻ってこない。
 駄々っ子をあやすように、時間に解決を任せて、ただ自分は耳障りの良いことを言っておけばいい。
 椿は分かっている。
 椿はよく理解している。
 どうするべきか、どうすれば一番楽で、手間が少ないか、などと____そこまで考えて、分かっているのにそうしない時点で、分かっている。
 自分が「どうしたい」のか、もう分かっている。
 自分が、手間が多くて、責任をわざわざ自分で抱え込む、そういうことを、よりにもよって、したい、と考えていることを。
「神様、」
 泣かないで、と言うべきだ。泣かなくていいのだ、と。
 或いは、泣く必要などない、とさえ。
 そう言い続ければ、おそらく青年は泣き止むだろう。努力して、言葉をよく聞いて、いずれ自分で涙を止めるだろう。吐露したいものを、ひたむきにまた内側へ抑え込むのだろう。
 言うべき言葉がいくらでもあった。何を言っても慰めになりそうな気がした。
 嗚咽も音もなくただ流れていく涙を目の前にして、椿は試しに青年の右目尻へ指先を当てた。反射で青年が身じろぎ、瞬きをしてまた涙が流れる。目元ははっきりと熱い。
 人差し指の背で目じりを拭い、涙が湧いてくる瞼に添えてみても、それは止まなかった。涙は椿の指に絡みつくように流れ、手のひらまで伝った。
「カンナ?」
 青年がかぼそい声で呼ぶ。不思議そうに。何をしているのか、しようとしているのか、と言外に尋ねている。
 それが暗に、椿の行いが王道のそれでないことを示唆している。慰めて、優しくするべきだ。言葉を尽くして、責任をひとつひとつ取り除いて、遠くの明後日に投げ打って、解決したふりをしてやればいい。
 青年がついに目を閉じた。顔がぶつかると思ったのだろう。それほどまでに二人の顔は近づいていた。
 強く閉じた瞼から涙が押し出され、そこで一度止む。それを逃さず、椿はそこへ何の意味もなく口元を押し当てた。右と左の瞼へ、それぞれ一度ずつ。
 何の意味もない行為だ。治療でもなければ、願掛けですらない。
 ただ肌に肌をつけただけだ。それが瞼と口だっただけ。
 それでも、再び開かれた瞼からは、新たに何かが溢れることはなかった。
 まるでよくよく見せるように大きく見開かれた、白い鏡のような目を、椿も見返した。そうして完全に涙が止まっていることをよくよく確かめた。
「止まったね」
 椿がようやく言ったのは、やはり慰めでもなんでもなく、ただの事実だった。涙が止まった、という現状をただその通りに言った。風が吹いた、雨が降った、鳥が飛んだ。それと同じように。
「よかった」
 と、ただ事実だけを述べる。短く。それが心のことならば、ただしく本心そのままに。
 すると、まるで待っていたかのように部屋の戸が控えめに叩かれた。はい、と椿が応対すると、声が聞こえたのはむこうからも、お夕食を、という声があった。
「……もう夕飯の時間か」
 椿は自分の左手首に撒かれた腕時計を見た。そして青年を膝に乗せたまま立ち上がる。硬直か、あるいは脱力してぴくりともしない、目を見開いたままの青年を向かいの椅子に座らせ「支度してもらう間、此処にいるといい。障子は閉めておけば気づかれないし、風呂に行ってることにしておくから」
 青年は相変わらず目を開いたまま(溢れはしないが、涙の膜のおかげで目が乾かないのだろう)呆然としていたが、椿が尋ねるように首を傾けると、ややあって一度頷いた。それも随分古い絡繰りのようなぎこちない動きだったが。
「じゃあ、また後で」
 テーブルに置かれていた水入りのペットボトルを青年の方へ置き直し、そうして椿は窓際の板間を仕切る障子戸を閉めた。
 どうぞ、と室内からもう一度声をかけると、前掛けをつけた浴衣姿の女性二人が大きな膳を抱えて入ってくる(部屋の明かりがついていないことに驚いた様子だったが、それも一瞬のことで、彼女らはさっと照明をつけた)。広い畳の一間中央に鎮座する横長の卓上へ次々に皿が並べられていく様子は、まるで精密なパズルのようだった。
 過たず、これはこうと決まった場所へ正しく収まる。
「……やっちゃったな」
 思いがけず声に出していたらしい。「え?」と給仕担当の女性が振り返る。
「いえ、なんでも」
 椿は誤魔化し紛れにちいさく笑った。すると女性はうろうろと視線を泳がせ、ぎこちなくはにかみ返してから、先ほどとは違ってすこしたどたどしい手つきでまた皿を並べだす。
 椿は横目で、閉じた障子戸のほうを見た。透かしのない障子戸は、室内のほうが明るいために向こうの様子を影で見ることもできない。
 たかだか障子一枚のそれだ。横へ滑らせれば容易く開く。
 しかし自分が次にあの障子戸を開くときのことを考えて、椿は内心に零す溜息を堪えることはできなかった。
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