23 / 73
第二章 神はいずこ
09-5 神は何時も
しおりを挟む「私は、」
涙で濡れた唇が動いた。「わ、わたしは、神なのに……」
そこから先は言葉にならなかった。喉元までせりあがっていたものはあったが、青年が口を閉ざしてしまった。
行き場を失ったその言葉はすりつぶされ、それでもどうにか外へ這い出ようと藻掻き、そうして散々擦り切れて無色透明になった後、両目から零れた。
おとがいへ伝い、ぶつかって太り、滴が椿の手の甲に落ちた。涙を拭くためのものを持っているのに、いつしかそのことは忘れていた。
____きっと。
慰めるべきなんだろう、と思う。
椿から見た青年は、記憶を失い、人智を超えた誰かでしかない。神かもしれないし、神ではないかもしれない。よく泣きよく笑い、常に一所懸命な喜怒哀楽の豊かな青年でしかない。
けれど、青年にはそれが歯痒いのだろう。溌溂と気丈に振舞っているが、自分自身でも真偽の定かでない「己が何者か」ということへの疑いと期待、そして不安があるのだろう。
椿は青年ではない。青年自身のことは、極論、そして正論ともに、青年にしか感じ取ることはできない。
けれども、椿は少なくとも、青年がその振る舞いの裏に様々な懊悩を抱えている、ということは察している。共感はできずとも、そこまでは理解している。
慰めるべきなんだろう。それは最もありふれたやさしさで、きっと青年を満足させるだろう。
間違いのない方法を取るべきだ。
誰もが選ぶだろう、その場しのぎをするべきだ。今はきっと。
気休めを与えるべきだ。優しい嘘を吐けばいい。例えば、辛いのだろう、と不安を言い当てて、でもそれはいずれ晴れるものだ、などと未来に責任を投げ捨てておけば、少なくともその遠くへ投げた不安は、今日には戻ってこない。
駄々っ子をあやすように、時間に解決を任せて、ただ自分は耳障りの良いことを言っておけばいい。
椿は分かっている。
椿はよく理解している。
どうするべきか、どうすれば一番楽で、手間が少ないか、などと____そこまで考えて、分かっているのにそうしない時点で、分かっている。
自分が「どうしたい」のか、もう分かっている。
自分が、手間が多くて、責任をわざわざ自分で抱え込む、そういうことを、よりにもよって、したい、と考えていることを。
「神様、」
泣かないで、と言うべきだ。泣かなくていいのだ、と。
或いは、泣く必要などない、とさえ。
そう言い続ければ、おそらく青年は泣き止むだろう。努力して、言葉をよく聞いて、いずれ自分で涙を止めるだろう。吐露したいものを、ひたむきにまた内側へ抑え込むのだろう。
言うべき言葉がいくらでもあった。何を言っても慰めになりそうな気がした。
嗚咽も音もなくただ流れていく涙を目の前にして、椿は試しに青年の右目尻へ指先を当てた。反射で青年が身じろぎ、瞬きをしてまた涙が流れる。目元ははっきりと熱い。
人差し指の背で目じりを拭い、涙が湧いてくる瞼に添えてみても、それは止まなかった。涙は椿の指に絡みつくように流れ、手のひらまで伝った。
「カンナ?」
青年がかぼそい声で呼ぶ。不思議そうに。何をしているのか、しようとしているのか、と言外に尋ねている。
それが暗に、椿の行いが王道のそれでないことを示唆している。慰めて、優しくするべきだ。言葉を尽くして、責任をひとつひとつ取り除いて、遠くの明後日に投げ打って、解決したふりをしてやればいい。
青年がついに目を閉じた。顔がぶつかると思ったのだろう。それほどまでに二人の顔は近づいていた。
強く閉じた瞼から涙が押し出され、そこで一度止む。それを逃さず、椿はそこへ何の意味もなく口元を押し当てた。右と左の瞼へ、それぞれ一度ずつ。
何の意味もない行為だ。治療でもなければ、願掛けですらない。
ただ肌に肌をつけただけだ。それが瞼と口だっただけ。
それでも、再び開かれた瞼からは、新たに何かが溢れることはなかった。
まるでよくよく見せるように大きく見開かれた、白い鏡のような目を、椿も見返した。そうして完全に涙が止まっていることをよくよく確かめた。
「止まったね」
椿がようやく言ったのは、やはり慰めでもなんでもなく、ただの事実だった。涙が止まった、という現状をただその通りに言った。風が吹いた、雨が降った、鳥が飛んだ。それと同じように。
「よかった」
と、ただ事実だけを述べる。短く。それが心のことならば、ただしく本心そのままに。
すると、まるで待っていたかのように部屋の戸が控えめに叩かれた。はい、と椿が応対すると、声が聞こえたのはむこうからも、お夕食を、という声があった。
「……もう夕飯の時間か」
椿は自分の左手首に撒かれた腕時計を見た。そして青年を膝に乗せたまま立ち上がる。硬直か、あるいは脱力してぴくりともしない、目を見開いたままの青年を向かいの椅子に座らせ「支度してもらう間、此処にいるといい。障子は閉めておけば気づかれないし、風呂に行ってることにしておくから」
青年は相変わらず目を開いたまま(溢れはしないが、涙の膜のおかげで目が乾かないのだろう)呆然としていたが、椿が尋ねるように首を傾けると、ややあって一度頷いた。それも随分古い絡繰りのようなぎこちない動きだったが。
「じゃあ、また後で」
テーブルに置かれていた水入りのペットボトルを青年の方へ置き直し、そうして椿は窓際の板間を仕切る障子戸を閉めた。
どうぞ、と室内からもう一度声をかけると、前掛けをつけた浴衣姿の女性二人が大きな膳を抱えて入ってくる(部屋の明かりがついていないことに驚いた様子だったが、それも一瞬のことで、彼女らはさっと照明をつけた)。広い畳の一間中央に鎮座する横長の卓上へ次々に皿が並べられていく様子は、まるで精密なパズルのようだった。
過たず、これはこうと決まった場所へ正しく収まる。
「……やっちゃったな」
思いがけず声に出していたらしい。「え?」と給仕担当の女性が振り返る。
「いえ、なんでも」
椿は誤魔化し紛れにちいさく笑った。すると女性はうろうろと視線を泳がせ、ぎこちなくはにかみ返してから、先ほどとは違ってすこしたどたどしい手つきでまた皿を並べだす。
椿は横目で、閉じた障子戸のほうを見た。透かしのない障子戸は、室内のほうが明るいために向こうの様子を影で見ることもできない。
たかだか障子一枚のそれだ。横へ滑らせれば容易く開く。
しかし自分が次にあの障子戸を開くときのことを考えて、椿は内心に零す溜息を堪えることはできなかった。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
迷子のあやかし案内人 〜京都先斗町の猫神様〜
紫音@キャラ文芸大賞参加中!
キャラ文芸
【キャラ文芸大賞に参加中です。投票よろしくお願いします!】
やさしい神様とおいしいごはん。ほっこりご当地ファンタジー。
*あらすじ*
人には見えない『あやかし』の姿が見える女子高生・桜はある日、道端で泣いているあやかしの子どもを見つける。
「”ねこがみさま”のところへ行きたいんだ……」
どうやら迷子らしい。桜は道案内を引き受けたものの、”猫神様”の居場所はわからない。
迷いに迷った末に彼女たちが辿り着いたのは、京都先斗町の奥にある不思議なお店(?)だった。
そこにいたのは、美しい青年の姿をした猫又の神様。
彼は現世(うつしよ)に迷い込んだあやかしを幽世(かくりよ)へ送り帰す案内人である。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
サイキック・ガール!
スズキアカネ
恋愛
『──あなたは、超能力者なんです』
そこは、不思議な能力を持つ人間が集う不思議な研究都市。ユニークな能力者に囲まれた、ハチャメチャな私の学園ライフがはじまる。
どんな場所に置かれようと、私はなにものにも縛られない!
車を再起不能にする程度の超能力を持つ少女・藤が織りなすサイキックラブコメディ!
※
無断転載転用禁止
Do not repost.
英国紳士の熱い抱擁に、今にも腰が砕けそうです
坂合奏
恋愛
「I love much more than you think(君が思っているよりは、愛しているよ)」
祖母の策略によって、冷徹上司であるイギリス人のジャン・ブラウンと婚約することになってしまった、二十八歳の清水萌衣。
こんな男と結婚してしまったら、この先人生お先真っ暗だと思いきや、意外にもジャンは恋人に甘々の男で……。
あまりの熱い抱擁に、今にも腰が砕けそうです。
※物語の都合で軽い性描写が2~3ページほどあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる