椿落ちる頃

四季山河

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第二章 神はいずこ

08-3 神は出雲

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 新たな衣服を差し出してくる手を断り、試着室の奥へ椿は進んだ。太く短い通路のようになった左右にコンクリート風の壁とグレージュのカーテンで仕切られた試着室が左右それぞれ三つずつ並んでいる。今、カーテンが閉じているのは右側一番奥の試着室だけだ。あれだけ列を成していた店員も随分掃けて、一人残った若い男性店員が室内から服を受け取ってバックヤードへ下がると、奥まったその空間には椿と、確かめるまでもなくカーテンを隔てた向こうに青年しかいない。
「神様?」
 近くに店員はいない。それでも十分に小さな声で呼びかけたつもりだったが、あからさまにカーテン向こうで何かが動いたのが分かった。
「気に入った服はあった?」
 うむ、か、いや、か判然としない、返事なのかどうかも定かでない呻きがあった。「開けるよ」ともあれまさか裸ということはあるまい。椿は声をかけるとほとんど同時にカーテンを開けた。
 青年はそこにいた。二本足で立って、五体満足で、勿論服も着ていた。
 髪はほどいて、肩のあたりでゆるく一度、二度ほど大きく編まれて垂らしている。それだけで随分と印象が変わったので、一瞬別人かと面食らった。
 とはいえその驚きは一瞬のもので、もっとも注目すべき点はほかにある。
「……その服、俺が今着てるやつじゃない?」
 落ち着いたダークグレーのコート。
 限界まで目をそらし、十分だがけして広々とはいえない試着室の壁をねめつけている青年は何も言わない。何故か不機嫌そうに眉を寄せ、真横の壁を親の仇のように凝視しているだけだ。
 だがどれだけ不機嫌さを丸出しにしても、黙りこくっても事実は変わらない。
 少なくとも椿が眺めていた頃、店員があれこれと見繕った服のジャンルと、今青年が身に着けている__全体的に暗く、素材感の違いによって似たような色合いの中でもうまくレイヤードされている__服は、毛色がまったく異なる。
 似合っていないわけではないが、髪や目の色が薄いこともあって、かえって浮世離れしたその風貌の異質さが際立っている。
 世間になじむための服を探しに来たのに、この服で出歩けばなおさら目立つだろう。
 とはいえ。
「__その服が気に入った?」
 本人が好むのならばそれが一番だろうと思っての言葉だったが、言われた青年はがばりと顔を上げ、断言した。
「違うが!?」
「違うの」
「全然違うが!」青年はそそくさと上着を脱ぎ始めた。中には体の輪郭をそのまま見せるタイトなタートルネックのセーターを着ていた。「まあ? 私ほどもなれば似合わぬ服というものがそもそも無いのだが。なにこれは、これは、えっとその、お前がなんぞ色気づいているようだったのでな、本物の美形というものがどんなものかを教えてやろうとだな、そう、そう思って、ええと、だからこれは先達としての責務であって」
「似合ってはいるよ」
「そ、そんなことは分かってる! 私に似合わぬものなどない」
「買ったら? いや、払うのは俺だけど、気に入ったならそれにしようか」
 青年は一度は脱いだその服をじろじろと見て、そうして今度は椿をちらっと見た。
 無論、今の椿は店員に勧められた上着を着たままの姿だった__それこそ今しがたまで青年が着ていたものと同じで、サイズ違いのそれを。
「神様がそれを買うなら、俺は別のにするから構わないよ」
「い、いい。私が別のものにする」青年は丁寧に上着を腕に畳んだ。「お前はそれにせよ。折角店の者が見立ててくれたのだ、間違いはあるまい」
 椿は不思議に思ったが、青年は青年で特に嘘をついている様子ではない。結局、大量に店員から勧められた衣服のうち、始めの方に誂えられたいくつかの組み合わせをそのまま購入することになった。特に上着についてはフード付きの白いブルゾンになった。
 会計の折、上着は本当にあれでいいのかと再三確認したが、青年は「よい」と断言した。
「なんというか、黒い上着というのは着ていて落ち着かんな」
「自分から試着まで頼んだのに?」
「それはお前の伸びた鼻の下を治すためだ!」
「そんなに伸びてたかな」
「伸びていた」青年はこの件にやけに拘った。「まったく、お前は曲がりなりにも私のいま唯一の信者なのだから、振る舞いにも相応のものを求めるぞ。お前が誰かれ構わずでれでれしていたら、その守り神たる私も軟派者だと思われるだろうが」
「そもそも俺以外に神様のこと神だって思ってる人いるのかね」
「お前はなんでそう次から次へと不敬なことを……」
 二人分の服はそれなりの大荷物になったが、店員がうまく袋に詰めた。ついでに日用品を買い足し、行きにやたら青年が気を引かれたインクの消せるペンもついでに買ってやって、それからようやく帰路に就く。
「お前は黒が合うな」
 アパートに戻り、買った服をがらんどうのクローゼットに仕舞っている最中、青年が言った。既に正午を過ぎて、遅めの昼食の支度を始めるべく、下ろしていた髪を無び直そうとみつあみをほどきつつ。
「黒が似合わない人ってそうそういないと思うけどな」
「む」
「ああ、でも神様は似合わないか……いや、黒より白が極端に似合うから、他の色だとどうもしっくりこないって意味で」
 不機嫌そうな空気を取り繕うために思いつくまま言ってみたが、それは紛れもない事実だった。仕事用のジャケットやシャツしかない、それこそ業務店の倉庫のようなクローゼットでそこだけ異様な高貴さを放っている青年の純白の羽織を見る。新雪のような濁りのない下地に、淡い金色の糸で翼のような紋様が繊細に縫いこまれている。いったいどこの職人の一級品なのやら。
 一通り買った衣服を収納して、空になった袋を折り畳み振り返る。青年は完全に髪を下ろしていた。一本一本が細く、房になってあちこちへ跳ねる毛先も、下ろしてみると髪自体の重さで随分と大人しく、しおらしい。
「なんだ」
 急に黙った椿を不振がった青年に問われ、しかし椿は、いや、としか言わない。

「言いたいことがあるのなら申せ……あ、いやでも、不敬はなしだ。誉め言葉ならば言え、たんと言え」
「いや、神様が髪下ろしてるところを見ると、どうも落ち着かないなと思って」
「うん?」
 意外な発言だったのか、青年は無防備に不思議がり、ほどいた髪を揺らすように頭を何度か振った。
「私の髪が美しいのは今に始まったことではないが__ほう? なんだ、遠回しに髪を褒めているのか、ほほう、カンナ貴様、愛いところもあるではないか」
「若干辛うじてある意味では大人し目に見えなくもないからかな。本当はそうじゃないって知ってるだけに、どうも納得がいかない気分になるというか」
「たまには素直に私を褒められんのか!」
 見せつけるように高々と髪を一つに縛り上げ、青年はどすどすと足を鳴らしてキッチンの方へ去っていった。
 リビングに残された椿は「下の階の人の迷惑になるから静かに」と言いつつ、そして言った途端素直に静かになった足音に苦笑した。
 必要な物はそろった。出雲への出立はもう間もなくだ。冷蔵庫の中身を使い切らなければならない、今日の食事は豪勢になるだろう。
 

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