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第一章 神が降ってきた
07−1 神無月
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ともかく、あんまりにも呆気なく椿は会社を出た。
外は明るかった。曇天であるが、空気が澄んでいる。会社のあるビル前の公園に突き立てられた時計は正午を指していた。
昼休憩であろうとこんな時間にデスクを離れられたことはない。
非現実的な感覚が浮遊感のように全身を駆け上り、そしてそれはすぐに、現実の重さを伴って両肩にのしかかった。
「カ、カンナ……」
「ん?」
「あ、あの、そ、その」
「なに?」
「て、てが」
言われて、椿は自分がまだ青年の手を握っていたことを思い出した。だがそれがどうしたというのか。あの場で手を放していたら今頃何が起きていたか。予想だにできないことだが、予想できる事態の一つとしては、ビルの中で青年が迷子になることだ。
椿が何も言わないでいると、青年の方から手を振り解いた。「わ、私を稚児のように扱うな!」
「はあ」
「それより、何故邪魔立てをした! 折角貴様の屈辱を晴らそうとしてやろうと」
「頼んでない」
「頼んだだろう! 助けろと!」
「そんなのいつ……」
言いかけて、その途中で椿は思い出した。思い出すまでもない。昨晩のことだ。さらに言えば半日前ほどのことだ。眠る寸前のことだったので記憶がおぼろげだ、という言い訳も遅い。はっきりと思い出した。
助けてみるか、と吹っ掛けたのは自分だ。しかも自分は焼き討ち以外でとしか言っていない。
無論冗談だったと言えばそれまでのことだが、それはまるで、下らない見栄や興味本位で犯罪を犯した度し難い犯罪者のようだ。
「言った!」
「……まあ、言ったけども」
「そら見たことか! いい年こいて自らの言動に責任を持たんか!」
鬼の首を取ったように勢いを取り戻した青年に、さしもの椿も心が動いた。
つまり、少々腹が立った。
「責任、ねえ」
「む」
かすかに風向きが変わったのを青年は鋭敏に察したようだ。かすかに勢いを失い、警戒するように肩を縮めて「な、なんだ」とそれでも果敢に噛みつく。「れ、礼ならいらんぞ。礼以外はもっといらん!」
「あんな騒ぎ起こして上司にあんな口きいて____これ、クビだな」
「うっ」
分かりやすく顔色を悪くした青年に椿は続けた。物憂げな溜息を吐き。
「よしんばクビにならなくても異動だろうな、それも支社ごとの。全国転勤で僻地に飛ばされるんだろうなあ、独り身だし、人事が遠慮する理由はないし。あーあ、これ、俺の生活どうなっちゃうんだろうなあ」
「う、ぐ、ぐぐ……す、すま、す……」
「ん?」
「し、しかし、悪逆は、た、正さねば……」
段々尻すぼみになっていく青年の声は、まもなく顔を近づけ耳を寄せてもごにょごにょと何を言っているか分からなくなった。すまんと言いかけてはしかしだの悪逆はどうだの言って、そしてまた思い出したように謝罪しかけ、いやしかし悪は断じて云々。
心なしか、ほうぼうに跳ねた青年の髪もしおれたように見える。特に癖が強くあちこちに向いている顔周りの髪がすっかりぺしゃんこになっているのを見るにつけ、椿はついに「いいよ」と言った。「冗談。怒ってない」
青年がちらと椿を見やる。その目にはまだ疑いがあった。
怒ってないよ、と椿はその目を見て言った。鏡のような白く透き通った青年の目に、自分とよく似た、しかし自分とは思えない表情をした男が映っていた。
「元々なんとも思ってなかったのは本当だけど、今日、ああやって怒ってくれるところを見て……ああ、嬉しかったんだろうな。これも本当のことだ」
「む……」
「良い機会だ。考えてみるかな、神様の言うところの、生活とか、人生とかいうやつ」
枯れた花にひとしずく恵みの雨が降ったような。
例えるならそんな表情だった。みるみるうちに青年の顔が明るくなり、その目に輝きがともる。「うん」と青年は勢い余って言った。
「うん__うん、うむ、それがいい! お前は陰険で何を考えているかわからんような奴だが、勤勉だし体も丈夫だ! お前ならばもっと良い務めに巡り合おう」
「いま陰険って言った?」
「気にするな! 些事だ!」
湧き上がる活力のままずんずんと歩き出した青年に、椿はとりあえずついて歩いた。何処へ行くのだろうか。聞こうかと思ったが止めた。日はまだ高いし、何処へ行ったって構わない。
「元気が出たところ悪いけど、神様」
「なんだ」
「俺の方はだいぶ力ずくで解決__まあ、ひと悶着つけてもらったところだし、そろそろいい加減、自分のこと考えたら?」
公園を突っ切って間もなくの横断歩道を渡っている最中、ぴたりと青年の足が止まる。その横を後ろから椿が追い越して、それでも固まったままの青年に、腕を伸ばして引き摺っていく。やや間抜けなメロディが急かす中、赤信号に切り替わる寸前二人は道路を渡り切った。
なんとなく中心街のほうへ向かって歩いているが、青年の格好が格好なので人目を集めてしまう。適当な、チェーン店のような大きさのない個人経営の喫茶店を見つけるなり、そこへ入った。
貸しビルの一階で小ぢんまりと経営している喫茶店に客はいなかった。丸眼鏡をかけ、さっぱりと剃髪した頭に生成りのシャツを着た男主人がかすれた声で歓迎し(店主は青年の格好に驚きもしない)、其れきり特に案内もしないので、椿はフロアの一番奥のテーブルに座った。フロアにあるテーブルはどれもデザインがまちまちで、それこそ一番奥はアジアンテイストな木製に掘り細工のなされたものだが、他の二組は天板がタイル張りと、もう一つはこれという特徴のない丸テーブルだ。ただ椅子だけは元々備え付きなのか、一様に赤くすすけたベルベッド張りのソファだった。
田舎の家にありそうな古い、竹で編まれた衝立の奥のテーブルに取り急ぎお冷のグラスが運ばれてくるなり、青年が切り出した。
「私も、いちおう記憶が無いという事実を受け止め、先入観を捨ててもう一度我が身を振り返ったのだが」
「うん」
「私は……やはり私は、神だと思うのだ」
「まだ言ってる」
「ちが! 聞け、ちゃんと根拠がある!」
店内にはかすかにバラードが流れている。曲名はもちろん知るはずもない。ゆったりとした音楽に低いアルトで歌う女性の声が混じり、沈黙も雑談もごく自然と受け止め、ぼかしている。
青年がソファに浅く座り直し、ずいと顔を椿の方へ近づける。そして顔の角度を少し変えてみたりなどしてから、
「どうだ、何か気づかないか」
と、まるで髪を切った翌日の恋人のようなことを言う。目を爛々とさせ、肌をやや上気させたその顔には、期待と興奮が滲み出ている。
そして現に椿は、なんとなしに正解を言い当てた。
「なんか……艶々してるね?」
「わかるか!」
「しー」
丁度店主が注文を伺いにやってきたので、椿は日替わりのランチセットを二人分頼んだ。飲み物はホットコーヒーとミルクティーにした。
店主が再びカウンター奥の厨房へ戻るなり、青年は律儀に「わかるか」と小さな声で繰り返した。
「お前と会って間もない頃は、いや勿論目覚めた直後から私の留まるところを知らない人智を超えた風格は溢れていたのだが」
「はいはい」
「ぐ……とはいえだな、やはりまだ漠然としたところはあったのだ。およそ常人に収まる膂力でないことは確か。だが、それが具体的にどの程度の力で、したがって私は何か、という点については、少々自信がなかった」
自信がないにしては初日から随分な名乗り口上をあげていたものだが、とは言わないでおく。
「だがここ数日、いや、お前と寝食を共にするようになってからだ、私の中の霊力が漲る……分かりやすく言えば、ひどく調子が良い。そういう実感がある」
「で、それがなんで自分が神様だっていう理屈に繋がる?」
椿の問いに、青年は待っていたように一つ頷いた。
「私も考えた。この妙な高揚感とでも言おうか、この満ち足りていく感覚が始まったのは、その発端はなんだったのか、と。それは、お前が私を”神様”と呼び始めてからなのだ」
「それは煽てられて気分がよくなった、ということじゃなく?」
「違わい」
「違うんだ」
「お前も」青年は口を尖らせた。「納得はしているのではないか? 私が人智を超えた__人智より逸れた存在だということに」
店主が再びやってきて、二人分の飲み物とホットサンド、ヨーグルトにサラダの付け合わせを乗せたプレートを的確に配置した。
ホットサンドは焼き立てだろう、香ばしい小麦とバターの香りに、焼き目のついたトーストから沸き立つ熱気すら感じる。コーヒーの低い香り、ミルクティーの甘い香り。
二人分の食事を注文したのは椿だ。これまでも、生活を共にするようになってから食事は常に二人分あった。だが椿は、青年が食事を必要としていないことをなんとなく察していた。
寝食を共にするからこそ分かる。既に分かっていることがある。
事実として、まずこの青年は排泄行為をしていない。食事をし、水を飲んでもそういったそぶりを見せない。そして、毎日風呂には入るものの、少なくとも日常生活のかぎりにおいて、汗の一つかいている姿を見たことがないし、自分以外のものが生活空間に混じったというのに、椿の鼻は他人の臭いをそこに一切感じていない。
「まあ、普通の人間じゃないだろうな、とは思っている」
「そこまで分かっていて……お前のその妙な豪胆さというか、泰然とした態度は一種称賛に値するな」
「ん? ありがとう」
「褒めておらんわ、そういう存在がおるというのだからもっと崇めたり称えよと言うに」
「今のところ、有給休暇使えるようなドデカいきっかけをくれた以外には、とくに崇める理由が無いからな。ああいや、毎日ご飯をつくってくれてありがとう。本当なら毎回言わなきゃいけないことだった」
青年は一瞬にやけたようだが、即座にその顔を引き締めた。
「ともかく、だな。お前が私を”神”と認識__どんな形であれ”そう”と表象したことが私に力を与えた」続けて青年は人差し指を立てた。「そしてもう一つ、これは一つ賭けのようなものでもあったのだが、私がお前の”守り神だ”と名乗ったのを覚えているか」
流石に忘れるには早すぎることだ。椿が頷くと、青年も満足げに頷き、一度ミルクティーで喉を潤した。
「あれはな、契約だ」
「契約?」
「賭けのようなもの。物は試し、というところではあったのだが。どうも私の感覚と、あの時の周囲の人間の当てられようを見るに、結果は是と出たようだ」
「……正直よくわかってないんだけど、そもそも契約っていうのは、何を指してる。俺が助けてみろと言って、神様が守り神として助けたこと?」
「いいや」
青年はゆっくりと首を振り、そして手に持っていたカップをソーサーに戻す。
「この場合の契約は、お前が私を神と呼び、そして私が、私はお前の神だと応じたことだ。神であることを求められ、そしてその在り様に応じた。神か、と問われ、神だ、と答えた。それも具体的に、お前の守り神として」
契約と呼ばれるより、問答と呼ぶ方が認識しやすいのやもしれない、と青年は付け加えた。「元来神というものは、天照大神や国起こしに携わったような原初の存在を除けば、信仰あって存在するもの。この信仰というのも、毎朝毎晩祈祷をするというものに限らず、無意識的なものでもよいのだ。
例えば、そうだな、特にこの国では、自然への畏れを誰しもが抱いているだろう。大地が割れ、海が荒れ、山が崩れ……そういった事象に対して、自然という存在、ともすれば自然という人格があって、それが災害を引き起こしていると。故に、自然というものを敬い、その機微を伺う。八百万に神が宿ると、この国のものは皆、言葉にせずとも誰に習わずとも、そうどこかで思っている。そしてその無意識という心の深奥から生み出される信仰が、事実、この国に八百万の神を存在させている」
外は明るかった。曇天であるが、空気が澄んでいる。会社のあるビル前の公園に突き立てられた時計は正午を指していた。
昼休憩であろうとこんな時間にデスクを離れられたことはない。
非現実的な感覚が浮遊感のように全身を駆け上り、そしてそれはすぐに、現実の重さを伴って両肩にのしかかった。
「カ、カンナ……」
「ん?」
「あ、あの、そ、その」
「なに?」
「て、てが」
言われて、椿は自分がまだ青年の手を握っていたことを思い出した。だがそれがどうしたというのか。あの場で手を放していたら今頃何が起きていたか。予想だにできないことだが、予想できる事態の一つとしては、ビルの中で青年が迷子になることだ。
椿が何も言わないでいると、青年の方から手を振り解いた。「わ、私を稚児のように扱うな!」
「はあ」
「それより、何故邪魔立てをした! 折角貴様の屈辱を晴らそうとしてやろうと」
「頼んでない」
「頼んだだろう! 助けろと!」
「そんなのいつ……」
言いかけて、その途中で椿は思い出した。思い出すまでもない。昨晩のことだ。さらに言えば半日前ほどのことだ。眠る寸前のことだったので記憶がおぼろげだ、という言い訳も遅い。はっきりと思い出した。
助けてみるか、と吹っ掛けたのは自分だ。しかも自分は焼き討ち以外でとしか言っていない。
無論冗談だったと言えばそれまでのことだが、それはまるで、下らない見栄や興味本位で犯罪を犯した度し難い犯罪者のようだ。
「言った!」
「……まあ、言ったけども」
「そら見たことか! いい年こいて自らの言動に責任を持たんか!」
鬼の首を取ったように勢いを取り戻した青年に、さしもの椿も心が動いた。
つまり、少々腹が立った。
「責任、ねえ」
「む」
かすかに風向きが変わったのを青年は鋭敏に察したようだ。かすかに勢いを失い、警戒するように肩を縮めて「な、なんだ」とそれでも果敢に噛みつく。「れ、礼ならいらんぞ。礼以外はもっといらん!」
「あんな騒ぎ起こして上司にあんな口きいて____これ、クビだな」
「うっ」
分かりやすく顔色を悪くした青年に椿は続けた。物憂げな溜息を吐き。
「よしんばクビにならなくても異動だろうな、それも支社ごとの。全国転勤で僻地に飛ばされるんだろうなあ、独り身だし、人事が遠慮する理由はないし。あーあ、これ、俺の生活どうなっちゃうんだろうなあ」
「う、ぐ、ぐぐ……す、すま、す……」
「ん?」
「し、しかし、悪逆は、た、正さねば……」
段々尻すぼみになっていく青年の声は、まもなく顔を近づけ耳を寄せてもごにょごにょと何を言っているか分からなくなった。すまんと言いかけてはしかしだの悪逆はどうだの言って、そしてまた思い出したように謝罪しかけ、いやしかし悪は断じて云々。
心なしか、ほうぼうに跳ねた青年の髪もしおれたように見える。特に癖が強くあちこちに向いている顔周りの髪がすっかりぺしゃんこになっているのを見るにつけ、椿はついに「いいよ」と言った。「冗談。怒ってない」
青年がちらと椿を見やる。その目にはまだ疑いがあった。
怒ってないよ、と椿はその目を見て言った。鏡のような白く透き通った青年の目に、自分とよく似た、しかし自分とは思えない表情をした男が映っていた。
「元々なんとも思ってなかったのは本当だけど、今日、ああやって怒ってくれるところを見て……ああ、嬉しかったんだろうな。これも本当のことだ」
「む……」
「良い機会だ。考えてみるかな、神様の言うところの、生活とか、人生とかいうやつ」
枯れた花にひとしずく恵みの雨が降ったような。
例えるならそんな表情だった。みるみるうちに青年の顔が明るくなり、その目に輝きがともる。「うん」と青年は勢い余って言った。
「うん__うん、うむ、それがいい! お前は陰険で何を考えているかわからんような奴だが、勤勉だし体も丈夫だ! お前ならばもっと良い務めに巡り合おう」
「いま陰険って言った?」
「気にするな! 些事だ!」
湧き上がる活力のままずんずんと歩き出した青年に、椿はとりあえずついて歩いた。何処へ行くのだろうか。聞こうかと思ったが止めた。日はまだ高いし、何処へ行ったって構わない。
「元気が出たところ悪いけど、神様」
「なんだ」
「俺の方はだいぶ力ずくで解決__まあ、ひと悶着つけてもらったところだし、そろそろいい加減、自分のこと考えたら?」
公園を突っ切って間もなくの横断歩道を渡っている最中、ぴたりと青年の足が止まる。その横を後ろから椿が追い越して、それでも固まったままの青年に、腕を伸ばして引き摺っていく。やや間抜けなメロディが急かす中、赤信号に切り替わる寸前二人は道路を渡り切った。
なんとなく中心街のほうへ向かって歩いているが、青年の格好が格好なので人目を集めてしまう。適当な、チェーン店のような大きさのない個人経営の喫茶店を見つけるなり、そこへ入った。
貸しビルの一階で小ぢんまりと経営している喫茶店に客はいなかった。丸眼鏡をかけ、さっぱりと剃髪した頭に生成りのシャツを着た男主人がかすれた声で歓迎し(店主は青年の格好に驚きもしない)、其れきり特に案内もしないので、椿はフロアの一番奥のテーブルに座った。フロアにあるテーブルはどれもデザインがまちまちで、それこそ一番奥はアジアンテイストな木製に掘り細工のなされたものだが、他の二組は天板がタイル張りと、もう一つはこれという特徴のない丸テーブルだ。ただ椅子だけは元々備え付きなのか、一様に赤くすすけたベルベッド張りのソファだった。
田舎の家にありそうな古い、竹で編まれた衝立の奥のテーブルに取り急ぎお冷のグラスが運ばれてくるなり、青年が切り出した。
「私も、いちおう記憶が無いという事実を受け止め、先入観を捨ててもう一度我が身を振り返ったのだが」
「うん」
「私は……やはり私は、神だと思うのだ」
「まだ言ってる」
「ちが! 聞け、ちゃんと根拠がある!」
店内にはかすかにバラードが流れている。曲名はもちろん知るはずもない。ゆったりとした音楽に低いアルトで歌う女性の声が混じり、沈黙も雑談もごく自然と受け止め、ぼかしている。
青年がソファに浅く座り直し、ずいと顔を椿の方へ近づける。そして顔の角度を少し変えてみたりなどしてから、
「どうだ、何か気づかないか」
と、まるで髪を切った翌日の恋人のようなことを言う。目を爛々とさせ、肌をやや上気させたその顔には、期待と興奮が滲み出ている。
そして現に椿は、なんとなしに正解を言い当てた。
「なんか……艶々してるね?」
「わかるか!」
「しー」
丁度店主が注文を伺いにやってきたので、椿は日替わりのランチセットを二人分頼んだ。飲み物はホットコーヒーとミルクティーにした。
店主が再びカウンター奥の厨房へ戻るなり、青年は律儀に「わかるか」と小さな声で繰り返した。
「お前と会って間もない頃は、いや勿論目覚めた直後から私の留まるところを知らない人智を超えた風格は溢れていたのだが」
「はいはい」
「ぐ……とはいえだな、やはりまだ漠然としたところはあったのだ。およそ常人に収まる膂力でないことは確か。だが、それが具体的にどの程度の力で、したがって私は何か、という点については、少々自信がなかった」
自信がないにしては初日から随分な名乗り口上をあげていたものだが、とは言わないでおく。
「だがここ数日、いや、お前と寝食を共にするようになってからだ、私の中の霊力が漲る……分かりやすく言えば、ひどく調子が良い。そういう実感がある」
「で、それがなんで自分が神様だっていう理屈に繋がる?」
椿の問いに、青年は待っていたように一つ頷いた。
「私も考えた。この妙な高揚感とでも言おうか、この満ち足りていく感覚が始まったのは、その発端はなんだったのか、と。それは、お前が私を”神様”と呼び始めてからなのだ」
「それは煽てられて気分がよくなった、ということじゃなく?」
「違わい」
「違うんだ」
「お前も」青年は口を尖らせた。「納得はしているのではないか? 私が人智を超えた__人智より逸れた存在だということに」
店主が再びやってきて、二人分の飲み物とホットサンド、ヨーグルトにサラダの付け合わせを乗せたプレートを的確に配置した。
ホットサンドは焼き立てだろう、香ばしい小麦とバターの香りに、焼き目のついたトーストから沸き立つ熱気すら感じる。コーヒーの低い香り、ミルクティーの甘い香り。
二人分の食事を注文したのは椿だ。これまでも、生活を共にするようになってから食事は常に二人分あった。だが椿は、青年が食事を必要としていないことをなんとなく察していた。
寝食を共にするからこそ分かる。既に分かっていることがある。
事実として、まずこの青年は排泄行為をしていない。食事をし、水を飲んでもそういったそぶりを見せない。そして、毎日風呂には入るものの、少なくとも日常生活のかぎりにおいて、汗の一つかいている姿を見たことがないし、自分以外のものが生活空間に混じったというのに、椿の鼻は他人の臭いをそこに一切感じていない。
「まあ、普通の人間じゃないだろうな、とは思っている」
「そこまで分かっていて……お前のその妙な豪胆さというか、泰然とした態度は一種称賛に値するな」
「ん? ありがとう」
「褒めておらんわ、そういう存在がおるというのだからもっと崇めたり称えよと言うに」
「今のところ、有給休暇使えるようなドデカいきっかけをくれた以外には、とくに崇める理由が無いからな。ああいや、毎日ご飯をつくってくれてありがとう。本当なら毎回言わなきゃいけないことだった」
青年は一瞬にやけたようだが、即座にその顔を引き締めた。
「ともかく、だな。お前が私を”神”と認識__どんな形であれ”そう”と表象したことが私に力を与えた」続けて青年は人差し指を立てた。「そしてもう一つ、これは一つ賭けのようなものでもあったのだが、私がお前の”守り神だ”と名乗ったのを覚えているか」
流石に忘れるには早すぎることだ。椿が頷くと、青年も満足げに頷き、一度ミルクティーで喉を潤した。
「あれはな、契約だ」
「契約?」
「賭けのようなもの。物は試し、というところではあったのだが。どうも私の感覚と、あの時の周囲の人間の当てられようを見るに、結果は是と出たようだ」
「……正直よくわかってないんだけど、そもそも契約っていうのは、何を指してる。俺が助けてみろと言って、神様が守り神として助けたこと?」
「いいや」
青年はゆっくりと首を振り、そして手に持っていたカップをソーサーに戻す。
「この場合の契約は、お前が私を神と呼び、そして私が、私はお前の神だと応じたことだ。神であることを求められ、そしてその在り様に応じた。神か、と問われ、神だ、と答えた。それも具体的に、お前の守り神として」
契約と呼ばれるより、問答と呼ぶ方が認識しやすいのやもしれない、と青年は付け加えた。「元来神というものは、天照大神や国起こしに携わったような原初の存在を除けば、信仰あって存在するもの。この信仰というのも、毎朝毎晩祈祷をするというものに限らず、無意識的なものでもよいのだ。
例えば、そうだな、特にこの国では、自然への畏れを誰しもが抱いているだろう。大地が割れ、海が荒れ、山が崩れ……そういった事象に対して、自然という存在、ともすれば自然という人格があって、それが災害を引き起こしていると。故に、自然というものを敬い、その機微を伺う。八百万に神が宿ると、この国のものは皆、言葉にせずとも誰に習わずとも、そうどこかで思っている。そしてその無意識という心の深奥から生み出される信仰が、事実、この国に八百万の神を存在させている」
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