椿落ちる頃

四季山河

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第一章 神が降ってきた

05-1片鱗

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 結果的に、と言ってしまえばそれまでのことだが、青年はその後も椿のアパートに居続けた。

 一宿一般の恩を返さずには去れない、というのが青年の言い分だったが、椿からすればその恩人の家に居候して一宿一飯を繰り返すのは恩を返すどころか返すべき恩を増やしているのでは、と思わないでいられない。思わないではいられなかったが、面倒なので口にはしなかった。
 実際、部屋が少々手狭になったことを除けば、青年が転がり込んできたことに対する文句は無い。
 もともとこのアパートは椿にとって性格の拠点でこそあるものの、それは「眠る場所」だとか、「食事をとる場所」「体を洗う場所」という意味合いが大きかった。だからこそ赤の他人が転がり込んできても、荒らされたり壊されたりしなければ、特になんとも思わない。
 そして青年もまた、居候という大前提こそあるものの、あれこれと世話を焼き始めた。
「お前は自分の身の回りに関心がなさすぎる」
 というのが専ら青年の叱り文句だった。
「お前は勤勉だと言ったが訂正する。お前は何もかもに関心がないゆえに、すべき、という義務に勝るものがないのだ。あれをしたい、これをしたい、という欲求がないから、すべきことだけをただやるだけ。これはいかん」
「はあ」
「はあ」青年はわざとらしく肩を大きく下げて腑抜けた顔をした。そしてすかさず眉を吊り上げる。「じゃない! もっとしゃんとしろ! まずはその半分しか開いていない目を開け! 花鳥風月を愛で、季節の移り変わりに感ずれば、おのずと日々の営みに張り合いも出よう」
「花鳥風月、ねえ」
 椿はふと手元を見下ろした。
 仕事を終えて帰宅したリビングのテーブルには、つい数日前に仕事帰りに買いそろえた食器類が所狭しと並んでいる。どれも百円ショップで買った安物だが、少なくとも同行した青年は色がどう形がどうといちいち品評して選んでいた。
 白米を盛り付けた茶碗に、汁物用のそれ。四角の小ぶりで底の深い小鉢には白菜と鷹の爪を和えた酢の物。
 そして中央の楕円形の大皿に鎮座する山のような唐揚げ。
 いつ何処で何の為に買ったのか定かでない業務用鶏肉の化石が冷凍庫の奥から発掘されたのは一昨日の晩のことだ。一宿一飯のうち、宿の恩は諦め、ならばせめて飯は返すと食事当番を買って出た青年はこの恩返しに熱中している。
 まるで初めてキッチンに立った子供のよう。
 火を吹くコンロに猫のように固まっていたかと思えば、三日目には二口あるそれで各々同時に焼き物と汁物を作るという芸当を覚えた。「つまり薪のいらぬ竈ようなものだろう」とは本人の言だ。だが相変わらず電子レンジの温め終わりの合図にはいちいち驚いている。
 はじめは椿と似たり寄ったりの実に質素な一汁一菜の食卓も、青年が朝晩の情報番組を見るようになってからというもの、突然スイスの芋料理(ただしそれは芋を薄く切って、フライパンに敷き詰めて焼いただけのもののようだ)が出てきたかと思えば、次の日には地獄のような色の火鍋が出てきたりと随分多国籍になった。
 そして満を持しての唐揚げである。
 昨日の夜からごそごそと調味料と袋に詰め、寝る寸前まで何度も「いいか、冷蔵庫の中にある袋の中身は食うなよ」と椿に念押しした。そのうちの何度かは既に寝ているところを起こされての念押しだった。
「たしかに」
 椿は言った。新たに端で持った唐揚げをまじまじと見つめる。
 手ごろな大きさに切られた唐揚げは薄く硬い衣に包まれ、噛むと竹を割るような小気味よい音がする。しっかり油を切られ、内部の鶏肉から初めて滴る肉汁はねばついたところがなく、香辛料の香りや味付けと相まってくどさがない。
「うん」椿は頷いた。「花はともかく、鳥はいい」
 ほう、と対面で汁物を口につけようとしていた青年が表情を明るくした。
「鳥が好きか! この季節だと夕暮れには渡り鳥が群れを作って飛んでゆく姿も目にするだろうからな、なんだカンナ、お前も存外風流を知っているではないか」
「昔は肉と言えば豚ばっかり食べてた気がするけど、こうして食べると鳥が一番好きかもしれない」
「そうかそう__豚?」
「この唐揚げは、ああ、確かに美味しい」
「え、ああ……ありがとう……」
「ん」
 いまいち釈然としない顔で汁物を啜っていた青年も、遅れて唐揚げを口に運べば途端に破顔した。花鳥風月を愛でる暇もない笑顔で、咀嚼の合間にやれあの番組で見た隠し味がどうだのと滔々と語りだすのを、椿はぼんやりと眺めていた。
 1DKのこのアパートに越してきてから、まだ蛍光灯は替えていないはずだ。
 だがこの部屋は、今夜なんだか随分明るい気がする。
 たまにつけるテレビから流れる音声だって数日間の天気予報を告げるなり黙り込む。遅くに帰った日には、いちいち部屋の電気もつけず、シャワーを浴びてそのまま暗い部屋の中で静かに眠る。そして朝起きて、ただ外から差し込む光を無抵抗に浴び、それを横切って出ていく。
 こうしてリビングに腰を落ち着かせ、時間をかけてまですることではなかった。食事というのは。
 生活というのは、こういうものなのか。
 __などと、柄にもなくそんなことを考えていたせいかもしれない。
 そんなこともあるはずもないのに、生活が、いやもっと深い場所にある、いわゆる人生とか呼ばれていそうなものが変わったような気になっていたのは。
 なにか、腹の底のあたりに埋められている冷えたなにかが、動くような。
 まるで死に絶えて久しい、もはや熱を失った死体が息を吹き返したような。

 そんな気になっていた。そんなはずはないのに。

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