椿落ちる頃

四季山河

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第一章 神が降ってきた

03-1 タピオカショック

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 「はい」
「う、うむ」

 タピオカミルクティの入ったカップを渡すと、青年はたじろぎつつ受け取り、そして赤いストローが刺さったそれをためつすがめつ眺めていた。その間に椿はさっさとクレープを口に運ぶ。昨日の夜からコーヒーしか飲んでいない。それでも特に感じていなかった空腹感は、食べ物を口に運んだ途端に思い出された。

「で、君……家に帰らないの?」
「う!」

 思わず力がこもった青年の手の中でプラスチックのカップがぺきょ、と間抜けな音を立ててきしむ。

「君が何処から来て、なんであんな所にいて……今も、帰りたくないのか、帰れないのかは聞かないが。少なくとも君が他の何処かから来たなら、俺はいつまでもいていい、なんて言うことはできない」
 
 青年との出会いを思えば、おそらく何らかの事件あるいは事故が絡んでいるのだろうとは想像に難くない。今朝だって、青年は起きた時点で椿のアパートからいつでも出ることが出来た。礼を言いたいなら、椿が目を覚ます前に起こせばよかった。だがそうはしなかった。
 帰りたくない。あるいは帰れない。
 ともすれば、椿はもっと親身になり、まるで長年の友人ででもあるかのように青年の事情を聞き出すべきなのかもしれない。
 だが__所詮は他人だ。そして他人であるからこそ、軽々に約束はできない。
 この青年が真実助けを求めているならば、彼が行くべきは警察だ。

「……実は、」

 などと。

「実は、私は……」

 考えていたら。

「____今朝より前の、記憶がないのだ……」

 と。
 そんなことを言う。

「……はい?」
「いや!」青年は素早く右手のひらを椿に突き出した。「待て! まずは私の話を聞け! 貴様の言いたいこともわかる!」
「俺が言いたいのは警察に行こうかってことだけなんだけど」
「分かるぞ」
「あそう、じゃあ最寄りの警察署調べるから一緒に、」
「私のこの身から滲み出る高貴さのことだろう!? 分かるとも!!」
「これ警察より病院の方かな」

 椿は食べかけのクレープを咥え、自由になった右手で携帯を開く。位置情報を起動。地図アプリを開き、病院で検索。
 黙々ともぐもぐとしながら操作を続ける椿の横で、青年は一体なにと戦っているのか、悩まし気に眉を寄せ、タピオカミルクティを片手に語り続ける。

「私も薄々考えていたのだ、というよりな、分かってしまうのだ、記憶を失ってなお、理解してしまう。これはもう骨髄に染みこんだ事実だと、この爆イケな風貌が物語っておろう!? なあ!」
「病院、病院……精神科のある……いや脳外科か?」

 そして椿が目ぼしい搬送先を見つけるより先に、青年が喝と叫んだ。

「私ってなんか、なんかこうすごい___”神”だったと思うのだ!」

 神。
 記憶喪失男の妄言にしても随分と飛距離のある妄想だ。

「な、どうだろう!」
「どうと仰られましても」
「そこに真実があるとは思わないか!?」
「そこに無ければ無いですね」

 両手を握りしめ(タピオカミルクティが今にもストローの先から逆流して溢れそうだ)、こちらへ詰め寄る青年から仰け反って距離を取りながら、椿は携帯に表示された地図上の総合病院へマップピンを刺した。

「ええい、貴様、またそんな小さな箱を見ていないで、私を見よ!」
「うっ」

 ごき、と嫌な音が鳴る。青年の細腕のどこに隠されていたのか、思いがけない腕力で顔を引き寄せられる。
 頬に柔らかい感触があった。長い、揺れる髪の毛先だ。雪のように白い。
 椿は至近距離で青年と見合った。
 先ほど、他ならぬ青年が激高した以上の近さだった。若干鼻先がぶつかったような気さえする。青年の高く結い上げた髪の毛先が、旋風のように四方八方に跳ねる前髪や結われていない横の髪、後れ毛、そういったものが次々に顔に降ってくる。

 二人は街路樹の下に座っている。高さを増してゆく初秋の空から降り注ぐ光は細く、透き通っていて薄い。だというのに、それは青年の白い髪をくぐるとき、細やかなガラス片のようにちかちかと瞬いて椿の目を焼いた。

「どうだ」

 青年がわずかに目を細くして聞いた。鋭い刃物で裂いたような美しく引き絞ったひし形の目。髪と同じ、ほとんど色のない目は、しかしその内に水墨画のような見事な濃淡で瞳孔が__それは二重の輪となって、あった。
 まるで一つの目を通して何人、何十人という衆目に晒されているような心地になる。気圧されている。恐怖ではなく、例えるなら水圧のような。ただただ、確かに圧倒される何かがある。

 常人ではない。

 と、椿の頭の中、あるいは脳にすら至る前に、脊髄がそう答える。この青年は、人間ではない、と。
 この青年は。
 彼は。

「私が諸人に見えるか、人間」

 常人ではない。諸人ではない。だとすれば何だ?
 この青年は、彼は。

「____、___」

 不意に目を焼かれるような。
 痛みとも熱とも取れない感覚に襲われて椿は目を瞑った。そこで気づく。瞬きをするのをずっと忘れていたことに。

「……どうした?」急に目を瞑り、顔を背けた椿に青年が尋ねる。椿からはその表情は見えないが、声が怪訝そうだ。「どこか痛むのか?」
 まさか瞬きを忘れて見入っていたと言うわけにもいかず(言えば確実に面倒が起こるだろう)、椿は「いや、」とおざなりに沈黙を誤魔化した。

「なんでもない」椿は言った。眉間を揉む仕草で目元に影を作りながら。「ああ、もういい、君は神様なんだな。そうか分かった、そういうことにしよう」
「そういうことにしよう、ではなく、そう、なのだ」
「なんで根拠もなしに……」

 根拠もなしに自分は神だ、などと言えるのか。
 そう尋ねようと、例えそれでまた青年が喚いても、そう言わずには言われない気持ちのまま口に出そうとして。口をついて出ようとして。
 しかし言葉は音を得なかった。
 青年の傍。あるいは背後。
 そこに見覚えのない大弓があった。まるでずっと前からそこに、ともすれば椿や青年がこのベンチに座る前から立て掛けられていたかのように。
 仄暗くも艶やかな紅色に塗られた骨組みに、白金の金具で弦が張られている。だが華奢な印象を与えないのは、その弓が全長2メートルはあろうかという大きさであるからだろう。

 椿の視線に気づいたのか、青年もまた自分の背後、ベンチに立てかけられた弓を振り返った。だがその反応は真逆だった。

「おお、なんだ私の弓が気になるのか?」

 そう言うと慣れた手つきで大弓を取り回し、椿の前に差し出す。「見ての通り業物だがな、お前は恩人だ。触っても良い」
「いや……いい、指紋が付いたら面倒そうだし」
「む、喜ばせ甲斐のない奴め」

 青年はあまりに平然としている。そんなデカブツを今まで何処に隠していたのか、いや隠せるはずもない。物理的に、そんな体積のものを人目を避け格納できる空間は周囲にはない。
 そしてこんなものが元々あったならば、椿はそんな不審物のあるベンチになど座っていない。

 せめて矢が無いのがまだましか。弓だけならば銃刀法には抵触するまい。

「……あー」
「なんだ」

 弓を傍へ戻し、先程よりふんぞりかえってベンチに座り直した青年に、椿は何を何処からどう伝えるか悩み。
 懊悩し。
 苦悩し。
 
 そして、諦めた。
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