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ちや

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 ――今日も大丈夫だと願う心地と、もしかすると今日は駄目かも知れないと怯える心地。

 ログイン時特有の浮遊感に身を委ね、瞼を持ち上げる前に嗅覚が先に異常を感知した。
 アスファルトの焦げ付くような、夏場の駐車場のような、何処かで嗅いだにおい。

 瞬時に視界を広げ、飛び込んできた光景に喉が引きつった悲鳴を漏らした。

 赤いフィルム越しの世界の中に、片側に重心の傾いた人がいた。
 変色した色調を脳内が勝手に補正し、その人の髪が青いことを理解した。
 振り乱された長いそれに、辛うじてくっついた白い花の髪飾り。
 短めのフレアスカートも白い上着も、馴染み深い。
 長さのあるブーツは太腿にまで届き、覚束ない足許が高いヒールで支えられている。

 ずるり、その人が動いた。
 左に曲がった体躯が益々傾ぎ、青の毛先が地面につく。
 斜めを向いた虚ろな顔が、露になった。

 ――私だ。私とそっくり同じ姿かたちをしたものが、そこにいる。
 引きつった喉と同じくらい強張った身体を、懸命に後ろへずり下げた。
 後ろへ踏み出した踵が、砂を踏む音を立てる。

「――――、」

 うっすら、そいつの口が開かれた。
 暗い口内が見えた。ゆっくりと、徐々に開かれていく。暗い穴が広がっていく。
 にったり、私が浮かべたこともない笑顔が、突然眼前へと突き出された。

 喉を劈いた絶叫。頬に触れた青い髪。

 予備動作も距離感も全て無視した急激な接近が、私の腕を締め上げた。
 真冬の手ですらもっと温度があるだろう、凍てつく感触に即座にそいつを突き飛ばす。

 ずるりと解けたそれが、不恰好に転倒した。
 仰向けにひっくり返った私と同じ顔が、起き上がろうとぐるぐるもがく。
 じたばたとのたうつそれが人間らしくない動きをするものだから、益々異様に思えて気持ちが悪い。
 気付けば泣きながらえづいた私は、感覚の足りない脚を叱咤して逃げ出していた。



「――ひっ、ひぐっ、うえぇ……っ」
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」

 どれだけ走っただろう?
 もう走れないところまで走り続け、蹲って泣いていた。
 頭上から降ってきた肉声にびくりと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げる。

 ……知らない人だった。口髭を生やしたおじさんで、困惑したように私のことを見下ろしている。

 ふと気付けば周囲の音が聞こえ、ここが本来のログイン場所である、第1都市ユークレースの路地裏なのだと察した。
 おじさんの背後に見える大通りは、人通りも多く賑やかで、他人の気配に安堵した瞬間益々涙が溢れた。
 嗚咽を漏らしてわあわあ泣き出す私を、狼狽した顔でおじさんが慰めてくれる。

「おじさんはここで喫茶店をやってるんだけど、少し、休んでいくかい?」

 彼の纏うエプロンに印字された店名は、私が先輩から教えてもらった喫茶店のものだった。
 明るい日差しの中、無理矢理名前を登録した彼等と食べた、先輩おすすめの氷菓を思い出す。

 困り果てた顔のおじさんが、おずおずと建物を指差した。
 ――二階にある大きな窓。
 ぐすん、泣きじゃくりながら頷く。
 差し出されたハンカチに顔を埋め、おじさんに支えられながら、かつて上った階段に足を掛けた。



 *

 朔月さくげつさんから通信が入った。
 彼女の声は嗚咽に歪んでいて、その言葉からでは内容を察することは出来なかった。
 慌てる俺へ、通話越しに知らない声が場所を教えてくれる。
 弱り切ったその人が告げた喫茶店は、以前朔月さんとシエルドくんと一緒に入った、ミルクセーキが固形だったあの喫茶店だった。

 運営を後にしたその足で階段を上り、『closed』と看板の下げられた扉を開ける。
 明るい店内にいた店主のおじさんが、こちらを向いた瞬間、ほっとしたように表情を緩ませた。

「きみが通話相手の子かな?」
「はい。あの、朔月さん……青い髪の女の子は、何処にいますか?」

 カウンターの中にいる店主が、奥のテーブルへ視線を促す。
 そちらへ覗き込むと、両手で支えたタオルに顔を埋める、女の子の姿を見つけた。
 気の強い朔月さんらしくない憔悴し切った様子に、慌てて駆け寄る。

「朔月さん、」呼びかけた声に、彼女が顔を上げた。
 潤んでいた青い目が、ぼろぼろ涙を零す。
 立ち上がる動作に合わせて椅子が床を鳴らし、ぎょっとした俺の背に彼女の腕が回された。

「っあ、あんた! 私よりッ、ぐすっ、ちいさ、いって、ひっ、……何なのよ、ばかあ!!!!」
「突然の罵倒!? どうしたの、朔月さん!?」
「うっさ、……うっさいわね!! わた、うっ、私だって、ひっく、わかんないわよ! 慰めなさいよ!! 全力で!!」
「た、大変だったね……?」
「足んないわよ、ばか!! わあああああんっ!!」

 肩口に頭を埋められ、ぎゅうぎゅう抱き締められた状態での罵倒。新感覚だね……?

 把握出来ない状況と、ついていけない展開に、唖然と着地点を失った両手をさ迷わせる。
 店主のおじさんは苦笑いを浮かべて、こちらに背を向けたので恥ずかしい。
 おずおず朔月さんの白い上着に手を添え、しゃくり上げる背中を宥めるように叩いた。


 ある程度落ち着いた朔月さんが俺から離れ、店主に入れてもらったあたたかなココアに手を添える。
 いつもより開店時間の遅れた店内は人も疎らで、迷惑をかけてしまったことをお詫びした。
 店主のおじさんは「困ったときはお互い様」と笑い、テーブルにクッキーの載ったお皿までおまけしてくれる。店主さん、俺ここの常連になります。

「……また、あのあかい町に行ったの」
「待って、シエルドくん呼ぶから……!」

 ぽつりと零された朔月さんの言葉に、慌ててシエルドくんへメッセージを送る。
 多分きっと、これで来てくれるはず!
 青褪めた俺をじとりと見詰め、朔月さんがため息とともに両手で顔を覆った。

「あんた、そのヘタレなところがマイナスポイントなのよ……」
「いやだって、朔月さんがあんなに取り乱してたんだよ? 確実にこわいことが起こってるよね?」
「目の前に、私と同じ形の人がいた」
「ドッペルゲンガー……!?」
「勝手に殺さないでよ」

 力なく悪態をついた彼女が、ココアに口をつける。
 ため息とともに息を吐き出し、手許の水面へ視線を落とした。

「……あんた、あの澄ました方に、さっきのこと言うんじゃないわよ」
「澄ました方って……シエルドくん?」

 こくん、頷いた顔がそっぽを向く。
 ぞんざいな覚え方に苦笑いを浮かべると、「あんたは抜けてる方」益々そっぽを向いた彼女がつっけんどんに言い放った。
 そんな覚え方……!

 ステンドグラスの嵌った入り口が、静かに開閉する。入店したのは金髪の美少年で、きょろきょろと俺たちを探していた。
 腰を浮かせ、軽く手を振る。
 こちらに気付いたシエルドくんが安堵の表情を浮かべ、俺の隣の椅子を引いた。

「シエルドくん、急に呼び出してごめんね」
「構わないけど……朔月どうしたの? 飴いる?」
「なっ、ななななななにが!?」
「ぼくもココア頼もうかな」
「ほんっといけ好かない、その澄ました感じ!」
「はいはい。ちょっとは元気出た?」

 しれっとココアを注文するシエルドくんのスマートさに、朔月さんの顔が真っ赤に染まる。
 タオルに顔を埋めた彼女が、声なき悲鳴を上げた。

「シエルドくん、絶対女の子にもてる……」
「そんなことないよ。それより、どうしたの?」
「……あかい町に行ったの」

 タオルから目許だけを覗かせた朔月さんが、眼力を強めながらくぐもった声を発する。
 睨みつけているといっても過言ではない眼光に、ココアのカップを退避させながら、俺の方が怯えた。

「あかい町で、自分と見た目も服装も同じやつが現れたの」
「ドッペルゲンガー?」
「同じこと言わないでよ。……それが、すごく、動きが気持ち悪くて。……さすがにちょっと、ショックだったって言うか……」

 ふいと視線を逸らせ、朔月さんがタオルの中でもごもご呟く。
 曖昧に誤魔化されたけれど、合流直後の彼女は相当取り乱していた。何かあったんじゃないかと、心配してしまう。
 シエルドくんの元にココアが運ばれ、目礼した彼が静かな顔で瞬く。
 俺たちの間に下りた沈黙を、静かな声が破った。

「確か前回は、肩まで出てたんだよね?」
「……ええ」
「大きさは? 空にあったのは、異様に大きかったんでしょう?」

 シエルドくんの記憶力の良さもそうだけど、こわいことを平然と確かめられちゃうその精神力がすごい。

 一度聞いた話のはずなのに、空に浮かぶ異様に巨大な自分の顔とか、正気を疑うくらい無理でこわい。
 一瀬さんの発したぞっとする話を引き摺った状態での相乗効果で、もっと無理だ。

 タオルに埋まりながら、暫し考え込んだ朔月さんが、小さく首を横に振る。
 ぽつり、覇気のない声が落とされた。

「大きさは、私の身長と同じくらいだったと思う。……地面に髪がつくくらい左に傾いてたから、ちょっとわからないけど」
「え、こわい」
「スキルに変化は?」
「見てないわ」

 質問を重ねるシエルドくんは落ち着いていて、とても頼りになる。
 朔月さんが、震える指先で画面を立ち上げた。開かれたスキルの項目が、最後尾まで滑る。

「……あれ? ない……?」
「朔月のはなんだったっけ。……招待状?」
「『招待券』よ。『ようこそ!』って内容の」
「なんだろう。完成したから、用がなくなったとか?」

 顎に手を添えたシエルドくんの呟きに、心底ぞっとしてしまう。
 完成したって、何が? 朔月さんのそっくりさんが? そのための招待? えええええ……。

「仮説なんだけど、朔月は『招待券』があったから、赤い町に招待されていた。そこで朔月とそっくりななにかが作られて、完成したから、朔月を招待する必要がなくなった」
「シエルドくんが、的確に俺の恐怖心を抉っていく……」
「あんたのそのおぞましい想像力、どうやったら醸造できるの?」
「なんだろ? でも『招待券』がなくなったのなら、もうその町には行かなくて済むんじゃないかな」

 両手でココアのカップを手にしたシエルドくんが、息を吹きかけて口をつける。
 俺も温くなったそれを飲み干した。クッキーに手をつけ、無心でさくさく口に詰める。

 考えないようにしているのに、その『朔月さんのそっくり』な『なにか』が恐ろし過ぎて、おいしいはずのクッキーの味がわからない。
 朔月さんの顔色も悪い。
 困ったように眉尻を下げたシエルドくんが、陶器から口を離した。

「事象を勝手に結び付けただけの仮説だって。ただの憶測。全く関係ないかも知れないんだから。とにかく『招待券』がなくなったことは、いいことなんだろうし」
「……わかってるわよ」

 朔月さんが残ったココアを一気にあおる。
 クッキーをもすもす口へ突っ込み、彼女が席を立った。

「むぐっ、……ほら、さっさと行くわよ。いつまで女子力高い飲み方してんのよ」
「そのいわれ、不本意なんだけど……。行くって、どこに?」
「ルベライト」
「第5都市? なんでわざわざ」
「せんせー、ルベライトって、なんですかー?」

 玄人の会話について行けず、心細さから手を挙げる。
 得意気に笑った朔月さんが、親指で店の入り口を指し示した。

「今から案内してあげるわ。ついてきなさい」
「……まあ、いっか。行こう? ユウ」

 ココアを空にしたシエルドくんが席を立ち、慌てて彼等を追いかける。
 店主のおじさんにたくさんお礼を伝え、暗がりの階段を下りた。
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