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8、白蟻
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それからほどなく、小花の寿命は尽きようとしていた。小花の状態を使者から聞いた黒木家は蝕神に呪具を捧げることを一端やめた。そのおかげで蛆虫たちは小花の邪気を喰うのに専念でき、小花の中に飼われている魔性や化生はほとんど跡形もなく消えた。魔性たちを増幅させるのは恨みや悲しみ、負の感情。虚に優しく愛されることで小花自身の精神も安定していた。それでも、小花の身体はとうに限界で、もはや身を起こすことも叶わなくなっていた。
「この分だと、今日明日にでも小花ちゃんとはお別れだね。短い間だったけど楽しかったよ」
「……うん、ありがとう虚。私も、最期にあなたに会えてよかった。普通の女の子みたいに愛してもらって幸せでした。こんな穏やかな最期を迎えられるなんて思わなかったから」
虚は骨と皮だらけの小花の手をしっかり握りしめた。
「オレもこんな気持ちは初めてだよ。もう誰も娶りたくもないくらい。愛してるよ小花。生まれ変わったら、今度こそ末永くオレのそばにいてくれる?」
「……本当? 約束だよ?」
「ああ、オレは嘘なんかつかないさ」
「ふふ、嬉しい」
くぼんだ大きな瞳が、ぎょろり、と虚を凝視する。
「今日は外せない用があって、どうしても行かなきゃならないんだ。なるべく早く帰るから、決してここから出てはいけないよ。ゆっくりおやすみ」
「はい。いってらっしゃい。おやすみなさい、虚」
そうして、虚は出て行った。
暗い石室の中。古来より、墓として使われている場所。小花はやすらかに、目を閉じた。死が近い。でも怖くない。凪いだ水のように心は静か。虚は今日明日と言っていたけれど、小花は激しい眠気に襲われていた。今、意識が落ちれば、一生目を覚ますことはない眠気。以前は魔性に意識を乗っ取られることが怖くて、眠りすら〝恐怖〟の対象だった。でも、今は傍らに蛆虫たちがいて、小花にずっと寄り添ってくれている。虚に看取られたかったが、帰りを待ちながら静かに息を引き取るのも悪くはない。
〝式神の器〟として生きることが小花の人生だった。身体に化け物を入れられ、呪いたくもない人たちを呪わされる。自分が何者なのか、誰を恨んでいるのか、自分のことも、自分の感情すらも分からなくなる。小花の宝物は〝小花〟という名前と〝良平さんが好き〟という恋心だけだった。それだけが自分自身を証明する唯一だった。でも、最後のひとときだけ、縋るような恋からも解放されて、〝神様の伴侶〟として身をゆだねることができた。それで充分悔いはない。痛みに喘ぎ。絶望し。魔性に憑りつかれて訳も分からず潰える最期にならなくて、本当によかった。
ふ、と小花が呼吸を止めようとした瞬間。
「──小花、小花、どこにいるんだ」
「……良平さん?」
聞きなれた声がして、ガッと小花は目を見開いた。魔性に憑依されて自我が崩壊しそうになったとき、〝小花〟を何度も呼び戻した声。安らかに眠りにつきたい心とは裏腹にその声に反応する。呪いのような、恋の言霊。くぼんだ眼球が声のするほうを凝視する。
「小花。迎えに来たよ。約束を果たそう。一緒に逃げよう」
「良平さん、りょうへい、さん、リョうヘイさん」
首を傾け、這いつくばり、枯れ木のような腕を振るい立たせた。立ち上がることができず、小花は腐りかけの身体を這いずって進んだ。にじみ出る邪気。蛆虫たちが反応し、小花の身体に集りだしたが、抑えきれる量ではない。
少しずつ、少しずつ。邪気を巻き散らかし、蛆虫をまとわりつかせ。石筍で顔や身体をひっかいても、まるで犬が飼い主の元に向かうがごとく声のする方向へ。
「小花、小花、小花」
痣だらけになりながら、とうとう石室の入り口。神域の外まで小花はたどり着いた。秋風が吹き抜ける。枯れ葉の舞う。血のような夕暮れ時。スラリと背の高く、同じ枯色をした髪の青年が、小花を見て安堵の息を吐いた。
「小花! よかった! 来てくれたんだね!」
ぼろり、と小花の髪から菊花が落ちた。虚からもらった花。邪気払いの花。
小花の瞳は一瞬正気を取り戻した。
「……良平さん? なんで? どうしてここへ、なにしにきたの」
「もちろん、助けに来たんだよ! 今なら黒木家も蝕神さまもいない。二人で逃げよう。約束しただろう?」
小花は腕を掴まれて、身を震わせた。その力の強さで記憶が蘇る。
犬神を降ろして正体を失くした小花を、昏倒させるほどの力で殴ったのは──
「や、やめて、あなたが殴ったから、私は死にかけたんだよ? 本当に痛かった。死んでしまうと思うくらい怖かったんだよ!」
「……それは、本当にごめん。でもおかげでやっと外に出れただろ? 結果的にはよかったよ! 小花なら、あれくらい耐えられると思ってたんだ。我慢強い子だからね」
悪意のない笑顔で、良平は笑った。髪の毛を振り乱し、痣だらけで、蛆虫に集られた小花を見ても、なにも反応を変えず。なにも態度を変えなかった。──まるで、なにも見えていないかのように。
「……こわい」
喰われたはずの〝恐怖〟がぶり返した。異形の神様なんかよりずっとおぞましい。
恩人と信じていた、善良だと信じていた、目の前のただの人間が恐ろしくてたまらない。麻痺していた感情が戻り、小花の頭は靄が晴れたように鮮明になる。本当に怖かったのは──〝恐怖〟していたのは、蝕神でも、黒木家でも、魔性に自我を乗っ取られることではない。この男だ。この男が恐ろしくてたまらなかったのだ。
「小花、さあ行こう。ふたりで逃げよう。蝕神さまや黒木家は邪な気配には目ざといけど、清いものには鈍感だからさ。僕の気配は辿れないんだ。僕たちの恋はとっても純粋なものだから」
いつもそうだった。悪意と苦痛と呪いまみれの黒木家の中で、この男だけは無垢だった。悪気がなく、謀りなく。口から出るのは嘘偽りない言葉。それが果たされない約束であっても、本人には嘘をついている自覚すらない。だから、小花は何度も良平の言葉を信じた。信じ続けて、耐え続けてしまった。その異様さに、小花はようやく気付く。たったひと月、そばを離れてみただけで理解する。あの家は異常だったし、小花もおかしかったし、この男もまた狂っているということに。
「……い、嫌、わたし、良平さんの、そういうところ、嫌だったの」
「小花? どうしたんだ?」
「いつも期待させて、裏切る。もう信じないって決めたのに、次こそは私をあの家から連れ出してくれるんじゃないかって、救い出してくれるんじゃないかって。何度も信じて、信じて、裏切られた。そのうわべだけの約束を期待し続けたの。それがつらかった。化け物に心を乗っ取られることよりずっと、身体がぼろぼろになることよりずっと──わたしの心をないがしろにされ続けたことが、つらかったの」
「ないがしろ?」と良平は首を傾げた。無垢な子供のように。何も知らぬ、何の考えも持たぬ童子のように。
「ないがしろになんかしてないよ! こうして、ちゃんと約束を果たしに来たじゃないか」
「い、今更? 私の身体、私の姿、ちゃんと見えている? もう逃げられる体力もないよ」
「大丈夫だよ! どうにかなるよ! 小花が動けなくなったらおぶってあげるから!」
小花は反論する気力を失くした。時刻は夕暮れ時。夜の闇が落ちた山の中で、子供のようなふたり。どうやって逃げ延びるのか。そんなこと、少し考えれば分かるだろうに。思考放棄した良平は、解決できない話題からは目を逸らし、うわべだけの労わりを向けた。
「蝕神さまの妻になったと、黒木家の者が話していたのを聞いたよ。あんな会話するだけで吐き気のする神様に。つらかったろう」
ざわり、と小花の感情が波立った。
「うつ……蝕神さまのこと、悪く言わないで。こんな私にとても優しくしてくれたの。私、蝕神さまの妻になれて、すごく幸せだった。心の隙間を埋めてくれたの。痛みを食べてくれたの。だから、もう誰も恨んでないし、それでよかったのに」
「小花……蝕神さまのことが僕より好きになったの? 僕がずっと小花を支えていたじゃないか」
ふるふると小花は首を振った。
「違うよ、全然違う。良平さんは、好きなら我慢してって私に強いるばかりで。私に苦痛しか与えなかった。蝕神さまは違う。私になにも無理強いしたりしなかった。全然違うよ」
良平は突然無表情になった。憤りでも悲しみでもなく、死人のような顔つきになり、小花の細腕を握りしめた。加減もなく、骨が軋むほど強く。小花は振り払おうとしたが、びくともせず。
「でも、それは小花のためじゃないよ」
「──え?」
「黒木家の使者が蝕神さまと話しているのを聞いてたんだ。蝕神さまが小花に優しくするのは好きだからじゃない。小花の中の魔性があふれ出るのが怖いからだ。刺激しないようにしていただけさ。うわべだけというなら蝕神さまだってそうさ。そんなこと、小花だって分かっているだろ」
「……やめて」
「好きだとでも言われたの? 蝕神さまは必ずまた贄を娶るよ。黒木家の娘と契りを交わすことで氏神として祀られているんだ。そうでなければ蝕神さまは信仰を持続できず、ただの蛆虫に戻る。かわいそうに、騙されたんだね」
「やめてよ!! そんなこと聞きたくない!! 気づかせないでよ!!」
小花に集っていた蛆が一気に蒸発した。ぽろぽろと涙が流れる。憎悪が、悲しみがあふれ出す。胸の内の魔性が騒ぐ。小花の負の感情に反応して、ざわめく。──どうして、優しい嘘の中、死ぬことすら許されないのか。
「蝕神さまは黒木家に言われて、小花の穢れをろ過しようとしてただけ。愛なんてあるわけないよ」
「ひどい」
「うん、ひどいね、何も知らない娘と見下して。だから、小花のこと、本当に好きなのは僕だけだよ。一緒に逃げ──」
「ひどい! ひどい!! ひどいいいい!!」
どろり、と小花は泥の涙を流した。感情の栓が切れた。竜巻のような邪気がとぐろを巻く。目から口から耳から、蛇神 、猫鬼、犬神、管狐が噴出する。逆立つ小花の髪は小さな蛇の集合体になり、瞳は犬のように光り、狐の尻尾が生え、爪は猫のように鋭くなり、遠吠えのような唸り声をあげた。
「呪ってやる! 祟ってやる! 皆大嫌い! 皆消えろ! 皆死ね!! 死んでしまえ!!」
良平の首を目掛けて鋭い爪を振るう。
喉元に血が掠った瞬間。
──地中から湧いて出た蜘蛛の糸が、小花を羽交い絞めにした。
「蛆が言うのもなんだけどさあ、まじで気色悪いね。お前」
あきれ果てた虚は、大きなため息をついた。
「この分だと、今日明日にでも小花ちゃんとはお別れだね。短い間だったけど楽しかったよ」
「……うん、ありがとう虚。私も、最期にあなたに会えてよかった。普通の女の子みたいに愛してもらって幸せでした。こんな穏やかな最期を迎えられるなんて思わなかったから」
虚は骨と皮だらけの小花の手をしっかり握りしめた。
「オレもこんな気持ちは初めてだよ。もう誰も娶りたくもないくらい。愛してるよ小花。生まれ変わったら、今度こそ末永くオレのそばにいてくれる?」
「……本当? 約束だよ?」
「ああ、オレは嘘なんかつかないさ」
「ふふ、嬉しい」
くぼんだ大きな瞳が、ぎょろり、と虚を凝視する。
「今日は外せない用があって、どうしても行かなきゃならないんだ。なるべく早く帰るから、決してここから出てはいけないよ。ゆっくりおやすみ」
「はい。いってらっしゃい。おやすみなさい、虚」
そうして、虚は出て行った。
暗い石室の中。古来より、墓として使われている場所。小花はやすらかに、目を閉じた。死が近い。でも怖くない。凪いだ水のように心は静か。虚は今日明日と言っていたけれど、小花は激しい眠気に襲われていた。今、意識が落ちれば、一生目を覚ますことはない眠気。以前は魔性に意識を乗っ取られることが怖くて、眠りすら〝恐怖〟の対象だった。でも、今は傍らに蛆虫たちがいて、小花にずっと寄り添ってくれている。虚に看取られたかったが、帰りを待ちながら静かに息を引き取るのも悪くはない。
〝式神の器〟として生きることが小花の人生だった。身体に化け物を入れられ、呪いたくもない人たちを呪わされる。自分が何者なのか、誰を恨んでいるのか、自分のことも、自分の感情すらも分からなくなる。小花の宝物は〝小花〟という名前と〝良平さんが好き〟という恋心だけだった。それだけが自分自身を証明する唯一だった。でも、最後のひとときだけ、縋るような恋からも解放されて、〝神様の伴侶〟として身をゆだねることができた。それで充分悔いはない。痛みに喘ぎ。絶望し。魔性に憑りつかれて訳も分からず潰える最期にならなくて、本当によかった。
ふ、と小花が呼吸を止めようとした瞬間。
「──小花、小花、どこにいるんだ」
「……良平さん?」
聞きなれた声がして、ガッと小花は目を見開いた。魔性に憑依されて自我が崩壊しそうになったとき、〝小花〟を何度も呼び戻した声。安らかに眠りにつきたい心とは裏腹にその声に反応する。呪いのような、恋の言霊。くぼんだ眼球が声のするほうを凝視する。
「小花。迎えに来たよ。約束を果たそう。一緒に逃げよう」
「良平さん、りょうへい、さん、リョうヘイさん」
首を傾け、這いつくばり、枯れ木のような腕を振るい立たせた。立ち上がることができず、小花は腐りかけの身体を這いずって進んだ。にじみ出る邪気。蛆虫たちが反応し、小花の身体に集りだしたが、抑えきれる量ではない。
少しずつ、少しずつ。邪気を巻き散らかし、蛆虫をまとわりつかせ。石筍で顔や身体をひっかいても、まるで犬が飼い主の元に向かうがごとく声のする方向へ。
「小花、小花、小花」
痣だらけになりながら、とうとう石室の入り口。神域の外まで小花はたどり着いた。秋風が吹き抜ける。枯れ葉の舞う。血のような夕暮れ時。スラリと背の高く、同じ枯色をした髪の青年が、小花を見て安堵の息を吐いた。
「小花! よかった! 来てくれたんだね!」
ぼろり、と小花の髪から菊花が落ちた。虚からもらった花。邪気払いの花。
小花の瞳は一瞬正気を取り戻した。
「……良平さん? なんで? どうしてここへ、なにしにきたの」
「もちろん、助けに来たんだよ! 今なら黒木家も蝕神さまもいない。二人で逃げよう。約束しただろう?」
小花は腕を掴まれて、身を震わせた。その力の強さで記憶が蘇る。
犬神を降ろして正体を失くした小花を、昏倒させるほどの力で殴ったのは──
「や、やめて、あなたが殴ったから、私は死にかけたんだよ? 本当に痛かった。死んでしまうと思うくらい怖かったんだよ!」
「……それは、本当にごめん。でもおかげでやっと外に出れただろ? 結果的にはよかったよ! 小花なら、あれくらい耐えられると思ってたんだ。我慢強い子だからね」
悪意のない笑顔で、良平は笑った。髪の毛を振り乱し、痣だらけで、蛆虫に集られた小花を見ても、なにも反応を変えず。なにも態度を変えなかった。──まるで、なにも見えていないかのように。
「……こわい」
喰われたはずの〝恐怖〟がぶり返した。異形の神様なんかよりずっとおぞましい。
恩人と信じていた、善良だと信じていた、目の前のただの人間が恐ろしくてたまらない。麻痺していた感情が戻り、小花の頭は靄が晴れたように鮮明になる。本当に怖かったのは──〝恐怖〟していたのは、蝕神でも、黒木家でも、魔性に自我を乗っ取られることではない。この男だ。この男が恐ろしくてたまらなかったのだ。
「小花、さあ行こう。ふたりで逃げよう。蝕神さまや黒木家は邪な気配には目ざといけど、清いものには鈍感だからさ。僕の気配は辿れないんだ。僕たちの恋はとっても純粋なものだから」
いつもそうだった。悪意と苦痛と呪いまみれの黒木家の中で、この男だけは無垢だった。悪気がなく、謀りなく。口から出るのは嘘偽りない言葉。それが果たされない約束であっても、本人には嘘をついている自覚すらない。だから、小花は何度も良平の言葉を信じた。信じ続けて、耐え続けてしまった。その異様さに、小花はようやく気付く。たったひと月、そばを離れてみただけで理解する。あの家は異常だったし、小花もおかしかったし、この男もまた狂っているということに。
「……い、嫌、わたし、良平さんの、そういうところ、嫌だったの」
「小花? どうしたんだ?」
「いつも期待させて、裏切る。もう信じないって決めたのに、次こそは私をあの家から連れ出してくれるんじゃないかって、救い出してくれるんじゃないかって。何度も信じて、信じて、裏切られた。そのうわべだけの約束を期待し続けたの。それがつらかった。化け物に心を乗っ取られることよりずっと、身体がぼろぼろになることよりずっと──わたしの心をないがしろにされ続けたことが、つらかったの」
「ないがしろ?」と良平は首を傾げた。無垢な子供のように。何も知らぬ、何の考えも持たぬ童子のように。
「ないがしろになんかしてないよ! こうして、ちゃんと約束を果たしに来たじゃないか」
「い、今更? 私の身体、私の姿、ちゃんと見えている? もう逃げられる体力もないよ」
「大丈夫だよ! どうにかなるよ! 小花が動けなくなったらおぶってあげるから!」
小花は反論する気力を失くした。時刻は夕暮れ時。夜の闇が落ちた山の中で、子供のようなふたり。どうやって逃げ延びるのか。そんなこと、少し考えれば分かるだろうに。思考放棄した良平は、解決できない話題からは目を逸らし、うわべだけの労わりを向けた。
「蝕神さまの妻になったと、黒木家の者が話していたのを聞いたよ。あんな会話するだけで吐き気のする神様に。つらかったろう」
ざわり、と小花の感情が波立った。
「うつ……蝕神さまのこと、悪く言わないで。こんな私にとても優しくしてくれたの。私、蝕神さまの妻になれて、すごく幸せだった。心の隙間を埋めてくれたの。痛みを食べてくれたの。だから、もう誰も恨んでないし、それでよかったのに」
「小花……蝕神さまのことが僕より好きになったの? 僕がずっと小花を支えていたじゃないか」
ふるふると小花は首を振った。
「違うよ、全然違う。良平さんは、好きなら我慢してって私に強いるばかりで。私に苦痛しか与えなかった。蝕神さまは違う。私になにも無理強いしたりしなかった。全然違うよ」
良平は突然無表情になった。憤りでも悲しみでもなく、死人のような顔つきになり、小花の細腕を握りしめた。加減もなく、骨が軋むほど強く。小花は振り払おうとしたが、びくともせず。
「でも、それは小花のためじゃないよ」
「──え?」
「黒木家の使者が蝕神さまと話しているのを聞いてたんだ。蝕神さまが小花に優しくするのは好きだからじゃない。小花の中の魔性があふれ出るのが怖いからだ。刺激しないようにしていただけさ。うわべだけというなら蝕神さまだってそうさ。そんなこと、小花だって分かっているだろ」
「……やめて」
「好きだとでも言われたの? 蝕神さまは必ずまた贄を娶るよ。黒木家の娘と契りを交わすことで氏神として祀られているんだ。そうでなければ蝕神さまは信仰を持続できず、ただの蛆虫に戻る。かわいそうに、騙されたんだね」
「やめてよ!! そんなこと聞きたくない!! 気づかせないでよ!!」
小花に集っていた蛆が一気に蒸発した。ぽろぽろと涙が流れる。憎悪が、悲しみがあふれ出す。胸の内の魔性が騒ぐ。小花の負の感情に反応して、ざわめく。──どうして、優しい嘘の中、死ぬことすら許されないのか。
「蝕神さまは黒木家に言われて、小花の穢れをろ過しようとしてただけ。愛なんてあるわけないよ」
「ひどい」
「うん、ひどいね、何も知らない娘と見下して。だから、小花のこと、本当に好きなのは僕だけだよ。一緒に逃げ──」
「ひどい! ひどい!! ひどいいいい!!」
どろり、と小花は泥の涙を流した。感情の栓が切れた。竜巻のような邪気がとぐろを巻く。目から口から耳から、蛇神 、猫鬼、犬神、管狐が噴出する。逆立つ小花の髪は小さな蛇の集合体になり、瞳は犬のように光り、狐の尻尾が生え、爪は猫のように鋭くなり、遠吠えのような唸り声をあげた。
「呪ってやる! 祟ってやる! 皆大嫌い! 皆消えろ! 皆死ね!! 死んでしまえ!!」
良平の首を目掛けて鋭い爪を振るう。
喉元に血が掠った瞬間。
──地中から湧いて出た蜘蛛の糸が、小花を羽交い絞めにした。
「蛆が言うのもなんだけどさあ、まじで気色悪いね。お前」
あきれ果てた虚は、大きなため息をついた。
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