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終章 神殺し
49、仄明かり②
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ずっと、暗闇の中を彷徨っていた。
真っ暗闇は輪郭をあやふやにさせて、自分の境目が分からなくなる。
光が届かなければ。
──あかりが、灯らなければ。
自分のことも認識できない。
吞まれそうな闇の中、一筋の光が差す。
小さな小さな光は徐々に光彩を増し、輪郭の影が浮かび上がる。
誰も気づかなかった闇の中の影。けれど、確かにそこに存在した人影。
眩い光が名前を呼ぶ。声に出して答える。
──自分はこんな声をしていたのか。
眩い光が身体に触れる。手を伸ばして抱きしめ返す。
──自分の内にはこんな熱があったのか。
眩い光が涙をこぼす。痛みと愛おしさで胸が締め付けられる。
──自分の心はこういう感情があったのか。
明里が浮かび上がらせるひとつひとつが千影の輪郭を確かなものにしていく。
──ああ、自分はこんな姿形をしていたのか。
千影はゆっくりと目を開いた。
神様の右目と人間の左目でずれていたはずの視界。その焦点がしっかり重なる。
両の目は同じ濡羽色。この地の人間と同じ目の色。
焦点の合った視界で最初に捉えたのは、やはり自らの伴侶だった。
「……お身体は大丈夫ですか? 千影さま」
「それは俺の台詞ではないのか?」
千影が苦笑すると、明里は目を瞬かせ。
「……だいじょうぶです」と千影の腕の中で赤面した。
十二月三十一日。大晦日。
昨日から降り続いた雪は小降りになったが、朝を迎えても仄暗い。
寝所で御衣にくるまって二人は身を寄せ合っていた。
本来ならば今夜。年明けの再生の晩に二人は契り、天界に行くはずだった。
一日早まった約束。千影の両目が黒に染まり、完全に神気が失せたのを悟って明里は目を伏せた。
「……神様である千影さまも、千影さまの大事な部分だって分かっていました。でも、後悔はしていません」
千影は目を細めて微笑んだ。
遠くまで見通せる目も、彼方まで聞こえる耳も、変幻自在の身体もない。
神秘のすべてが遠ざかっていく。
身体中を雁字搦めに縛られたように感じて──それがとても、嬉しかった。
「俺もだよ。明里のためだけの“俺”になったこと、後悔していない。“千冬”の器を壊されたとき、俺はお前に『名前』を縋ってしまった。神が助けを求めてしまった──幻が実体を求めてしまった。その時点でもう神と呼べる存在じゃなかったんだろう。だから、こうなることは決まっていたんだよ」
明里のむきだしの肩を抱き、ようやく手に入れた自らの伴侶の存在を噛み締めていた。
「……ずいぶんみっともない醜態を晒してしまったな。でもきっと、天界でお前と時を過ごし、お前が死んだあと『千影』を解かれたりしたら、もっとひどい有様になったに違いない。それこそ大洪水を起こして村の一つや二つ、滅ぼしかねないくらい狼狽えただろうな」
自分自身を見つけてくれた人と心から通い合ったあとで、また別の誰かになるなんて。まぼろしに戻るなんて、きっとできない。千影が見て見ぬふりしてきた行きつく未来の結末。その恐怖を思い知らされただけだ。
「そういう意味では蝕神に感謝せねば」
ふ、と千影が冗談めかして笑ったので、明里は目を見開き。
「じょ、冗談じゃありません。あんな人に感謝する必要なんてありません、千影さまはお優しすぎます。そんな簡単に許してしまったら、怒った私が馬鹿みたいじゃないですか!」
千影の腕からすり抜けて背を向けてしまった。その肩がふるふる震えているのを見て千影は慌てた。
「あの人、すごい千影さまのこと見下してたんですから、そんな人まで簡単に許さないで」
「ごめん明里、考えなしの言葉だった。お前のためにも俺は自分を大事にするから。機嫌を治してくれ。お前に嫌われてしまったら神殺しなんて関係なしに俺は生きていけないよ」
千影が甘ったるい声で明里を背後から抱きしめる。
むす、と不貞腐れていた明里は「神殺し」の一言でいからせた肩の力を抜いた。
明里を抱きしめる左手。ひび割れた傷から噴き出していた血は止まっている。
以前のように禊で血の穢れを祓わずとも。かさぶたになって塞がっていた。
それは千影が人間になった証明。
「……蝕神さまは許せないし、本当に後悔もしていないけど……十二柱を消したら忌地になるって……やっぱり幻神さまを殺した罰はあるんでしょうか」
その懸念は千影が神様で居続けようとした理由のひとつでもある。
國の支配と信仰をまとめるための十二柱。信仰心というのは、神様にとっても権力者にとっても都合がよく。ただの庶民にとっても生きる上での拠り所として欠かせないものだった。その象徴を消したとすれば見せしめが起きる。次に同じことをする輩が出ないように神様も人間もこの地を廃村にするまで許さないだろう。忌地になるとはそういうこと。
だが、千影はひとつ思い浮かぶ存在がある。あの“巫女”──巫女に憑りついた神の諱を持つ赤子の魂。
「それについてはまだ分からない。“巫女”──あの子次第だな。俺を人間にと、明里に助言したのなら、あの子はおそらく……いや、ちゃんと話を聞かねば。それにしてもいったいいつの間に離れたのやら」
千影が不思議そうにするので、明里も首を傾げ。
「千影さまも巫女さまに赤子の魂が憑いてるって気づいてなかったんですか?」
「……少し妙だとは思ったことはあったがまったく。最初の頃はむしろお前の肩を持っていた気がするし、お前だって分からなかったんだろう? どちらにせよ恩人には違いないな」
こうして明里と名実とも夫婦になれたし、と千影は頬ずりする。明らかに浮かれている千影の様子に明里はむずがゆくなる。
「明日の朝、元旦の夜明けに、一緒に社に来てくれないか。巫女に確認したいことがある。それに蝕神は暁神の命で来たと言ってた。だからおそらく、次に来るのは──」
明日の朝。一月一日。
幻神が贄を天界に連れていく期限の最終日。
それはもう永遠に叶わなくなってしまった。
明里は不安そうにしたが、千影は「……いや、今はこの話はよそう」と言い直した。身を起こし、明里の髪を撫で、額に口づけした。
「たくさん無理させたからな、今日はよく休め。食事の支度は俺がするから」
散らばった水干に袖を通し、明里に寝所から出るなと言う。
「え、あの、でも重要なお話じゃないんですか? 今からでも私、大丈夫で──」
と、言ったそばから明里はそのままへたり込んだ。身体に上手く力が入らない。
千影はふらつく明里の身体を支え、夜着を着せる。
「だめだ。蝕神とのやり合いですごく消耗している。今日は休まねば……足腰が立たないのは俺のせいだな。優しくできなくてごめん」
頬を染めた千影の一言で熱に浮かされた昨夜を思い出し。
明里は恥ずかしくなって「……やめないでって言ったのはわたしです」と寝所で丸くなった。
***
そうして、夜が来て、朝を迎える。毎日同じ繰り返しだけれど、その日だけは毎年特別。一年が終わり、一年が始まる。元日。夜明け前に千影と明里は社に向かう。明里の体調は戻ったけれど、千影はしっかりと明里の手を繋いでいた。
雪は止んだが、村中を真っ白に埋もれさせていた。社までの道筋だけが水に濡れて溶けていたのは“巫女”の力か。社の境内、鳥居の下。行灯に照らされた“巫女”は二人を視界に捉えると、優しく微笑んだ。
「無事、結びは果たされたようですね。本当によかった。幻神さま──いえ、千影さま」
ほんのりと青白く光る“巫女”を見て、千影は口を開いた。
「……お前、本当に俺が諱を授けた赤子なのか」
「はい、私の名は──鏡。あなたの名前を頂いた者。この諱があなたにもう馴染まないのも道理ですね。あなたはもう鏡ではないのだから」
巫女は──『鏡』は胸に手を当て。
「あなたがあなたであると無自覚に意識した瞬間。一体化していた『私』ともズレが生じました。あなたから切り離されてこの村の巫女さまに憑いたのです。最初に幻神さまがこの地に降り立ったとき──“千冬”に成り代わろうとして、千冬の遺灰を激しく拒絶した、そのときに」
懐から千冬の遺灰を出した。大事にしまわれたその麻袋を見て、明里も、そして千影も安堵の息を吐いた。
「では、そのときから? 巫女は当初、明里の肩ばかり持っていて、俺は面白くないと思っていたのだが」
「初めて切り離された私は無意識に身体を求めて、その場で一番神の器に近い人物に憑りついたにすぎません。巫女さまも気づいていなかったと思います。私が『私』として浮上してきたのは、あなたが『千影』の名前を得てから。完全に私とあなたが別人になったからです」
鏡は二人を焚火のそばに呼び寄せた。人間の身である二人には凍えるような冷気に晒されても薄着の巫女装束で平然としていた。
「私はあなたに神の諱を返すまたとない機会だと思いました。でも機会を窺っているうちにあなたはどんどんこの地に根付き、幻ではなくなり、『千影』になり、諱が馴染まなくなってしまった」
「……いいえ、そうではありませんね」と鏡は自らの言葉をそこで否定した。
「……違います。あなたと話せるのが嬉しくて。あなたの恋を応援したくて。あなたとお別れするのが寂しかっただけ。諱を返してしまったら、私は千年前に死ぬはずだった赤子の魂。すぐに泡と消えてなくなる。それが悲しくてずるずる引き伸ばしていたら、そのころにはもう諱はお返しできなくなってしまいました」
鏡は千影の刻まれた傷跡を見る。蕗ふきの赤子、柊ひいらぎに触れてできた傷。幻に傷がついた瞬間が、おそらく完全な乖離。
「それでもまだ、あなたは幻神さまに戻る意思がありました。本来ならそのお心のままに神様に戻すべきだったかもしれません。でも私の勝手な気持ちで、あなたを人間にと明里に助言いたしました。あなたをもう幻に戻したくはなかったですし……もういい加減、親離れしなくちゃいけないから。誰かに寄りかかるのはやめて、ひとりでやっていかなくちゃいけない、から」
最後の台詞は、まるで幼子が自分に言い聞かせているような響きだった。
鏡は意を決して、まっすぐに千影を見た。
「千影さま──私に『幻神』をお譲りください。水の信仰の象徴になり、土地の贄を愛し、十二柱としてあなたの後を継がせてください」
その瞬間に、光が差した。
雲を切り裂き、闇夜を照らし。暁色に染め上げる。ご来光。
「──おやおやおや、なにやら重要な話をしているじゃないか。それはわたしも是非聞きたいね。なにせ十二柱を取りまとめているのも、十二柱を選んだのもこのわたしなのだから! わたしにも話を通しておくれよ」
大げさな演技めいた口調。
甲高い声。暁色の右目を宿し、暁色の長い髪をたなびかせ。
その夜明けの神様は光とともに降り立った。
十二柱を統べるもの。千影を幻神に据え、蝕神を遣わした本人。
暁神は、その場の面々を見渡して愉快そうに衣を翻した。
「諸君、あけましておめでとう。君たち全員が幸せになるために──わたしと最後の問答をしようか」
真っ暗闇は輪郭をあやふやにさせて、自分の境目が分からなくなる。
光が届かなければ。
──あかりが、灯らなければ。
自分のことも認識できない。
吞まれそうな闇の中、一筋の光が差す。
小さな小さな光は徐々に光彩を増し、輪郭の影が浮かび上がる。
誰も気づかなかった闇の中の影。けれど、確かにそこに存在した人影。
眩い光が名前を呼ぶ。声に出して答える。
──自分はこんな声をしていたのか。
眩い光が身体に触れる。手を伸ばして抱きしめ返す。
──自分の内にはこんな熱があったのか。
眩い光が涙をこぼす。痛みと愛おしさで胸が締め付けられる。
──自分の心はこういう感情があったのか。
明里が浮かび上がらせるひとつひとつが千影の輪郭を確かなものにしていく。
──ああ、自分はこんな姿形をしていたのか。
千影はゆっくりと目を開いた。
神様の右目と人間の左目でずれていたはずの視界。その焦点がしっかり重なる。
両の目は同じ濡羽色。この地の人間と同じ目の色。
焦点の合った視界で最初に捉えたのは、やはり自らの伴侶だった。
「……お身体は大丈夫ですか? 千影さま」
「それは俺の台詞ではないのか?」
千影が苦笑すると、明里は目を瞬かせ。
「……だいじょうぶです」と千影の腕の中で赤面した。
十二月三十一日。大晦日。
昨日から降り続いた雪は小降りになったが、朝を迎えても仄暗い。
寝所で御衣にくるまって二人は身を寄せ合っていた。
本来ならば今夜。年明けの再生の晩に二人は契り、天界に行くはずだった。
一日早まった約束。千影の両目が黒に染まり、完全に神気が失せたのを悟って明里は目を伏せた。
「……神様である千影さまも、千影さまの大事な部分だって分かっていました。でも、後悔はしていません」
千影は目を細めて微笑んだ。
遠くまで見通せる目も、彼方まで聞こえる耳も、変幻自在の身体もない。
神秘のすべてが遠ざかっていく。
身体中を雁字搦めに縛られたように感じて──それがとても、嬉しかった。
「俺もだよ。明里のためだけの“俺”になったこと、後悔していない。“千冬”の器を壊されたとき、俺はお前に『名前』を縋ってしまった。神が助けを求めてしまった──幻が実体を求めてしまった。その時点でもう神と呼べる存在じゃなかったんだろう。だから、こうなることは決まっていたんだよ」
明里のむきだしの肩を抱き、ようやく手に入れた自らの伴侶の存在を噛み締めていた。
「……ずいぶんみっともない醜態を晒してしまったな。でもきっと、天界でお前と時を過ごし、お前が死んだあと『千影』を解かれたりしたら、もっとひどい有様になったに違いない。それこそ大洪水を起こして村の一つや二つ、滅ぼしかねないくらい狼狽えただろうな」
自分自身を見つけてくれた人と心から通い合ったあとで、また別の誰かになるなんて。まぼろしに戻るなんて、きっとできない。千影が見て見ぬふりしてきた行きつく未来の結末。その恐怖を思い知らされただけだ。
「そういう意味では蝕神に感謝せねば」
ふ、と千影が冗談めかして笑ったので、明里は目を見開き。
「じょ、冗談じゃありません。あんな人に感謝する必要なんてありません、千影さまはお優しすぎます。そんな簡単に許してしまったら、怒った私が馬鹿みたいじゃないですか!」
千影の腕からすり抜けて背を向けてしまった。その肩がふるふる震えているのを見て千影は慌てた。
「あの人、すごい千影さまのこと見下してたんですから、そんな人まで簡単に許さないで」
「ごめん明里、考えなしの言葉だった。お前のためにも俺は自分を大事にするから。機嫌を治してくれ。お前に嫌われてしまったら神殺しなんて関係なしに俺は生きていけないよ」
千影が甘ったるい声で明里を背後から抱きしめる。
むす、と不貞腐れていた明里は「神殺し」の一言でいからせた肩の力を抜いた。
明里を抱きしめる左手。ひび割れた傷から噴き出していた血は止まっている。
以前のように禊で血の穢れを祓わずとも。かさぶたになって塞がっていた。
それは千影が人間になった証明。
「……蝕神さまは許せないし、本当に後悔もしていないけど……十二柱を消したら忌地になるって……やっぱり幻神さまを殺した罰はあるんでしょうか」
その懸念は千影が神様で居続けようとした理由のひとつでもある。
國の支配と信仰をまとめるための十二柱。信仰心というのは、神様にとっても権力者にとっても都合がよく。ただの庶民にとっても生きる上での拠り所として欠かせないものだった。その象徴を消したとすれば見せしめが起きる。次に同じことをする輩が出ないように神様も人間もこの地を廃村にするまで許さないだろう。忌地になるとはそういうこと。
だが、千影はひとつ思い浮かぶ存在がある。あの“巫女”──巫女に憑りついた神の諱を持つ赤子の魂。
「それについてはまだ分からない。“巫女”──あの子次第だな。俺を人間にと、明里に助言したのなら、あの子はおそらく……いや、ちゃんと話を聞かねば。それにしてもいったいいつの間に離れたのやら」
千影が不思議そうにするので、明里も首を傾げ。
「千影さまも巫女さまに赤子の魂が憑いてるって気づいてなかったんですか?」
「……少し妙だとは思ったことはあったがまったく。最初の頃はむしろお前の肩を持っていた気がするし、お前だって分からなかったんだろう? どちらにせよ恩人には違いないな」
こうして明里と名実とも夫婦になれたし、と千影は頬ずりする。明らかに浮かれている千影の様子に明里はむずがゆくなる。
「明日の朝、元旦の夜明けに、一緒に社に来てくれないか。巫女に確認したいことがある。それに蝕神は暁神の命で来たと言ってた。だからおそらく、次に来るのは──」
明日の朝。一月一日。
幻神が贄を天界に連れていく期限の最終日。
それはもう永遠に叶わなくなってしまった。
明里は不安そうにしたが、千影は「……いや、今はこの話はよそう」と言い直した。身を起こし、明里の髪を撫で、額に口づけした。
「たくさん無理させたからな、今日はよく休め。食事の支度は俺がするから」
散らばった水干に袖を通し、明里に寝所から出るなと言う。
「え、あの、でも重要なお話じゃないんですか? 今からでも私、大丈夫で──」
と、言ったそばから明里はそのままへたり込んだ。身体に上手く力が入らない。
千影はふらつく明里の身体を支え、夜着を着せる。
「だめだ。蝕神とのやり合いですごく消耗している。今日は休まねば……足腰が立たないのは俺のせいだな。優しくできなくてごめん」
頬を染めた千影の一言で熱に浮かされた昨夜を思い出し。
明里は恥ずかしくなって「……やめないでって言ったのはわたしです」と寝所で丸くなった。
***
そうして、夜が来て、朝を迎える。毎日同じ繰り返しだけれど、その日だけは毎年特別。一年が終わり、一年が始まる。元日。夜明け前に千影と明里は社に向かう。明里の体調は戻ったけれど、千影はしっかりと明里の手を繋いでいた。
雪は止んだが、村中を真っ白に埋もれさせていた。社までの道筋だけが水に濡れて溶けていたのは“巫女”の力か。社の境内、鳥居の下。行灯に照らされた“巫女”は二人を視界に捉えると、優しく微笑んだ。
「無事、結びは果たされたようですね。本当によかった。幻神さま──いえ、千影さま」
ほんのりと青白く光る“巫女”を見て、千影は口を開いた。
「……お前、本当に俺が諱を授けた赤子なのか」
「はい、私の名は──鏡。あなたの名前を頂いた者。この諱があなたにもう馴染まないのも道理ですね。あなたはもう鏡ではないのだから」
巫女は──『鏡』は胸に手を当て。
「あなたがあなたであると無自覚に意識した瞬間。一体化していた『私』ともズレが生じました。あなたから切り離されてこの村の巫女さまに憑いたのです。最初に幻神さまがこの地に降り立ったとき──“千冬”に成り代わろうとして、千冬の遺灰を激しく拒絶した、そのときに」
懐から千冬の遺灰を出した。大事にしまわれたその麻袋を見て、明里も、そして千影も安堵の息を吐いた。
「では、そのときから? 巫女は当初、明里の肩ばかり持っていて、俺は面白くないと思っていたのだが」
「初めて切り離された私は無意識に身体を求めて、その場で一番神の器に近い人物に憑りついたにすぎません。巫女さまも気づいていなかったと思います。私が『私』として浮上してきたのは、あなたが『千影』の名前を得てから。完全に私とあなたが別人になったからです」
鏡は二人を焚火のそばに呼び寄せた。人間の身である二人には凍えるような冷気に晒されても薄着の巫女装束で平然としていた。
「私はあなたに神の諱を返すまたとない機会だと思いました。でも機会を窺っているうちにあなたはどんどんこの地に根付き、幻ではなくなり、『千影』になり、諱が馴染まなくなってしまった」
「……いいえ、そうではありませんね」と鏡は自らの言葉をそこで否定した。
「……違います。あなたと話せるのが嬉しくて。あなたの恋を応援したくて。あなたとお別れするのが寂しかっただけ。諱を返してしまったら、私は千年前に死ぬはずだった赤子の魂。すぐに泡と消えてなくなる。それが悲しくてずるずる引き伸ばしていたら、そのころにはもう諱はお返しできなくなってしまいました」
鏡は千影の刻まれた傷跡を見る。蕗ふきの赤子、柊ひいらぎに触れてできた傷。幻に傷がついた瞬間が、おそらく完全な乖離。
「それでもまだ、あなたは幻神さまに戻る意思がありました。本来ならそのお心のままに神様に戻すべきだったかもしれません。でも私の勝手な気持ちで、あなたを人間にと明里に助言いたしました。あなたをもう幻に戻したくはなかったですし……もういい加減、親離れしなくちゃいけないから。誰かに寄りかかるのはやめて、ひとりでやっていかなくちゃいけない、から」
最後の台詞は、まるで幼子が自分に言い聞かせているような響きだった。
鏡は意を決して、まっすぐに千影を見た。
「千影さま──私に『幻神』をお譲りください。水の信仰の象徴になり、土地の贄を愛し、十二柱としてあなたの後を継がせてください」
その瞬間に、光が差した。
雲を切り裂き、闇夜を照らし。暁色に染め上げる。ご来光。
「──おやおやおや、なにやら重要な話をしているじゃないか。それはわたしも是非聞きたいね。なにせ十二柱を取りまとめているのも、十二柱を選んだのもこのわたしなのだから! わたしにも話を通しておくれよ」
大げさな演技めいた口調。
甲高い声。暁色の右目を宿し、暁色の長い髪をたなびかせ。
その夜明けの神様は光とともに降り立った。
十二柱を統べるもの。千影を幻神に据え、蝕神を遣わした本人。
暁神は、その場の面々を見渡して愉快そうに衣を翻した。
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