46 / 56
4章 神様と血を流す
42、面影
しおりを挟む
神様の諱を与えられた赤子は、人間の死からは外れて。
息絶えるのと同時に、水に解けて消えた。
赤子がどうなったかは、分からない。
諱を譲渡した瞬間に、自分の核も、芯もあやふやになって。
抱く子もいない“母親”の姿のまま、意味もなく、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
──どのくらい、そうしていただろう。
「なんとまあ、愚か者がいたものだ。諱を手放すなんて」
快活な明るい声は、肩をすくめながら、幻に話しかけた。
「身を削って大事なものを与えてしまっては、それは助けたとは言わないよ。それは共倒れっていうんだよ」
***
黒髪に顔を埋めた千影は、縋るように明里を掻き抱いた。
「──もっともっと、俺のこと、好きになってくれ、明里」
「千影さま……」
瞼に、頬に、鼻筋に、口づけの雨。
熱い唇で輪郭をなぞられて、身体の力が抜けた。
揺らぐ瞳と交わる。
神様の右目も、人間の左目も。どちらも同じくらい、愛おしく。
引き寄せられるように、唇を重ねた。
食いつくすように明里の唇を食む千影に押されて、ぼすん、と布団に身体が沈む。
「──……明里」
身に伸し掛かる重みに、うっとりと流されかけて──明里は、は、と我に返った。
「ち、ちかげさま、待って、待ってくださ」
「何故? 元気になったら本当の妻になると約束した。そう言ったのはお前だ」
「そ、そうなんですけど、あの……」
もじもじと頬を染めて、口ごもる。
「……恥じらいだけなら、やめてやれないぞ」
「ち、ちがい、ます、そうじゃな、……ん、……ま、く、くち、塞がないでくださ、」
もみくちゃにされて、息も絶え絶えになりながら、明里は慌てた。
「わ、わたし、はじめて、なので‥‥」
「……それが? もしかして怖いのか? 大丈夫、ちゃんと優しくする……」
明里は真っ赤になった。そうじゃない。
「違います! 血が! 今の千影さまの容態だと、少しも血に触れちゃだめだって、み、巫女さまが!!」
ぴたり、と──さすがに千影の動きが止まった。
湯気が出そうな明里をまじまじと見つめ、何とも言えない顔で押し黙り。
「──いい、」
「へ?」
「もういい、その血で殺してくれるなら本望だ」
と、明里をもみくちゃしていた手を再開させた。明里は泡を食って抵抗する。
「え!? だ、だめです! 私が嫌です!」
「そんなこと言ってたら、いつまでたっても夫婦になれない」
「そう、なんですけど、とりあえず、まだ待って。む、村の人にも顔向けできませんから……!」
あれだけ協力してくれた村人に「いちゃいちゃしていたら悪化させました」とかどの面下げて言えばいいのか。
「お前も俺を好いてくれているのに、待つのはもう無理だ。それに、もし、死んでも後追いしてくれるんだろ?」
「え、いや、さすがにその理由で心中はちょっと……あの、わ、私も、我慢しますからー!」
「もう本っ当ごめん、本当に邪魔する気ないんだけど、入っていいかな? さすがに今始められると困るっていうか、止めたほうがいい感じなの、これ? 明里ちゃん」
開けっ放しの襖の外で、蕗が赤子を抱えて、口をへの字にさせていた。
「あ、蕗! いいよ、邪魔して! どうぞどうぞ」
「こら、逃げるな明里。おい、蕗! 邪魔するな、お前何度目だと思っている。いい加減にしろ!」
「なんかもうすっごい元気だし、あたしの涙返して欲しいんだけど……」
蕗はげんなりと、ため息をついた。
***
その後、茶を出しに来た巫女に「まだ絶対安静です」と釘を刺されて、千影は不貞腐れながら枕に身を横たえた。
明里は苦笑いしていたが、巫女が去ると、蕗は真剣な顔をして話を切り出した。
「俺を、赤子の名付け親に?」
「はい、助けて頂いたお礼もかねて。本当にありがとうございました」
赤子を抱えたまま、蕗は深々頭を下げる。
「それは……あんまり気にするな。無事でよかった。本当に」
千影は、蕗の腕の中ですやすや眠る赤子を見て、安心したように微笑んだ。
「まだまだこれからが大変だろう。余計なことは気にせず、自分と赤子のことだけ考えろ。平太にも礼を言っておいてくれ。いろいろと俺のために苦心してくれたのだろう?」
「余計なことじゃないです」と、蕗も、そして、明里も眉をひそめると、千影は苦笑した。
「俺が助かったのは、その子の生命力に引きずられたからでもある。その子はきっと、元気に育つよ。それに──おかげで俺もひとつ、思い出したことがある」
千影は目を細めた。遠く、懐かしむように座敷の天井を見つめる。
「俺の最初の贄は、赤子だった。産まれてすぐの。その子と同じくらいの──」
明里と蕗は目を瞬かせたが、千影は古い記憶を手繰り寄せながら、昔話を始めた。
「今よりずっと遠い昔。まだ、神の世も人の世も、境界があやふやな頃。神もあやかしもそこら中に湧き出していて、俺もその内の一人だった。俺は凪いだ小川で、とても澄んだ水だったから、人間たちが水面に顔を映しに来ていた」
古来から姿を映す鏡は神秘的な呪具や、祭具として扱われていた。川の水面みなもも、自然の映し鏡である。
「清らかな水はそれだけで神水、霊水と呼ばれる。水が穢れてしまっては人間は身体を病むからな。神性なものとして大事にされるんだ。徐々に川自体が神聖視されるようになったとき、突然、赤子が俺の中に落ちてきた。その泣き声が、あんまりに喧しくて、それで俺は目を覚ましてしまった」
千影の声はどこか遠くから響くような、不思議な声色をしていた。
「何故、落ちてきたのかは分からない。事故だったのか。口減らしだったのか。それとも、やはり雨乞いの贄だったのか。なんにせよ、そのままでは溺死する。死なれてしまっては、水が穢されると──俺はそう思った。赤子を抱きかかえるには人間の腕がいる。だから俺は赤子の『望む姿を身に映して』、母親になった」
そうして、千影は目を伏せ、自嘲するように笑った。
「けれど、所詮マガイモノ。見た目は“母親”でも、そのときの俺は同じ赤子のようなもの。なにもできず、何も与えられず、──結果、三日と持たず。赤子はこの世を去った」
そんな、と明里は痛ましそうに声を上げたが、千影は静かに続けた。
「あんなにも強い産声を上げていたものが、ゆっくりと息絶えていくのを。人が死ぬところを初めて見た。それがなんだが、──とてもつらくて、悲しくて、気づいたら涙を流していた。俺の涙は雨になって、その地を潤わした。皮肉にも、そのせいでさらに俺の水神としての信仰は広がった」
ああ、そのときに、名前も一緒に失くしてしまったと、ぽつりと千影は呟いた。
「そこに目を付けた当時の巫女が『幻神』と名付けて、俺を十二柱に据えた。実体がないのに、赤子の“母親”の姿のまま揺蕩っていた俺はまさに、まぼろし。神名はすぐに馴染んだよ。『誰かを恋しいと願う声に惹かれて、贄の望む姿になる』。それが俺の在り方として固定された。時が下り、儀式がきちんとした定め事になっていった頃には、贄は赤子ではなくて、伴侶にと、様変わりしたけれど」
昔語りを終え、千影は目を開いた。もう一度、千影は蕗の抱える赤子を見る。
「だから──その子を助けたのは、俺自身の悔いでもあったんだよ。その子が助かって俺も救われたんだ」
千影は笑った。眩しく、無垢な笑顔で。
「気に病むことはない。俺の事情で助けただけだ。そもそも、長老殿が村中に産屋うぶやを置いていなければ、間に合っていない。産婆や錦にしきがいなければ、この世に産まれ落ちることすら難しい。当たり前に在るものは、決して当たり前ではない。だから、名前はちゃんと蕗がつけてやれ。確かに俺が助けてしまったけれど、その子には、もう神の加護はないのだから」
蕗は目を開いたまま、唇を噛んだ。赤子を抱きしめたあと、すう、と大きく息を吸い込み。
「ああ、もうぐだぐだと煩いな! 本当にお人好し! 善意くらい、素直に受け取ってよ。あたしも平太さんも、気に病んでとか、神様の加護が欲しいとかじゃなくて、」
蕗は赤子を千影に向かってぐっと差し出した。丸くつややかで、血を分けた自分の子を。
「幻神さまじゃなくて、神様じゃなくて、ただ、助けてくれたあなたに──ち、千影さんにつけてほしいって、言ってるの!」
蕗の大きな声に驚き、赤子がむずがってオギャアと泣く。「ああ、ごめんごめん」と慌てて蕗があやす。大きく目を見開いた千影はしばらく、母親と子の姿を、黙って眺めていた。ゆっくり起き上がり、千影は赤子に向かって手を伸ばした。綺麗なままの右手も、傷跡の残る左手も、大きく広げた。
「その子を、こちらに──」
蕗は瞠目したあと、赤子を躊躇いなく預けた。千影は危なげなく、頭と首をしっかり支え、包み込むように抱きしめた。
赤ん坊を抱いたことのある、そういう人の抱き方だった。
「……人間の名づけ方は、やっぱりよく分からないけれど。でも……そうだな。『千』の字は俺がもらってしまったから。千冬のもう半分はお前がもらってくれ。俺一人が抱えるには大きな存在だから」
千影は一度息を吸い込み、迷いなく言葉を紡いだ。
「──柊。冬の魔除けの樹木の名だ。お前の母親のように地にしっかり根付くように。せめて、名前だけでも加護がありますように」
千影は赤子に言祝ぎを与える。『柊』に、優しい微笑みを落とす。その泣き声を聞くのですら、愛おしそうにしていた。
「ああ、やっと、ちゃんとなにかを与えることが、できた気がする」
「……なんだかいろいろ納得です。千影さまが川に落ちた私を必死に助けてくれた理由も。死の不浄が嫌いな理由も。すごく優しい理由も」
蕗が帰り、明里の作った粥を美味しそうに平らげていた千影は、明里の言葉に首を傾げた。
『神様』が穢れである血や死が苦手という理由だけでなく、きっと千影自身が、苦手なのだ。人の死というものが。
「千影さまは、最初の贄も、これまでの贄の人も、皆大事にしてきたんですね。その中で、きっと千影さまは自分を育てていたんだなあって」
確かに『千影』を見つけたのは明里だけれど、千影を形作っていたものは、決して明里だけではなくて。
「……清治が千影さまには人間と同じように、血が通ってるんじゃないかって言ってたけど、その通りですね。きっと、ずっと前から千影さまには血が通っていたんですね」
千影は一層不思議そうに難しい顔をした。
「俺には血なんて通ってなかったはずだぞ。柊に触って、生きる血を分けてもらっただけで」
「え、だって」
明里は千影を真っ直ぐに見た。
血を流す姿を目の当たりにする以前にも、明里には思い当たる節はある。
「千影さま、好きです」
唐突な告白に、千影は目を丸くさせた。
「私、千影さまが大好き。正直で嘘つけなくてすぐ拗ねて、すごく優しいところが好き」
「……なんだ、急に。嬉しいけど」
じわわ、と千影は赤くなる。
「好きになってくれ」と自分で言ったくせに、いざ告白されると赤面する千影を、明里はまじまじと見つめ、
「そうやって、自分はすごいこと言うくせに、私から好きって言われると照れちゃうのも好き」
「本当になんだ。からかっているのか?」
茹で蛸のように真っ赤になった千影を見て、明里は笑った。
ほら、やっぱり、血が通っている。
でなければ、そんなに真っ赤になったりしないのだ。
息絶えるのと同時に、水に解けて消えた。
赤子がどうなったかは、分からない。
諱を譲渡した瞬間に、自分の核も、芯もあやふやになって。
抱く子もいない“母親”の姿のまま、意味もなく、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
──どのくらい、そうしていただろう。
「なんとまあ、愚か者がいたものだ。諱を手放すなんて」
快活な明るい声は、肩をすくめながら、幻に話しかけた。
「身を削って大事なものを与えてしまっては、それは助けたとは言わないよ。それは共倒れっていうんだよ」
***
黒髪に顔を埋めた千影は、縋るように明里を掻き抱いた。
「──もっともっと、俺のこと、好きになってくれ、明里」
「千影さま……」
瞼に、頬に、鼻筋に、口づけの雨。
熱い唇で輪郭をなぞられて、身体の力が抜けた。
揺らぐ瞳と交わる。
神様の右目も、人間の左目も。どちらも同じくらい、愛おしく。
引き寄せられるように、唇を重ねた。
食いつくすように明里の唇を食む千影に押されて、ぼすん、と布団に身体が沈む。
「──……明里」
身に伸し掛かる重みに、うっとりと流されかけて──明里は、は、と我に返った。
「ち、ちかげさま、待って、待ってくださ」
「何故? 元気になったら本当の妻になると約束した。そう言ったのはお前だ」
「そ、そうなんですけど、あの……」
もじもじと頬を染めて、口ごもる。
「……恥じらいだけなら、やめてやれないぞ」
「ち、ちがい、ます、そうじゃな、……ん、……ま、く、くち、塞がないでくださ、」
もみくちゃにされて、息も絶え絶えになりながら、明里は慌てた。
「わ、わたし、はじめて、なので‥‥」
「……それが? もしかして怖いのか? 大丈夫、ちゃんと優しくする……」
明里は真っ赤になった。そうじゃない。
「違います! 血が! 今の千影さまの容態だと、少しも血に触れちゃだめだって、み、巫女さまが!!」
ぴたり、と──さすがに千影の動きが止まった。
湯気が出そうな明里をまじまじと見つめ、何とも言えない顔で押し黙り。
「──いい、」
「へ?」
「もういい、その血で殺してくれるなら本望だ」
と、明里をもみくちゃしていた手を再開させた。明里は泡を食って抵抗する。
「え!? だ、だめです! 私が嫌です!」
「そんなこと言ってたら、いつまでたっても夫婦になれない」
「そう、なんですけど、とりあえず、まだ待って。む、村の人にも顔向けできませんから……!」
あれだけ協力してくれた村人に「いちゃいちゃしていたら悪化させました」とかどの面下げて言えばいいのか。
「お前も俺を好いてくれているのに、待つのはもう無理だ。それに、もし、死んでも後追いしてくれるんだろ?」
「え、いや、さすがにその理由で心中はちょっと……あの、わ、私も、我慢しますからー!」
「もう本っ当ごめん、本当に邪魔する気ないんだけど、入っていいかな? さすがに今始められると困るっていうか、止めたほうがいい感じなの、これ? 明里ちゃん」
開けっ放しの襖の外で、蕗が赤子を抱えて、口をへの字にさせていた。
「あ、蕗! いいよ、邪魔して! どうぞどうぞ」
「こら、逃げるな明里。おい、蕗! 邪魔するな、お前何度目だと思っている。いい加減にしろ!」
「なんかもうすっごい元気だし、あたしの涙返して欲しいんだけど……」
蕗はげんなりと、ため息をついた。
***
その後、茶を出しに来た巫女に「まだ絶対安静です」と釘を刺されて、千影は不貞腐れながら枕に身を横たえた。
明里は苦笑いしていたが、巫女が去ると、蕗は真剣な顔をして話を切り出した。
「俺を、赤子の名付け親に?」
「はい、助けて頂いたお礼もかねて。本当にありがとうございました」
赤子を抱えたまま、蕗は深々頭を下げる。
「それは……あんまり気にするな。無事でよかった。本当に」
千影は、蕗の腕の中ですやすや眠る赤子を見て、安心したように微笑んだ。
「まだまだこれからが大変だろう。余計なことは気にせず、自分と赤子のことだけ考えろ。平太にも礼を言っておいてくれ。いろいろと俺のために苦心してくれたのだろう?」
「余計なことじゃないです」と、蕗も、そして、明里も眉をひそめると、千影は苦笑した。
「俺が助かったのは、その子の生命力に引きずられたからでもある。その子はきっと、元気に育つよ。それに──おかげで俺もひとつ、思い出したことがある」
千影は目を細めた。遠く、懐かしむように座敷の天井を見つめる。
「俺の最初の贄は、赤子だった。産まれてすぐの。その子と同じくらいの──」
明里と蕗は目を瞬かせたが、千影は古い記憶を手繰り寄せながら、昔話を始めた。
「今よりずっと遠い昔。まだ、神の世も人の世も、境界があやふやな頃。神もあやかしもそこら中に湧き出していて、俺もその内の一人だった。俺は凪いだ小川で、とても澄んだ水だったから、人間たちが水面に顔を映しに来ていた」
古来から姿を映す鏡は神秘的な呪具や、祭具として扱われていた。川の水面みなもも、自然の映し鏡である。
「清らかな水はそれだけで神水、霊水と呼ばれる。水が穢れてしまっては人間は身体を病むからな。神性なものとして大事にされるんだ。徐々に川自体が神聖視されるようになったとき、突然、赤子が俺の中に落ちてきた。その泣き声が、あんまりに喧しくて、それで俺は目を覚ましてしまった」
千影の声はどこか遠くから響くような、不思議な声色をしていた。
「何故、落ちてきたのかは分からない。事故だったのか。口減らしだったのか。それとも、やはり雨乞いの贄だったのか。なんにせよ、そのままでは溺死する。死なれてしまっては、水が穢されると──俺はそう思った。赤子を抱きかかえるには人間の腕がいる。だから俺は赤子の『望む姿を身に映して』、母親になった」
そうして、千影は目を伏せ、自嘲するように笑った。
「けれど、所詮マガイモノ。見た目は“母親”でも、そのときの俺は同じ赤子のようなもの。なにもできず、何も与えられず、──結果、三日と持たず。赤子はこの世を去った」
そんな、と明里は痛ましそうに声を上げたが、千影は静かに続けた。
「あんなにも強い産声を上げていたものが、ゆっくりと息絶えていくのを。人が死ぬところを初めて見た。それがなんだが、──とてもつらくて、悲しくて、気づいたら涙を流していた。俺の涙は雨になって、その地を潤わした。皮肉にも、そのせいでさらに俺の水神としての信仰は広がった」
ああ、そのときに、名前も一緒に失くしてしまったと、ぽつりと千影は呟いた。
「そこに目を付けた当時の巫女が『幻神』と名付けて、俺を十二柱に据えた。実体がないのに、赤子の“母親”の姿のまま揺蕩っていた俺はまさに、まぼろし。神名はすぐに馴染んだよ。『誰かを恋しいと願う声に惹かれて、贄の望む姿になる』。それが俺の在り方として固定された。時が下り、儀式がきちんとした定め事になっていった頃には、贄は赤子ではなくて、伴侶にと、様変わりしたけれど」
昔語りを終え、千影は目を開いた。もう一度、千影は蕗の抱える赤子を見る。
「だから──その子を助けたのは、俺自身の悔いでもあったんだよ。その子が助かって俺も救われたんだ」
千影は笑った。眩しく、無垢な笑顔で。
「気に病むことはない。俺の事情で助けただけだ。そもそも、長老殿が村中に産屋うぶやを置いていなければ、間に合っていない。産婆や錦にしきがいなければ、この世に産まれ落ちることすら難しい。当たり前に在るものは、決して当たり前ではない。だから、名前はちゃんと蕗がつけてやれ。確かに俺が助けてしまったけれど、その子には、もう神の加護はないのだから」
蕗は目を開いたまま、唇を噛んだ。赤子を抱きしめたあと、すう、と大きく息を吸い込み。
「ああ、もうぐだぐだと煩いな! 本当にお人好し! 善意くらい、素直に受け取ってよ。あたしも平太さんも、気に病んでとか、神様の加護が欲しいとかじゃなくて、」
蕗は赤子を千影に向かってぐっと差し出した。丸くつややかで、血を分けた自分の子を。
「幻神さまじゃなくて、神様じゃなくて、ただ、助けてくれたあなたに──ち、千影さんにつけてほしいって、言ってるの!」
蕗の大きな声に驚き、赤子がむずがってオギャアと泣く。「ああ、ごめんごめん」と慌てて蕗があやす。大きく目を見開いた千影はしばらく、母親と子の姿を、黙って眺めていた。ゆっくり起き上がり、千影は赤子に向かって手を伸ばした。綺麗なままの右手も、傷跡の残る左手も、大きく広げた。
「その子を、こちらに──」
蕗は瞠目したあと、赤子を躊躇いなく預けた。千影は危なげなく、頭と首をしっかり支え、包み込むように抱きしめた。
赤ん坊を抱いたことのある、そういう人の抱き方だった。
「……人間の名づけ方は、やっぱりよく分からないけれど。でも……そうだな。『千』の字は俺がもらってしまったから。千冬のもう半分はお前がもらってくれ。俺一人が抱えるには大きな存在だから」
千影は一度息を吸い込み、迷いなく言葉を紡いだ。
「──柊。冬の魔除けの樹木の名だ。お前の母親のように地にしっかり根付くように。せめて、名前だけでも加護がありますように」
千影は赤子に言祝ぎを与える。『柊』に、優しい微笑みを落とす。その泣き声を聞くのですら、愛おしそうにしていた。
「ああ、やっと、ちゃんとなにかを与えることが、できた気がする」
「……なんだかいろいろ納得です。千影さまが川に落ちた私を必死に助けてくれた理由も。死の不浄が嫌いな理由も。すごく優しい理由も」
蕗が帰り、明里の作った粥を美味しそうに平らげていた千影は、明里の言葉に首を傾げた。
『神様』が穢れである血や死が苦手という理由だけでなく、きっと千影自身が、苦手なのだ。人の死というものが。
「千影さまは、最初の贄も、これまでの贄の人も、皆大事にしてきたんですね。その中で、きっと千影さまは自分を育てていたんだなあって」
確かに『千影』を見つけたのは明里だけれど、千影を形作っていたものは、決して明里だけではなくて。
「……清治が千影さまには人間と同じように、血が通ってるんじゃないかって言ってたけど、その通りですね。きっと、ずっと前から千影さまには血が通っていたんですね」
千影は一層不思議そうに難しい顔をした。
「俺には血なんて通ってなかったはずだぞ。柊に触って、生きる血を分けてもらっただけで」
「え、だって」
明里は千影を真っ直ぐに見た。
血を流す姿を目の当たりにする以前にも、明里には思い当たる節はある。
「千影さま、好きです」
唐突な告白に、千影は目を丸くさせた。
「私、千影さまが大好き。正直で嘘つけなくてすぐ拗ねて、すごく優しいところが好き」
「……なんだ、急に。嬉しいけど」
じわわ、と千影は赤くなる。
「好きになってくれ」と自分で言ったくせに、いざ告白されると赤面する千影を、明里はまじまじと見つめ、
「そうやって、自分はすごいこと言うくせに、私から好きって言われると照れちゃうのも好き」
「本当になんだ。からかっているのか?」
茹で蛸のように真っ赤になった千影を見て、明里は笑った。
ほら、やっぱり、血が通っている。
でなければ、そんなに真っ赤になったりしないのだ。
10
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
サイキック・ガール!
スズキアカネ
恋愛
『──あなたは、超能力者なんです』
そこは、不思議な能力を持つ人間が集う不思議な研究都市。ユニークな能力者に囲まれた、ハチャメチャな私の学園ライフがはじまる。
どんな場所に置かれようと、私はなにものにも縛られない!
車を再起不能にする程度の超能力を持つ少女・藤が織りなすサイキックラブコメディ!
※
無断転載転用禁止
Do not repost.
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います
<子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。>
両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。
※ 本編完結済。他視点での話、継続中。
※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています
※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります
美しい公爵様の、凄まじい独占欲と溺れるほどの愛
らがまふぃん
恋愛
こちらは以前投稿いたしました、 美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛 の続編となっております。前作よりマイルドな作品に仕上がっておりますが、内面のダークさが前作よりはあるのではなかろうかと。こちらのみでも楽しめるとは思いますが、わかりづらいかもしれません。よろしかったら前作をお読みいただいた方が、より楽しんでいただけるかと思いますので、お時間の都合のつく方は、是非。時々予告なく残酷な表現が入りますので、苦手な方はお控えください。 *早速のお気に入り登録、しおり、エールをありがとうございます。とても励みになります。前作もお読みくださっている方々にも、多大なる感謝を! ※R5.7/23本編完結いたしました。たくさんの方々に支えられ、ここまで続けることが出来ました。本当にありがとうございます。ばんがいへんを数話投稿いたしますので、引き続きお付き合いくださるとありがたいです。この作品の前作が、お気に入り登録をしてくださった方が、ありがたいことに200を超えておりました。感謝を込めて、前作の方に一話、近日中にお届けいたします。よろしかったらお付き合いください。 ※R5.8/6ばんがいへん終了いたしました。長い間お付き合いくださり、また、たくさんのお気に入り登録、しおり、エールを、本当にありがとうございました。 ※R5.9/3お気に入り登録200になっていました。本当にありがとうございます(泣)。嬉しかったので、一話書いてみました。 ※R5.10/30らがまふぃん活動一周年記念として、一話お届けいたします。 ※R6.1/27美しく残酷な公爵令息様の、一途で不器用な愛(前作) と、こちらの作品の間のお話し 美しく冷酷な公爵令息様の、狂おしい熱情に彩られた愛 始めました。お時間の都合のつく方は、是非ご一読くださると嬉しいです。
*らがまふぃん活動二周年記念として、R6.11/4に一話お届けいたします。少しでも楽しんでいただけますように。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる