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3章 神様を地に落とす
27、光彩
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泣いている場合ではない。
とにかく早く誤解を解かなければ。夕餉の支度も蕗も投げ出して、明里は玄関先に立った。
「なんなの」
その背を見て、ぽつりと蕗が呟いた。
「ねえ、明里ちゃんさあ、あたしの立場分かる? 明里ちゃんの親族なんだよ」
足を止めた。
明里の親族、明里の血縁。それはつまり──贄の血縁であるということ。
そのまま家を飛び出したが、蕗ふきのうんざりしたような声だけが耳にこびりついていた。
どんなに疎遠でも、希薄な関係でも周りはそう見ない。そう扱わない。切りたくとも切れない血の絆。
贄の親族。それはいったい、村の中で、どういう立場なのだろうか。
秋の夕暮れ。日が完全に落ちきる前に、千影を見つけなければ、どこに行ったか本当に分からなくなる。
思い浮かんだのは鎮守の杜の清流だったが、確証もなしに神域に入るわけにいかない。明里は農作業を終えて帰宅する男たちに向かっていった。
「あの、千影さ……幻神さま、見ませんでした!?」
鬼気迫った明里を見て、男たちは目を彷徨わせた。
「いたか?」
「さあこっちには来てないな」
村中に通じる道は通っていないのか。ああでも千影なら人目を盗んで移動するなど容易いはずだ。
「なにしてるんだ? 明里」
清治が声をかけてきて、明里は抑え込んだ涙があふれそうになった。
「清治、千影さま探して。わたし、わたし」
「んん? 先に帰ったんじゃなかったのか? なにかあったのか?」
焦る明里に清治が問いかける。と、その後ろで笑い声がした。
「なんだ、閨でしくじったのか? 明里」
くすくすと面白がる揶揄。若者衆の中では素行の悪い連中だった。夜這いや酒盛りをいつも仕切っている輩。
「うまくご奉仕できなかったとか?」
「ねちっこそうだものねえ、あの神様」
「しかし、まあそんなに夜の具合がいいのか? お前」
無遠慮な視線が明里の身体をじろじろと見る。神様がそばにいない明里は怖くないのだろう。明里はもともと若者衆の中では人見知りで臆病な性質だった。それに加えて、公然と手籠めにされているような娘を小ばかにしたように見下した。
「おい、やめろよ」
清治が顔を顰めて、止めようとする。
いつもの明里なら曖昧に笑って、俯くのが常だった。けれど今は──完全に頭に血が上っていた。
揶揄も冷やかしも嘲笑も、すべて許せなかった。神様は村と交わした約束をすべて守ってくれているのに、なんで、土地の者が裏切るのか。なんで、ばかにするのか
「そうよ、しくじったの! 失敗したの! 怒らせたの!!」
地の底から響くような怒声。若者衆も、清治すらもぎょっとする。
「だから、探してって言ってるんでしょ!? 幻神さまを怒らせたらどうなるかくらい分からないの!?」
「……なんで俺たちが、」
若者衆が逃げようとする。明里は頭をかけめぐらす。明里ひとりでは、時間がかかりすぎる。村の手がいる。
大きくひとつ深呼吸し、集団に向かって指差した。
「──宗吾、錦、梅。だいたいこの三人でしょ、閨を覗いていたの」
明里が名指しする。
その場にいた若者衆の中で、数人、息を呑んだのが分かった。
「幻神さまは、あんまり村の者に詳しくないけど、私は分かる。私は──この“土地の贄”だから。誰がやりそうか、誰が先導してるか、誰が私たちを興味半分の晒らし者にしているかくらい分かるのよ。名前も、家族も年も友人も配偶者も親族も、全部知っている」
闇夜で閨を覗けるのは、自分たちは正体不明でいられるからだ。だから、昼間は遠巻きに、直接手を出してこない。相手に知られていないと思っているから、度が過ぎる行為だってできてしまう。
──不思議だ。千影は確かに人の機微にうといが、明里には分かるのに。明里はこの土地から生まれ、育った贄なのだから村の誰が、どういう人間かなんて手に取るように分かるのに。相手がこちらを見ているなら、明里だって見ているのに。
「閨で私の身体を見たって言ってもいいのよ。私は幻神さまの伴侶、神様の妻。それを盗み見たんでしょう? 充分不敬よね?」
明里は賭けに出る。「目を潰してやる」と千影が放った一言を聞いている面子がいるのを信じて。
「完全に日が暮れる前に見つけてくれたら許してあげる。昼間、蕗が食って掛かったときも、私が治めたら幻神さまは聞いてくれるの。それも見ていたでしょう?」
──優しいから。蕗を心配した明里の意図を汲んでくれただけだけど。
明里は目をそらさない。集団、ひとりひとり睨みつけた。
名指しを嫌うのは、なにも魔性や神霊だけではない、人間だってそうだ。
名指しで敵意を向けられるのは、白日の下に晒されるのは、怯えるものだ。
「さっさと探して! じゃなければ、本気で目を潰してやるから!」
清治も、村人も、ぎくり、と身を強張らせた。
夕焼けを背にした明里の瞳は──金色の蛇の目に煌めいていた。
***
名を持った時点で。
その結果は分かりきっていた。
実体を持てば、いずれ使役だとか従属させようとかその発想にはいきつく。明里は気づかないだろうが、巫女や宮司、村の年役が小娘ひとりに、村の行く末を任せるはずはない。いくら、担保を出そうとも。とれる保険はかけておくだろう。神様よりずっと地に生きる人々はしたたかだ。それが分かっていて「自分を殺せる」などと対策まで宣言まですれば、神様は克服できる対象になり、畏敬や信仰は薄れていく。
そもそも、名付けを明里に任せたときに、使役される可能性だってあったから、すべて覚悟の上だった。
神様を屈服させて自分の立場を安定させようなんて発想のないあの娘は、なんの裏表もなく『千影』の名を呼び続けたけれど。
だから、気に障ったとするならば。
“千冬……”
その呼び声が、あまりにも悲痛で、あまりにも恋しそうだったから。
自分の名前を呼ぶ声との違いに、苦しくなっただけだった。
「──千影さま!」
千影はため息をつく。
こうして、探しに来るのも予想の範囲内で、それすら腹が立つ。
中途半端に引き留めるくらいなら、捨て置けばよいものを。
「……ずいぶん早いな。見つけるのが」
真っ二つに割れたクスノキのもと、座っている千影に明里は叫んだ。破壊された神木は、神の怒りの示し。村人はおいそれと近づかなかった。
「清治とか、村の人に、聞いて、回りました」
はあはあと明里は息を切らせる。は、と千影は笑った。
「村の者に聞いて回って大丈夫なのか? 仲違いしたと知られたら、立場が危うくなるぞ」
「今はそんなことどうでもいいです」
「……」
ひたむきな言葉が嫌だ。嘘でないと分かるから。謀りのない引き留めが嫌だ。縋りたくなるから。
「わざわざ言いたくもないけど、私、絶対にあなたのこと使役とかしませんから。村長たちが何を思っていようと、千影さまのこと、絶対そんな目に合わせません。神殺しの力だって、過剰なのに」
祝言の日、神殺しを“こわい”と言った明里が、千影を屈服させようなどと、考えるはずもない。そんなこと分かっている。
けれど、手を伸ばすと跳ね返しがくる。踏み込めば踏み込むほど、自身の在り方はどんどん削れていく。人間の贄と結び、土地に住まうようになった今の神性はおそらく、名を得たときよりさらに落ちたはずだ。身体が器に馴染むのを感じるほど、『千影』という在り方が強固になるほど、神様は地に落ちる。いくらなんでも、躊躇する。触れるのも憚られるほど。
「お前はなにか、神殺しの力を恐ろしいもののように勘違いしているようだが」
千影はぐん、と立ち上がり、明里との間合いをつめた。
「お前のごとき、非力な娘。言霊を発せられなくするなんて、造作もない」
秋の黄昏時、伸びた影が明里を覆う。
「口を塞ぐなぞ、片手で事足りる。なんなら、甘えたことばかり言う、その口、切り裂いてしまえばいいのだからな」
ぎくり、と明里は強張る。長い指先が明里の唇に触れる。
怯えた姿を見て、また苛立った。
「……それが恐ろしいのなら、遺灰を持っていればいい。写し身のときならいざ知らず、俺は今むき出しの生身も同然。遺灰を持ったお前には指一本触れられなくなる」
明里は目を見開いた。それほどまでに死の不浄が神様を蝕むとは夢にも思っていなかったのだろう。
「そうすれば、お前は完全に俺を飼い殺しにできる。好きなように使って、いらなくなったら言霊で殺せばいい」
明里は声を震わせた。
「な、なんでそんなこと、言うんですか」
「事実だろ。そうやって俺を引き留めたのだから」
「それは……そう、かも、しれませんが」
何故。そんなこと言うのか。そんなこと、神様にも分からなかった。
(何故……)
許すといった。殺せともいった。それで悔いはなかった。もとよりこの身は明里が名前で縛らねば消えていた。だから、数か月延命されたところで、その先はなくてもいいと思っていた。
なのに、なんでこんなに胸苦しくなるのか。
「試しているのですか? それは」
ぽつりと、明里は呟いた。
「私がそうしないと、試しているのですか? 私、そんなにあなたのこと、不安にさせているのでしょうか」
不安? 思ってもみなかった言葉に驚く。弱点をあげつらって明里が行使しないことを、確認している?
子供じみた、考えだ。
「だって、千影さまは私の口を封じたりしないじゃないですか」
断言されて、返答に迷う。明里はまっすぐ千影を見た。
「い、いくらでも、口を切り裂く機会はあったでしょう? 初夜の晩も、一緒に寝所で休んでいるときも、今このときも」
「……」
「それなのに、私に使役しろとか殺せとか、言う。卑怯です。自分にそんな気ないくせに、そういう脅しを言うなんて」
明里が目を潤ませて、千影を睨んだ。
「わたし、あなたの殺せとか、消せとか、簡単に言うところ嫌いです!」
かちん、と千影はくる。明里は引かなかった。
「し、死が嫌いって言うくせに、あなたはいつもすぐ自分を手放そうとする」
「それは……俺は神だぞ。死にはしない」
「名前を持たなければ消えるところじゃなかったですか!」
「器を破壊したのはお前だろ。それに俺が消えたところで、幻神はともかく、水の神の信仰なんて、あっという間に芽生える。すぐ新しい神が生まれる」
「でもそれは、あなたじゃないんでしょう? じゃあ嫌です!」
千影は言葉に詰まる。どうして、こう、この娘は。神様ではなくて、写し身ではなくて、『千影』ばかり引き留めようとするのか。
「ち、千冬の、遺灰」
明里は耐えに耐えていた涙を決壊させた。
「捨てられなくて、ごめんなさい。千冬は何も残さなかったから、あれしかないんです! でも縋ったりしないから、簡単に殺せとか消えるとか言うのやめてほしいです」
ぽろぽろと明里は泣く。
思わず、その涙をぬぐってやりたくなるほど胸を打つ、その言葉。神殺しとは真逆、神様を生かそうとする言霊。でも、今回ばかりは、絆されることに耐えた。
「……遺灰を、手にしなくたって。どうせ千冬の事は忘れられまい。だったら、さっさと遺灰を持ち、使役でもなんでもしてくれ。仮初めの夫婦よりそちらのほうが分かりやすいし、俺も楽だ」
余計な期待をしなくて済む。
千影は背を向けた。その手を明里が掴んだ。
「わたし、言いました。いて、欲しいって何度も」
「……だから? それがどうした。犬か猫を見捨てられないくらいのものだろ」
「猶予が欲しいとも言いました」
明里の言葉の意味が分からず、千影は苛立つ。
「千冬のこと、ちゃんと決着つけて、あなたを受け入れられるか、答えを出す猶予のことです」
「何が言いたいか分からない。手を離せ」
そんな猶予、あったところで。千冬が──本物が、そんな簡単に消え去るはずもない。何人も何十人も、そういう贄を見てきた。
「千冬のこと、ちゃんと、ケリがついたら」
明里は顔をあげ、叫んだ。
「わたし、あなたのこと、好きになりたいんです!」
「──は?」
ものすごく、素っ頓狂な声が出た。
「は? 好きに? 俺を?」
疑問符だらけの言葉に、明里は困惑した。
「え、猶予が欲しいってそういうことじゃないですか? じゃなきゃ待ってほしいとか、言いませんよ」
「……え?」
「なんで、千影さまは、いつも殺される前提で諦めているのか分からないんですが」
「……お前、千冬、千冬煩いから、その気はないものと」
え、ひどい、と明里は眉を下げた。
「棚機の時にも言いました。もし“あなたが別人なら愛せたかもしれないのに”って。千影さまは、別人、です」
「……」
「そりゃ千影さまは、儀式のために、贄を娶りたいだけかもしれないけど、わたしは……」
そこで明里は視線を下げた。
「でも同調圧力とか、負い目とかで、好きになりたくないんです。千冬みたいに、そんなことで一緒にいたくないんです」
千影は無言だった。明里は汗が出る。甘い考えだとは分かっていても。けれど今、言わねば。
「だから、私、あなたにちゃんと──恋がしたいんです」
しん、と間が落ちた。
「……なんだ、それ」
明里は顔をあげ──声を失った。
千影は、耳まで真っ赤になっていた。
とにかく早く誤解を解かなければ。夕餉の支度も蕗も投げ出して、明里は玄関先に立った。
「なんなの」
その背を見て、ぽつりと蕗が呟いた。
「ねえ、明里ちゃんさあ、あたしの立場分かる? 明里ちゃんの親族なんだよ」
足を止めた。
明里の親族、明里の血縁。それはつまり──贄の血縁であるということ。
そのまま家を飛び出したが、蕗ふきのうんざりしたような声だけが耳にこびりついていた。
どんなに疎遠でも、希薄な関係でも周りはそう見ない。そう扱わない。切りたくとも切れない血の絆。
贄の親族。それはいったい、村の中で、どういう立場なのだろうか。
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思い浮かんだのは鎮守の杜の清流だったが、確証もなしに神域に入るわけにいかない。明里は農作業を終えて帰宅する男たちに向かっていった。
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「いたか?」
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「なにしてるんだ? 明里」
清治が声をかけてきて、明里は抑え込んだ涙があふれそうになった。
「清治、千影さま探して。わたし、わたし」
「んん? 先に帰ったんじゃなかったのか? なにかあったのか?」
焦る明里に清治が問いかける。と、その後ろで笑い声がした。
「なんだ、閨でしくじったのか? 明里」
くすくすと面白がる揶揄。若者衆の中では素行の悪い連中だった。夜這いや酒盛りをいつも仕切っている輩。
「うまくご奉仕できなかったとか?」
「ねちっこそうだものねえ、あの神様」
「しかし、まあそんなに夜の具合がいいのか? お前」
無遠慮な視線が明里の身体をじろじろと見る。神様がそばにいない明里は怖くないのだろう。明里はもともと若者衆の中では人見知りで臆病な性質だった。それに加えて、公然と手籠めにされているような娘を小ばかにしたように見下した。
「おい、やめろよ」
清治が顔を顰めて、止めようとする。
いつもの明里なら曖昧に笑って、俯くのが常だった。けれど今は──完全に頭に血が上っていた。
揶揄も冷やかしも嘲笑も、すべて許せなかった。神様は村と交わした約束をすべて守ってくれているのに、なんで、土地の者が裏切るのか。なんで、ばかにするのか
「そうよ、しくじったの! 失敗したの! 怒らせたの!!」
地の底から響くような怒声。若者衆も、清治すらもぎょっとする。
「だから、探してって言ってるんでしょ!? 幻神さまを怒らせたらどうなるかくらい分からないの!?」
「……なんで俺たちが、」
若者衆が逃げようとする。明里は頭をかけめぐらす。明里ひとりでは、時間がかかりすぎる。村の手がいる。
大きくひとつ深呼吸し、集団に向かって指差した。
「──宗吾、錦、梅。だいたいこの三人でしょ、閨を覗いていたの」
明里が名指しする。
その場にいた若者衆の中で、数人、息を呑んだのが分かった。
「幻神さまは、あんまり村の者に詳しくないけど、私は分かる。私は──この“土地の贄”だから。誰がやりそうか、誰が先導してるか、誰が私たちを興味半分の晒らし者にしているかくらい分かるのよ。名前も、家族も年も友人も配偶者も親族も、全部知っている」
闇夜で閨を覗けるのは、自分たちは正体不明でいられるからだ。だから、昼間は遠巻きに、直接手を出してこない。相手に知られていないと思っているから、度が過ぎる行為だってできてしまう。
──不思議だ。千影は確かに人の機微にうといが、明里には分かるのに。明里はこの土地から生まれ、育った贄なのだから村の誰が、どういう人間かなんて手に取るように分かるのに。相手がこちらを見ているなら、明里だって見ているのに。
「閨で私の身体を見たって言ってもいいのよ。私は幻神さまの伴侶、神様の妻。それを盗み見たんでしょう? 充分不敬よね?」
明里は賭けに出る。「目を潰してやる」と千影が放った一言を聞いている面子がいるのを信じて。
「完全に日が暮れる前に見つけてくれたら許してあげる。昼間、蕗が食って掛かったときも、私が治めたら幻神さまは聞いてくれるの。それも見ていたでしょう?」
──優しいから。蕗を心配した明里の意図を汲んでくれただけだけど。
明里は目をそらさない。集団、ひとりひとり睨みつけた。
名指しを嫌うのは、なにも魔性や神霊だけではない、人間だってそうだ。
名指しで敵意を向けられるのは、白日の下に晒されるのは、怯えるものだ。
「さっさと探して! じゃなければ、本気で目を潰してやるから!」
清治も、村人も、ぎくり、と身を強張らせた。
夕焼けを背にした明里の瞳は──金色の蛇の目に煌めいていた。
***
名を持った時点で。
その結果は分かりきっていた。
実体を持てば、いずれ使役だとか従属させようとかその発想にはいきつく。明里は気づかないだろうが、巫女や宮司、村の年役が小娘ひとりに、村の行く末を任せるはずはない。いくら、担保を出そうとも。とれる保険はかけておくだろう。神様よりずっと地に生きる人々はしたたかだ。それが分かっていて「自分を殺せる」などと対策まで宣言まですれば、神様は克服できる対象になり、畏敬や信仰は薄れていく。
そもそも、名付けを明里に任せたときに、使役される可能性だってあったから、すべて覚悟の上だった。
神様を屈服させて自分の立場を安定させようなんて発想のないあの娘は、なんの裏表もなく『千影』の名を呼び続けたけれど。
だから、気に障ったとするならば。
“千冬……”
その呼び声が、あまりにも悲痛で、あまりにも恋しそうだったから。
自分の名前を呼ぶ声との違いに、苦しくなっただけだった。
「──千影さま!」
千影はため息をつく。
こうして、探しに来るのも予想の範囲内で、それすら腹が立つ。
中途半端に引き留めるくらいなら、捨て置けばよいものを。
「……ずいぶん早いな。見つけるのが」
真っ二つに割れたクスノキのもと、座っている千影に明里は叫んだ。破壊された神木は、神の怒りの示し。村人はおいそれと近づかなかった。
「清治とか、村の人に、聞いて、回りました」
はあはあと明里は息を切らせる。は、と千影は笑った。
「村の者に聞いて回って大丈夫なのか? 仲違いしたと知られたら、立場が危うくなるぞ」
「今はそんなことどうでもいいです」
「……」
ひたむきな言葉が嫌だ。嘘でないと分かるから。謀りのない引き留めが嫌だ。縋りたくなるから。
「わざわざ言いたくもないけど、私、絶対にあなたのこと使役とかしませんから。村長たちが何を思っていようと、千影さまのこと、絶対そんな目に合わせません。神殺しの力だって、過剰なのに」
祝言の日、神殺しを“こわい”と言った明里が、千影を屈服させようなどと、考えるはずもない。そんなこと分かっている。
けれど、手を伸ばすと跳ね返しがくる。踏み込めば踏み込むほど、自身の在り方はどんどん削れていく。人間の贄と結び、土地に住まうようになった今の神性はおそらく、名を得たときよりさらに落ちたはずだ。身体が器に馴染むのを感じるほど、『千影』という在り方が強固になるほど、神様は地に落ちる。いくらなんでも、躊躇する。触れるのも憚られるほど。
「お前はなにか、神殺しの力を恐ろしいもののように勘違いしているようだが」
千影はぐん、と立ち上がり、明里との間合いをつめた。
「お前のごとき、非力な娘。言霊を発せられなくするなんて、造作もない」
秋の黄昏時、伸びた影が明里を覆う。
「口を塞ぐなぞ、片手で事足りる。なんなら、甘えたことばかり言う、その口、切り裂いてしまえばいいのだからな」
ぎくり、と明里は強張る。長い指先が明里の唇に触れる。
怯えた姿を見て、また苛立った。
「……それが恐ろしいのなら、遺灰を持っていればいい。写し身のときならいざ知らず、俺は今むき出しの生身も同然。遺灰を持ったお前には指一本触れられなくなる」
明里は目を見開いた。それほどまでに死の不浄が神様を蝕むとは夢にも思っていなかったのだろう。
「そうすれば、お前は完全に俺を飼い殺しにできる。好きなように使って、いらなくなったら言霊で殺せばいい」
明里は声を震わせた。
「な、なんでそんなこと、言うんですか」
「事実だろ。そうやって俺を引き留めたのだから」
「それは……そう、かも、しれませんが」
何故。そんなこと言うのか。そんなこと、神様にも分からなかった。
(何故……)
許すといった。殺せともいった。それで悔いはなかった。もとよりこの身は明里が名前で縛らねば消えていた。だから、数か月延命されたところで、その先はなくてもいいと思っていた。
なのに、なんでこんなに胸苦しくなるのか。
「試しているのですか? それは」
ぽつりと、明里は呟いた。
「私がそうしないと、試しているのですか? 私、そんなにあなたのこと、不安にさせているのでしょうか」
不安? 思ってもみなかった言葉に驚く。弱点をあげつらって明里が行使しないことを、確認している?
子供じみた、考えだ。
「だって、千影さまは私の口を封じたりしないじゃないですか」
断言されて、返答に迷う。明里はまっすぐ千影を見た。
「い、いくらでも、口を切り裂く機会はあったでしょう? 初夜の晩も、一緒に寝所で休んでいるときも、今このときも」
「……」
「それなのに、私に使役しろとか殺せとか、言う。卑怯です。自分にそんな気ないくせに、そういう脅しを言うなんて」
明里が目を潤ませて、千影を睨んだ。
「わたし、あなたの殺せとか、消せとか、簡単に言うところ嫌いです!」
かちん、と千影はくる。明里は引かなかった。
「し、死が嫌いって言うくせに、あなたはいつもすぐ自分を手放そうとする」
「それは……俺は神だぞ。死にはしない」
「名前を持たなければ消えるところじゃなかったですか!」
「器を破壊したのはお前だろ。それに俺が消えたところで、幻神はともかく、水の神の信仰なんて、あっという間に芽生える。すぐ新しい神が生まれる」
「でもそれは、あなたじゃないんでしょう? じゃあ嫌です!」
千影は言葉に詰まる。どうして、こう、この娘は。神様ではなくて、写し身ではなくて、『千影』ばかり引き留めようとするのか。
「ち、千冬の、遺灰」
明里は耐えに耐えていた涙を決壊させた。
「捨てられなくて、ごめんなさい。千冬は何も残さなかったから、あれしかないんです! でも縋ったりしないから、簡単に殺せとか消えるとか言うのやめてほしいです」
ぽろぽろと明里は泣く。
思わず、その涙をぬぐってやりたくなるほど胸を打つ、その言葉。神殺しとは真逆、神様を生かそうとする言霊。でも、今回ばかりは、絆されることに耐えた。
「……遺灰を、手にしなくたって。どうせ千冬の事は忘れられまい。だったら、さっさと遺灰を持ち、使役でもなんでもしてくれ。仮初めの夫婦よりそちらのほうが分かりやすいし、俺も楽だ」
余計な期待をしなくて済む。
千影は背を向けた。その手を明里が掴んだ。
「わたし、言いました。いて、欲しいって何度も」
「……だから? それがどうした。犬か猫を見捨てられないくらいのものだろ」
「猶予が欲しいとも言いました」
明里の言葉の意味が分からず、千影は苛立つ。
「千冬のこと、ちゃんと決着つけて、あなたを受け入れられるか、答えを出す猶予のことです」
「何が言いたいか分からない。手を離せ」
そんな猶予、あったところで。千冬が──本物が、そんな簡単に消え去るはずもない。何人も何十人も、そういう贄を見てきた。
「千冬のこと、ちゃんと、ケリがついたら」
明里は顔をあげ、叫んだ。
「わたし、あなたのこと、好きになりたいんです!」
「──は?」
ものすごく、素っ頓狂な声が出た。
「は? 好きに? 俺を?」
疑問符だらけの言葉に、明里は困惑した。
「え、猶予が欲しいってそういうことじゃないですか? じゃなきゃ待ってほしいとか、言いませんよ」
「……え?」
「なんで、千影さまは、いつも殺される前提で諦めているのか分からないんですが」
「……お前、千冬、千冬煩いから、その気はないものと」
え、ひどい、と明里は眉を下げた。
「棚機の時にも言いました。もし“あなたが別人なら愛せたかもしれないのに”って。千影さまは、別人、です」
「……」
「そりゃ千影さまは、儀式のために、贄を娶りたいだけかもしれないけど、わたしは……」
そこで明里は視線を下げた。
「でも同調圧力とか、負い目とかで、好きになりたくないんです。千冬みたいに、そんなことで一緒にいたくないんです」
千影は無言だった。明里は汗が出る。甘い考えだとは分かっていても。けれど今、言わねば。
「だから、私、あなたにちゃんと──恋がしたいんです」
しん、と間が落ちた。
「……なんだ、それ」
明里は顔をあげ──声を失った。
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