まぼろしの恋

ちづ

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1章 神様の上面を破壊する

6、波紋

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「おはよう、明里あかり。今日もたくさん村人から供物を預かった。露草はないから、悲しむなよ」
「露草はもういらないです‥‥」

 明里はため息をついた。時刻は明け方。戸口に立つ“千冬ちふゆ”の背後の朝日が眩しい。夏の夜明けは早く、すでにじっとりと汗が滲む。今日も暑くなりそうだ。

 まじないは使っていないという言葉の通り、家中あふれた露草は摘み終われば、再び家を侵食することはなく、明里は胸をなでおろした。

 が、別の厄介事は続く。一度食事を共にとってから、味をしめたのか“千冬”は明里に食事を作らせるようになった。明里に食べ物を届けるならちょうどいい、と豪語して止める村人を聞かず勝手にずかずか入り込んでくる。横柄な態度は千冬とはまったく違うものなのに、戸口に立たれるたびに、明里は毎回心臓が止まる思いをする。正直勘弁してほしい。

幻神げんしんさま、あなたの神饌しんせんは巫女さまがご用意くださるのでは?」
「明里は食が細いから、俺と一緒にお前も食事をとってくれるなら有り難い、だそうだ。お前、巫女を相当困らせていたな?」

 う、と明里は答えに詰まる。世話役ではなかったのか、あの巫女さまは。面倒事をまとめて片付けたいという意図を感じて腹が立ったが、思い当たる節はあったので、押し黙るしかない。

「それに、巫女は棚機たなばたの祭事の準備で忙しい」

 預かってきたという両手いっぱいの供物。今日は水菓子のようだ。柘榴ざくろすももを明里に手渡して、勝手知ったるもののように、板敷いたしきにどかりと座る。朝餉を作れという態度が甚だ腹が立つが、監視役が神様本人なら、巫女が見張るまでもないということか。ため息をつく明里をしげしげと“千冬”が眺める。まだ夜着だったのを思い出して、思わず襟元を正した。

「な、なんですか?」
「──いや、お前は?」

 きょとん、と“千冬”は首をかしげた。

「俺の贄といえど、まだ伴侶でもないのに、何故、働かない。何故、供物を捧げられているんだ? 他の村人はもうとっくに田畑に出ているぞ」
「‥‥‥」

 暗に怠け者呼ばわりされて、明里は絶句した。誰のせいだと思っているのか。

「‥‥その供物を運んでくる神様だけには言われたくないんですが」
「それは、さきほど言った通り。お前は今食べることすら放棄しているからだ。巫女の心配ももっともだ」

 正論だった。相手が明里を追い込んでいる神様本人でなければの話だが。

「‥‥天界では農作業をする必要もない、とか言ってませんでしたか」
「うん。でも、お前は天界に来るのを拒んでいるだろう? 下界では食べない、働かないでは死んでしまうぞ」
「悪かったですね。神様でもないのに、寝てばかりいて」
「そうだな。村はもうすぐ稲穂がなる。日光を浴びて新米はよい出来になる。見ておいたほうが良い。きっと美しいぞ」

 ああ言えばこう言う。でもその表情は穏やかで、昔話で聞いていた通り、五穀豊穣を祝福する神様の顔だった。明里のことを煽っているわけでも馬鹿にしているわけでもない。真面目に取り合うだけ無駄なのだ。

 なぜ働かないと無垢に言われて、明里は反論する気をなくした。観念して、また厨に立つ。神饌を作る仕事だと割り切ったほうがいい。神様からの直々の果実を洗って、冷やす。ついでに夕餉の準備もしてしまおう。まだ、干物もあったはずだ。そう思ったら、ぐう、と腹の虫が鳴いた。

 食事は日に二回、朝と夕方。そのたびに“千冬”は現れては去っていく。曰く、食べなくても問題ないが、気休めにはなるそうだ。米や酒が好物の神様にとって、神饌は欠かせないもの。食事をぱくぱくと“千冬”は器用に箸を使って口に放り込んでいく。会話はない。見てくれは人間の食事風景だが、味わっている様子がまるでない。それでも、向かい合った神様は時折千冬と同じ動作をする。生前の千冬がそこにいるような錯覚を起こす。そのたびに頭を振って我に返る。その繰り返し。

 目の前で黙々とお膳を空にする“千冬”の存在に気を取られていたら、突然ぴしゃり、と空が光った。

 轟音。カミナリ。光る柱。

 途端に打ち付ける雨。あんなに晴れていたのに、いつの間に雨雲が巣食っていたのか。真っ黒な夏雲が空一面を覆っている。激しい雨音が戸板を叩く。夏の通り雨はいまだにこわい。あの洪水を思い出して無意識に腕を抱いた。

「心配するな、これは翠雨すいうだ」
「え?」

 それまで一声も発しなかった“千冬”が突然口を開いた。汁物を飲み干して、なんの気なしに空を横目に見る。

「草木や作物を潤わす雨だ。今年は暑いから、すぐに日照りになる。恵みの雨だろう」
「はあ‥‥」
清治せいじがならした田畑も、土が割れていたからな。今頃、喜んでいるだろうよ。明里は外に出ないから、様子が分からないのか?」

 いや、だから何故一言余計なのか。

「‥‥申し訳ありません。贄になってから村の人からじろじろ見られるせいで、出づらくて」

 嫌味で返した言葉に、“千冬”は心底不思議そうにした。

「何故? 明里は明里だ。贄というのは単なる土地の目星であって、神の伴侶になるには俺と契り、天界に行かねばならん。お前は、まだ村人と同じ──ただの人間だ」

 その目が苦手だ。千冬と同じ瞳なのに、水のように澄んだ瞳。神様に人間のちっぽけな気持ちなんて分かるまい。贄になった明里に対して同情を向ける村人ばかりではない。羨望も嫉妬も好奇も様々な感情が狭い村の中で渦巻いている。自分で贄を選んだわけでもないのに。

 伴侶になろうと言われたかったのは、目の前にいる千冬の幻なんかではなく、こうして食事を一緒にとりたかったのは、神様なんて大層なものではない。ただのちっぽけな人間の千冬がよかった。

 明里は押し黙って目をそらした。“千冬”は肩をすくめて、箸を置く。

「馳走になった。では、俺は行く」

 言うが早いか早々に“千冬”は立ち上がった。まだ外はどしゃ降りである。呆気にとられて、明里は“千冬”を見上げた。雲の切れ目からは日が差している。通り雨はしばらく待てば止むだろう。

「急ぎの用ですか?」
「清治と約束している。村に戻る。恵みの雨といっても村の橋は去年流されてから碌に直していないからな、川が危ない」

 橋。隣村と結ぶ一番大きな堺橋さかいばし。千冬が流された川の橋。どくん、と明里の心臓が収縮した。

「‥‥せめて止んでからでは、」

 いつもなら早々に追い出すのに、口が勝手に動いていた。

「うかうかしていると日が落ちる。俺は問題ないが、村に万が一があってもかなわん。せっかくの稲穂が台無しになる」

 それは本当に嫌なのか、珍しく神様は顔をしかめた。

 ──橋桁を補強しなくてはいけない。清治もいる。心配するな。

 あの日の千冬がだぶる。また、頭が錯覚を起こす。そういって、千冬は二度と戻らなかった。そういって明里を置き去りにした。本当に無意識に目の前の幻の袖を強く握っていた。

「どうした? あかり」
「え、あ‥‥」

 なにを。なにをしているのか。相手は人間ではない。千冬でもない。湧き上がる焦燥はただの幻。錯覚だ。そう必死に言い聞かせても、握った手は硬直したように離れなかった。動悸が煩い。はやく、はやく離さないと。

「‥‥傘、を」

 居たたまれなくなって苦し紛れにいった一言に、幻は目を瞬かせた。

「そうか、ありがとう」

 袖を握りしめている明里の手を“千冬”が優しく握り返した。思わず見上げた瞳の中に、明里自身が映っている。あまりの近さに弾かれたように、ぎょっと身を引いた。慌てて距離を取る。そんな明里に“千冬”は優しく微笑みかけた。

「それでは、また夕餉に」
「‥‥」 

 一方的な約束を聞かないふりをする。千冬”は振り向きもせずに、傘を手に取り、あっさり出ていった。雨水が跳ねる足音が完全に聞こえなくなって明里は部屋の中で一人へたり込む。どっと疲れた。どうせ夕餉まではこれで誰も来ない。お膳を片付ける気力もなく、もう一度、床に転がる。人をこんなに疲弊させておいて、外に出ろとか、働けとかあの神様、どの口が言うのか。

 明里の心は結局なにも整理できていない。千冬が死んだことも、贄に選ばれたことも、千冬の姿をした神様が現れたことも、なにもかもが受け入れられない。

「やっぱり、もう来ないでほしい‥‥」

 それでも、あの姿で戸口に立たれると明里は扉を開けてしまうのだ。どうしたって、千冬の幻を目で追ってしまうのだ。それがきっと神様や村人たちの思惑通りだと分かっていても。

 握られた手が熱い。不安からくる動悸とは違う胸の鼓動に、心底嫌気がする。悪気があろうがなかろうが、その顔が、その声が明里を翻弄し続ける。存在だけで、明里の心を乱し続ける、あんまりな神様だ。
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