仕組まれた再会

文月 蓮

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1巻

1-3

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 妹との対面がすこしだけあと回しになったことにほっとしつつ、リュシーは自分の部屋に荷物を運んだ。
 父が政務官を務めているおかげで、リュシーの家庭は共和国内でも裕福な部類に入る。
 ふたりの執政官を元首としてようするベルナール共和国は、選挙で選ばれた政務官が元老院として元首と共に国を治めている。長く政務官を務める父は外交員として諸外国へ向かうことが多い。
 リュシーは自分が大学を卒業したあとは、ぜひ父の仕事を手伝いたいと考えていた。
 久しぶりに帰ってきた自宅はやはりほっとする。
 リュシーは荷物をほどきながら家族のために選んだプレゼントを目にして、一緒に選んでくれたフィルのことを思い出してしまう。

(いま頃、フィルも自宅でゆっくりと過ごしているだろうか?)

 恋人のことを考えていたリュシーは、部屋の扉がノックされたことにも気づかないほど物思いにふけっていた。

「姉様? いないの?」

 妹のリゼットが戸口から顔をのぞかせている。

「ごめんなさい、リゼット」

 リュシーはあわてて立ち上がった。

「久しぶりね」
「ええ、姉様もなんだか綺麗になったみたい」
「そうかしら? リゼットはいつも通り美しいと思うけれど」
「うふふ、ありがとう。夕食のときにでも大学のお話を聞かせてね」
(無邪気で美しいリゼット。私とは大違いだわ……)
「ええ」

 戸口で会話を終えると、リゼットが軽い足取りで嬉しそうに廊下を歩いていく姿を見送った。

(フィルも、妹に会ったら私になんて見向きもしなくなるのだろうか? 高等学校でできた初めての恋人は妹に会った途端とたん、私とは付き合えないと言い出したし……)

 結局、妹は彼からの告白を断ったが、彼が自分よりも妹を選んだことはリュシーの心に大きな傷跡を残していた。
 ふと気づくと夕食の時間が迫っていた。リュシーはあわててダイニングへ向かう。
 すでに両親と妹は席に着いていた。リュシーも席に着くと、サンピエールの生誕を祝う晩餐ばんさんが始まった。

「聖ピエールに感謝の祈りを」
「感謝を」

 祈りを捧げ終えて、夕食に口をつける。父の仕事の話や、妹の学校の話など様々な話題で食卓は盛り上がった。
 偉大なる聖人ピエールの生誕を祝うこの祭りでは、豪華な食事を家族みんなで囲むのが一般的だ。ベルナールや近隣の国では、一年の中でも特にこの時期にあわせて休暇を取り、家族と過ごすことで、互いの絆を確かめるのだ。

「姉様、大学は楽しいですか?」
「とても楽しいわ。講義についていくのは大変だけれど、学び甲斐があるし、友人もできたし……」

 リュシーはフィルのことを思い出して、微笑みを浮かべた。
 その光景を見ていた家族も、つられて笑みを浮かべる。
 真面目な長女が学生生活を楽しんでいる様子がうかがい知れ、両親は安堵あんどしたようだった。晩餐ばんさんは和やかに終わり、休暇の夜は穏やかに過ぎていった。
 翌朝は買っておいたプレゼントを交換する。フィルとリックのアドバイスをもらって選んだカフスボタンは父親に好評だった。

「リュシー、素敵なプレゼントをありがとう」
「友人に手伝ってもらったの」
「そうか……」

 リュシーの笑顔に、オーギュストもつられて満足そうな笑みを浮かべた。
 母には美しい瓶に入った香水を、妹には香りのよい薔薇ばらの香油が使われた石鹸せっけんを贈った。どちらも首都バスチエで女性に人気の商品だ。
 ベルナール共和国の首都バスチエは、古くからの街並みを残しながらも、一方では最新の技術を駆使した鉄やガラスが多用された建物が混在している。先進的な技術を取り入れることを好む国民性は、優美でありながら機能的な芸術文化を発達させていた。首都の中心から郊外に向かって、鉄道馬車が整備されており、市民の重要な交通手段となっている。
 リュシーの自宅からも、鉄道馬車を使えば小一時間ほどでバスチエの中心街へと移動することが可能だ。けれど、普段は忙しく中心部まで足を延ばすことのない母と妹のために、リュシーは流行の品物を選んだ。
 父からは象牙と金と七宝しっぽうでできたくしを、母からは蝶の形を模したブローチをプレゼントされた。蝶の下にはバロック真珠がついている流行はやりのデザインで、外出用のケープを留めるのに使えそうだった。
 リュシーはありがたくそれらの品物を受け取った。妹からは美しいガラスのインク壺をプレゼントされた。リュシーはインク壺を見て、自分らしいかもしれないと思いつつ受け取ったのだった。



   四 不安の影


 リュシーが休暇を終え、大学の近くにある鉄道馬車の駅に降り立つと、フィルが待ち構えていた。

「リュシー!」

 リュシーの姿を見つけたフィルは待ちかねた様子で、彼女を強く抱きしめた。

「フィル、苦しい……」

 久しぶりにぐ男らしいスパイシーな香りに、くらりとしながらリュシーが抗議すると、ようやく彼の腕がすこしゆるむ。

「会いたかった」
「ええ、私も」

 互いの存在を確認し合うと、フィルが大学の近くに借りているアパルトマンへと歩き出す。
 わずかな別離の間にも、思い出すのはフィルのことばかりで、リュシーは改めて彼への思慕しぼを実感していた。それはフィルも同様だったらしく、アパルトマンへ向かう道すがら、つないだ手が離されることはなかった。
 フィルの部屋に入った途端とたんに強く抱きしめられ、離れていた時間を取り戻すようにリュシーもフィルを強く抱きしめた。背の高いフィルの背中にリュシーの手はなかなか届かない。そうしている間に抱き上げられ、ベッドに運ばれたリュシーは、口づけにぼうっとしてしまう。重ねられた唇からは熱い吐息がこぼれ始めた。

「ああ、リュシー!」

 急かされるように互いの服を脱がせ合い、肌を重ねる。
 久しぶりの逢瀬おうせに高鳴る鼓動がフィルにまで聞こえそうなほどうるさい。リュシーはフィルから与えられる愛撫に溺れていく。
 その一方で彼の手慣れた様子に、気後きおくれしてしまう自分がいた。きちんと彼を満足させられているのか自信が持てない。けれど、リュシーはやっと得たこの温かい場所を手放す気にはなれなかった。
 フィルの大きな手が、むき出しになったリュシーの肌をなぞっていく。いつもの優しい手つきとは違い、性急な仕草で胸のまろやかなふくらみを揉みしだく。

「はぁっ」

 性急でありながらも、乱暴ではない絶妙な手つきでフィルは触れてくる。与えられる快感を、リュシーはただ甘受することしかできなかった。フィルの手が胸から離れ、背中からお尻のほうへ向かっていく。彼の無骨な手が臀部でんぶつかみ、強く揉みあげる。

「ああぁ……」

 与えられる快感に翻弄ほんろうされながらリュシーはフィルにしがみ付いた。自分よりも身体の大きい彼がリュシーを気遣って大切に抱いてくれていることはわかる。

「フィル、大丈夫だから。好きにして……」
「せっかく我慢していたのに、そんなにあおられると我慢できなくなる」

 フィルは我慢できなくなったのか、リュシーをベッドの上に押し倒した。

「リュシー、……ああ、リュシー」

 熱に浮かされたようにフィルはリュシーの名を繰り返す。フィルの熱に煽られたリュシーもまた、フィルの唇を噛みつくように奪った。

「っふ、ん……」

 珍しく積極的なリュシーの口づけに火をつけられたフィルは、すぐに主導権を取り返し、深くリュシーの口腔こうこうむさぼった。口づけを受けながら同時に身体に触れられ、リュシーの意識はぼうっとかすみがかったようになる。

「フィル……、あぁ……」

 いよいよ身体は熱を持ち、その先に与えられる快楽を期待しておののく。フィルの指先はすでに蜜をたたえていた場所にたどり着いた。

「ああ、リュシー。こんなにも待ってくれていたのか……」
「やっ、言わないで……」

 フィルの言葉に全身を赤く染めたリュシーは、恥ずかしさのあまり顔をシーツにうずめる。

「私は嬉しいのに」

 フィルはリュシーに悪戯いたずらっぽい笑みを向けると、無防備になっている彼女の胸元に唇を寄せた。そのまま胸のいただきを口に含むと、強く吸い上げる。

「ぁああん」

 リュシーは自分の口から漏れた声に驚き、咄嗟とっさに手の甲で口をふさぐ。けれどその手はすぐにフィルによって取り払われてしまった。

「せっかくだから、もっと聞かせて」

 そう言われてしまえば、リュシーに断るすべはない。フィルから触れられるたびに口から飛び出す声は、自分でも恥ずかしくなるほどつやを含んでいた。

「っや、フィル……。恥ずかしい」
「もっと感じて……」

 フィルの手がリュシーの花弁をかき分け、あふれた蜜をかきまぜるように動かす。

「っひ、あ……あぁ」

 リュシーの身体はその先に待つ大きな快楽の予感に震える。

「いいよ、リュシー」
「ああっ、あーッ」

 フィルの手によってリュシーの意識は一気に高みへと連れ去られる。つま先が丸まり、張りつめた身体が、がくがくと震える。嬌声きょうせいを上げながらリュシーは悦楽の頂点へ押し上げられた。
 ゆっくりと身体から力が抜け、シーツにぐったりと横たわるリュシーをフィルは愛しげに見つめる。

「リュシー、……好きだ」

 フィルは力の抜けたリュシーの足をつかむと、その間に身体を進めた。リュシーの媚態びたいあおられた欲望は、これ以上はないというほど高まっている。

「本当はもう少しゆっくりと楽しみたいけど、私も限界だ……」

 フィルは素早く避妊具を装着すると、ゆっくりとくさびをリュシーの内部にうずめていく。

「ああっ」

 快楽の波にたゆたっていたリュシーは、新たな刺激に意識を引き戻される。

「リュシー、すまない。我慢できないっ」

 フィルは苦しげな息を吐くと、大きく腰を動かした。何度もリュシーの身体を突き上げ、欲望のままに蜜壺をうがつ。

「――っ!」

 リュシーは声にならない声を上げ、強い快楽に耐えた。けれどそれも長くは続かず、再び絶頂に押し上げられてしまう。

「リュシー、そんなに締め付けられるとっ……」

 フィルは唇を噛みしめて快感の波をなんとかやり過ごし、再び腰を動かし始める。

「はぁっ……、っやあ……。もうっ……」

 絶頂に押し上げられたまま、休むことを許されないリュシーは、息も絶え絶えにフィルにしがみついた。

「リュシー、一緒に……」
「フィル……、もう……、はぁ、……あ」

 フィルが大きく腰を動かし強く打ち付けると、リュシーは何度目かもわからない絶頂を迎えた。フィルはリュシーが達したことを知ると、ようやく欲望を解放し、避妊具の中に白濁を注ぎ込む。断続的に精を注ぐたびに、フィルはぶるりと身体を震わせた。
 フィルは身体を離して、避妊具の後始末を済ませるとすぐにリュシーのそばに戻り、彼女の身体を強く抱きしめる。
 リュシーはフィルに抱きしめられたまま、荒い呼吸が落ち着くのを待った。フィルの行為はたくみで、リュシーはついていくのがやっとだった。けれど彼の気持ちに応えられることが嬉しかった。互いの欲望が満たされたあと、ゆっくりとベッドに並んで横たわりながら、たわいもない話をしている時間がリュシーは好きだった。

「フィルも、自宅へ帰っていたのでしょう?」
「ああ……」

 フィルはすこし顔をしかめている。

「そういえば、フィルの家ってどこにあるの?」
「言っていなかったか? 私はブランシュ王国の出身だ」
「そうだったの!?」

 リュシーは頭の中に陸続きの隣国のことが思い出された。リュシー自身は訪ねたことはないが、一般的な知識だけならばある。
 ベルナール共和国の南西に位置するブランシュ王国は立憲君主りっけんくんしゅ制を取る王国だ。代々女王が治めるの地は、ベルナールとも友好的な関係を築いている。数年前に両国を結ぶ汽車が開通したばかりで、より一層両国の結びつきも深まったところだ。
 フィルのダークブラウンの髪はブランシュ王国では比較的多かったことを思い出す。

「じゃあ、結構な長旅で疲れたでしょう?」

 リュシーがフィルの柔らかな髪の毛をもてあそんでいると、元気を取り戻したフィルがたわむれにリュシーの身体に触れてくる。

「いいや、早くリュシーに会いたくて予定を早めて戻ってきた」

 恥ずかしいセリフを臆面おくめんもなく言えてしまうフィルに、リュシーは頬を染めて口を閉じる。黙り込んだ彼女に、フィルは嬉々ききとして挑みかかるのだった。


    §


 寮で暮らすリュシーがフィルと一緒に過ごせる時間は少ない。大学では昼食を共にすることもあるが、フィルは見聞を広めるために留学してきていることもあり、友人と過ごすことも多かった。ふたりが一緒に過ごすのは、ほとんどがフィルのアパルトマンだ。
 いっしょに夕食を作って食べたり、のんびりと過ごしたりするふたりだけのたわいもない時間がリュシーにとってはとても大切だった。
 その日の講義を全て終え、フィルとの待ち合わせ場所に向かおうとしていたリュシーはリックに呼び止められた。

「あら、リック。久しぶりね」
「うん。悪いけどいまから時間をもらえるかな?」

 リックはどこか浮かない表情をしている。

「えっと、フィルと待ち合わせをしているんだけど……」

 リュシーはなんとなく彼と一緒に過ごすことがためらわれ、断りの言葉を口にしかけた。それに、待ち合わせの時間までには三十分ほどあるが、自分よりも先にフィルが待っていることが多いので、リュシーは早めに待ち合わせ場所へ向かいたかった。

「フィルなら用事があるから一時間ほど遅れるって伝言を預かっている」
「そうなの……」

 リュシーの心配を読み取ったかのようなリックの言葉に、漠然ばくぜんとした不安が胸をよぎる。

「立ち話もなんだから、フィルのアパルトマンで話をしよう」
「え、でも鍵は?」

 リュシーは自分の持っているアパルトマンの合鍵の入ったかばんをギュッと握りしめた。合鍵はフィルと付き合い始めてすぐに彼から手渡されていた。けれど、なんとなくリックにはそのことを告げたくなくて、リュシーは咄嗟とっさにそう答えていた。

「僕が持っているから心配ない」

 そう言って開いて見せた彼のてのひらには確かにフィルの部屋の鍵がある。

「わかりました。行きましょう」

 リュシーはリックのあとについてフィルのアパルトマンに向かった。
 リックは勝手知ったる様子でフィルの部屋のキッチンを漁ると、器用な手つきでコーヒーをれ、リュシーに差し出した。

「ありがとう」
「すこし長くなりそうだから、リビングで話そう」

 キッチンでリックの様子をながめていたリュシーをリビングのソファにうながすと、ふたりは向かい合って座った。

「リュシー、フィルと僕がブランシュ王国から来ていることは知ってる?」
「ええ、あなたもそうだとは知らなかったけど」
「そうか……、なら彼が王子だということは?」
「え!?」

 リュシーは驚きのあまり、持っていたカップを取り落した。カップはソーサーの上に落ち、割れてコーヒーが辺りに飛び散る。彼女のスカートにもコーヒーがかかっていたが、リュシーは驚きのあまり気づいていない。
 リックがあわててタオルを持ってくると、リュシーにかかったコーヒーを拭いていく。その間もリュシーは茫然ぼうぜんとしたまま座っていた。

「リュシー、ごめん。やっぱり、知らなかったんだね」
「フィルが……王子……」

 ぼんやりとつぶやくリュシーに、床を拭いていたリックが顔を見上げてうなずいた。

「よかった。やけどはしなかったみたいだ」

 幸いにもリュシーのスカートにかかったコーヒーはわずかで、足にまでは達していない。

「どうして……」

 呆けたように視線を宙に浮かせているリュシーを、リックはあわれみを込めた目で見つめた。

「私は殿下を補佐するために一緒に来ている」

 リックは友人の仮面を脱ぎ捨て、本来の彼に戻っていた。
 リュシーは次々と明らかにされる事実に、ただ黙って聞いていることしかできなかった。

「あなたのことは調べさせてもらった。オーギュスト・アルヌー政務官の長女で、成績は優秀で品行も悪くない。……だが、殿下にはすでに結婚を約束している方がいる。殿下とは別れていただきたい」
「……っ!」
(勝手に私の身辺を調べるなんて……)

 リュシーの心にかつてないほどの怒りが込み上げる。同時に悲しみともむなしさともつかぬ気持ちがリュシーを襲った。リュシーの前にひざまずいているリックは、ブランシュ王国ではそれなりの地位にあるはずのひとだ。きっと爵位も高いに違いない。

(プライドの高い貴族の彼がこうまでして頼み込むということは、きっと本当なんだ……。だとすればフィルに私なんかは相応ふさわしくない。身分のことも婚約者がいることも話してくれなかったのは、たわむれの関係だったから?)

 リュシーの頬には滂沱ぼうだの涙が伝った。

「すまない……。こうなるとわかっていたら、もっと早く止められたのに」

 リックの慰めの言葉はリュシーの耳をすり抜ける。

「女系優先のわが国では、殿下が王位を継がれることはないが、数少ない王族の一員としての役目を果たしていただかなければならない。外国人のあなたでは殿下の助けとなることは難しいだろう」
(どうしてフィルは教えてくれなかったのだろう。そんな大事なことを話すほどの相手ではなかったから? 愛されているという気持ちはただの思い上がりだったの?)

 リュシーの頭の中は疑問で埋め尽くされていた。

(彼の口から本当の気持ちを聞かせてほしい。でも、もしただの遊びだったと言われたら……? そんなことに耐えられるだろうか?)
「……わかり……ました。彼とは別れます」

 絞り出すようにつむがれたリュシーの声は細く、震えていた。

「あなたが理解のある方でよかった。私にできる範囲で、あなたにできるつぐないをいたします。お望みのものがあればなんなりと言ってください」

 感情を交えないリックの声にリュシーの心はきしむ。

「……って」
「なんと?」
「帰ってと言ったの! ちゃんとフィルとは別れます。だからいまは早く目の前から消えて!」

 問い返したリックにリュシーは叫んだ。とっくに理性は限界を超えていた。

「わかりました。あなたに殿下の正体を告げたことは黙っていていただけると助かります。秘密を知る者が増えれば、殿下の身の安全に関わりますので」

 リックは頭を下げると部屋を出て行った。
 人気ひとけのなくなったフィルの部屋でリュシーは嗚咽おえつを上げた。

「……ィル、どうしてっ……」
(どうして彼は私に付き合ってほしいなんて言ったんだろう。遊びのつもりだったのならば、あんな風に勘違いさせるようなことをしないでほしかった。そうすれば、私だって本気になったりしなかったのに)

 リュシーは悲しみを全て吐き出すかのように、嗚咽を上げ続ける。
 そうして、ひとしきり泣きはらしたあと、リュシーはフィルに手紙をしたためた。別れを告げる手紙をテーブルの上に置くと、部屋の扉を閉め、鍵をかける。

「さよなら」

 リュシーは鍵を大家に託して、実家へと向かう鉄道馬車に飛び乗った。


    §


 リュシーの母レオニーは、来客を告げるベルの音にあわてて玄関へと向かった。

(こんな遅い時間に誰だろう? 夫の仕事の関係かしら)

 扉を開けたレオニーの前にいたのは、まぶたらした娘の姿だった。

「リュシー、一体どうしたの?」

 はっきりと泣いたあとだとわかる娘の姿に、レオニーはうろたえながらも家の中に招き入れる。

「母様……。私、失恋しちゃった……」

 崩れこみながら母の腕の中に飛び込んだリュシーは、せきを切ったように涙を流している。ここへ着くまでの間、必死に抑えつけていた涙があふれ出す。

「いいのよ。好きなだけ泣いて……」

 母の言葉にリュシーは嗚咽を上げた。


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