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1巻
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しおりを挟む序 柔らかな檻
深い森の奥に建つ、堅牢な城。その中のほの暗い一室では、荒い息遣いと肌がぶつかる音、そして女の声が響いていた。
「……っく、や、やめっ!」
「ふ……、気持ちはいいはずだが?」
短く整えられた黒髪の男が、女の抗議をせせら笑う。
男に組み敷かれている女の名はフランチェスカ・モレッティ。オルランド王国のモレッティ侯爵家当主である。
彼女の髪は炎のように赤く、腰まで伸びている。そしてやわらかくうねり、フランチェスカ――フランの白くすべらかな裸身を覆っていた。
フランは琥珀色の瞳で、男をにらみつけた。彼女の瞳には強い憤りが宿っている。
男は彼女を見つめ返し、嬉しそうに笑みを浮かべた。フランを貫く熱い楔をぎりぎりまで引き抜くと、勢いよく突き上げる。
フランは両腕を男につかまれ、逃げることができない。
「ああぁっ!」
フランはたまらず、艶やかな声を漏らした。
彼女の様子を満足げに見下ろし、男はふっと笑う。
「冷たいあなたの態度とは裏腹に、中はとても熱い」
男はフランの耳元に顔を寄せ、低い声で彼女に囁いた。その声がフランの耳を犯し、彼女の意思を奪おうとする。
「んっ……言うなっ! フェデーレ!」
フランは男によって引き起こされた快感を打ち消そうと、目をきつくつぶり、叫んだ。
「私の名はアントーニオだ。いい加減、素直に呼べばよい」
「誰がっ! ……っく」
憎まれ口をたたこうとしたが、ふたたび男――アントーニオ・フェデーレに強く突き上げられ、言葉を失った。
アントーニオは、はげしくフランに腰を打ちつける。
「ひゃあぁっ」
フランはたまらず声を上げた。荒くなったふたりの息に、繋がり合った場所から発せられる情事の音がまじる。
「フランチェスカ、私の……かわいい子猫」
アントーニオは切なげに目を細めてフランの顔を見つめ、腰を突き動かす。
「あ、あぁ……、いやぁ……ッ」
迫りくる快楽の波から逃げるように、フランは首を振った。けれど押し寄せる波は止まるところを知らず、フランを呑みこんでいく。
「……っひ、あ……、あぁッ!」
フランは全身をびくびくと震わせ、快楽の頂点に達した。上擦りかすれた声が、のけぞった白い喉からこぼれる。
アントーニオはフランが極めたことを確信すると、己の欲望に身を任せ、思うままに彼女を突き上げた。節くれだった手でフランの腰を掴み、大きく腰をグラインドさせながらその速度を増していく。
達したばかりで感覚が鋭敏になっていたフランは、アントーニオの抽挿に新たな快楽の波を引き起こされた。
「……っひ、う、あ、もうっ」
「フランチェスカ……ッ」
アントーニオは目をつぶり、いっそう強く腰を打ちつけると、高まった欲望をフランに注ぎこんだ。どくり、どくりと楔が脈打ちながら、欲望の放出を続ける。
やがて大きく息を吐いて呼吸を整えると、彼はフランと体の位置を入れかえ、彼女を自分の腰の上に座らせた。
フランの意識は悦楽の淵をさまよっている。時折、びくりと体を震わせつつも、フランはアントーニオにぐったりともたれかかった。
アントーニオは腕の中の存在を確かめるように、彼女の長い髪を何度も撫でた。先ほどまで欲望に染まっていた彼の青い瞳には、慈しみの光が宿っている。
「……んんっ」
しばらくすると、フランがうめき声をあげた。意識がはっきりとしたのか、アントーニオの顔を見たとたんに、体をこわばらせる。
彼女の反応に、アントーニオの目から優しげな光が消えた。代わりに荒々しい欲望が浮かび上がる。
「……フェデーレッ!」
己の内側でいまだ存在を主張する雄々しい剛直に気づいたフランは、抗議の声を上げた。
「私は、まだ満足していない」
「もうっ、やめ……、あっ!」
アントーニオはフランの上半身を起こさせ、騎乗位の体勢になる。フランはふたたび腰をつかまれ、強く突き上げられた。
「っひ、……あ、……ッ」
押し寄せる強い快感に、フランはわけもわからず耐えることしかできない。
「……フランチェスカ、早くっ……私を愛せ」
アントーニオが小さくつぶやいた声は、フランの耳には届かなかった。
一 帰郷
その日フランは、王宮での数年にわたる騎士の勤めを終え、久しぶりに故郷の地を踏みしめていた。モレッティ城の周りには青々とした木々が広がり、森となって多くの命をはぐくんでいる。季節は夏を迎えたばかり。やがて秋になれば、果実や木の実などの恵みをもたらしてくれるだろう。
モレッティの領主に受け継がれてきた城は、石造りの丸い塔を四隅に配している。高い城壁の周りには堀があり、侵入者への備えは万全。城の正面で小さなアーチを描く楼門は、戦時には鉄の格子が下ろされる仕組みとなっている。
しかしいま、城主の帰還のために門は大きく開け放たれ、堀には木で作られた跳ね橋がかけられていた。
「フラン、お帰りなさい!」
元気な少年の声が、フランを呼ぶ。
「マウロ! 元気だったか?」
銀色の甲冑に身を包んだフランを門前で出迎えたのは、次のモレッティ侯爵となることが決まっている甥のマウリシオ・モレッティだった。
フランは脇に抱えていた兜を家令に手渡すと、近づいてきたマウリシオ――マウロを抱き上げた。
ひょいっと体を持ち上げられたマウロがあわてる。
「やだ、フランっ!」
「はは! だいぶ重くなったなぁ」
フランは嫌がる甥に笑いかけてから、地面に下ろす。今年で十歳の少年の体は、見かけよりも重量があった。フランは騎士として鍛錬しているから彼を持ち上げることができるが、あと数年でそれも叶わなくなるだろう。
マウロは解放されたとたん、ぱっとフランの手の届かないところに飛び退いた。
「もう、やめてよ。俺だってもう十歳だよ?」
フランを見上げるマウロの頬は、憤りでぷくりと膨れている。
「俺ではない。私と言いなさい。言葉遣いにも気を配るように」
「うー……、はい。私も十歳になるのですから、このようなことはおやめください。……これでいい?」
しぶしぶながら、貴族としてふさわしい言葉遣いに直したマウロ。だが、言い終わると唇をとがらせてそっぽを向いた。
どうやら完全に機嫌を損ねてしまったようだ、とフランは苦笑する。
「マウロ、ちゃんとご挨拶はできたの?」
マウロのうしろでふたりのやり取りを見守っていた小柄な女性が、見かねて割って入った。フランの亡き兄の妻であり、マウロの母であるキアーラだ。
彼女は後れ毛ひとつなく結い上げた長い金髪を揺らし、マウロの顔を覗きこむ。
マウロはさっとフランの背後に隠れた。
どうやら立腹しているらしい義姉に、フランは声をかける。
「ただいま戻りました。義姉上」
「お勤めお疲れさまでした。お帰りなさいませ、領主様」
義理の姉妹はにこやかに挨拶をかわした。
が、すぐにキアーラは、フランのうしろにいる息子に厳しい視線を送る。
「マウロ、私の言いたいことはわかっているわね?」
「……はい。母上」
マウロは気の進まない様子でフランに向き直ると、改めて挨拶した。
「領主様。お勤めお疲れさまです。お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま戻りました」
フランはマウロににこりと笑いかける。そして、よくできたとほめるように、自分によく似た赤毛の頭をわしゃわしゃと撫でまわした。
マウロは恥ずかしそうに叔母の愛情表現を受け入れた。
――フランは大きく深呼吸し、久しぶりの故郷の空気を味わった。
ここオルランド王国では、爵位を継ぐ前に、騎士としてのしきたりを学ぶことが慣例になっている。しかしフランは、前侯爵である兄が急になくなったため、騎士としての叙任と爵位の継承が同時になった。当然騎士のしきたりなど知らなかったため、数年間、王のもとで騎士として働きながらさまざまなことを学ぶことになったのだ。
それを終えたいま、基本的にフランが王宮へ行く必要はなくなった。紛争などの事態が起こらなければ、しばらく呼び出されることはないだろう。
「王宮はどうでした?」
キアーラがフランに話しかけながら、城内に向かう。フランはガチャガチャと甲冑の音を立てつつ、義姉の隣に並んだ。そのうしろにはマウロが続く。
「まあ、いつもの通りだ」
フランは王宮での自分の立ち位置を思い、苦笑を漏らした。
オルランド王国において、王からあずかった所領と爵位を継ぐのは、多くが男性である。貴族の女性にとって最も重要な務めは、跡継ぎを残すことだ。
なのに、フランは女性でありながら騎士となり、侯爵位を継いでいる。ゆえに、王宮では変わり者とされていた。今更なにをしようが、それが変わることはない。
奇異の目で見られる日々。それがつらくないと言ったら、嘘になる。
しかし、フランはいまは亡き兄に誓ったのだ。マウロが成人を迎えるまで、モレッティ侯爵となり、この家を守ると。そのときフランは二十歳で、ちょうど結婚適齢期の最中だった。王は誓いを認め、フランはモレッティ侯爵位を継いだ。
それから五年、彼女のもとには数多の縁談が舞いこんできたが、フランはすべて断っている。
自分が結婚し子どもが生まれれば、要らぬ火種を生みかねないからだ。マウロが成人し、爵位をゆずるまでは、結婚するわけにはいかない。
マウロが成人と認められるまで、あと六年。
たとえ結婚適齢期を過ぎようと、そのときまで独身を貫く覚悟を決めていた。
「領主様。……つらくはありませんか?」
隣を歩くキアーラが、心配そうにフランを見つめていた。そんな義姉の心配を吹き飛ばすように、フランは笑ってみせる。
「義姉上、心配は無用です。私は騎士の務めが好きだし、領主の仕事はやりがいがあります。アレックス兄上も、私がこんな風だから侯爵家を任せようと思われたのですよ」
病に倒れた兄アレックスは、侯爵家の行く末を案じた。嫡子であるマウロは若すぎるし、親族の中に後見を任せるのにふさわしい者もいない。悩んだアレックスは、フランを中継ぎとすることを思いつく。
フランの人望を考えれば、領内や親族から異議が上がることはないだろう。それに、フランならマウロが成人したときの爵位の継承もスムーズに行われるに違いない。
アレックスは、フランに侯爵家を継いでほしいと懇願した。
そして、フランは兄の願いにうなずいた。
武芸に熱心な父の教えを受け、幼い頃より兄とともに訓練を積んだフラン。特に弓の腕は、そこらの騎士には負けない自信がある。女性としての姿を捨て、騎士として戦いに赴くことも、当主を務めることも、フランには苦ではなかった。
だが、キアーラは普通に育った女性だ。女の身で剣を振り回し、馬に乗って戦場を駆け回ることなど、想像すらできないだろう。だからこそ、こうしてフランを気遣ってくれる。
「でも……」
「私の願いは、マウロが立派に私の跡を継いでくれることですよ」
フランはうしろにいるマウロを振り返る。母と叔母の視線を受けたマウロは、母ゆずりの緑の目を大きく開き、輝かせた。
「もちろんだよ。任せておいて!」
マウロは誇らしげにそう言ったが、すぐに恥ずかしくなったのか頬をわずかに染める。
「頼もしい返事だ。しかし、マウロが騎士見習いになると、この家を離れてしまうのだな……」
本来、騎士になるためには、騎士見習いとして数年勤めなくてはならない。あと二年もすれば、マウロもどこかの騎士に仕えることになるだろう。
フランが爵位を継いで五年。幼かったマウロもこうして大きくなった。その成長が嬉しくもあり、寂しくもある。フランは大きく息を吐いた。
(あと六年して成人する頃には、マウロは立派な青年になっているに違いない。そうすれば、私の役目は終わる。そのとき、私はなにを目標にして生きればいいんだろうな?)
フランは無意識に儚い笑みを浮かべていた。
その横顔を見たキアーラは、年下の義妹を哀れに思う。フランは本来であれば、とうに嫁ぎ、子を授かっていてもおかしくない年齢だ。アレックスが早世しなければ、彼女は今ごろ女性としての幸せを得ていただろう。
それぞれの思いに耽っているうちに、フランの部屋に着いた。
「お手伝いします」
鎧を脱ごうとすると、マウロがすかさず手伝いを申し出た。フランは喜んで受ける。
フランが剣帯をはずして棚の上に置き、マウロが手甲をはずす。そしてそのまま、手際よく甲冑を脱いでいく。フランが胴甲、ひざ当て、すね当てと順にはずし鉄靴を脱いだところで、マウロは甲冑を持ってフランの部屋を出た。手入れのためだろう。いずれ騎士見習いとなるマウロは、すでにそのあたりのことを学んでいるようだ。
甲冑の下に着ていたダブレットを、今度はキアーラが脱がせる。
そうしてようやく、フランはシャツとズボン一枚になった。
重い甲冑を脱いで軽くなった手足をぐるぐる回し、こりをほぐす。
「あー、疲れた」
「本当にお疲れさまでした」
キアーラは義妹に声をかけると、汗を流す準備をさせるために部屋を出ていった。
フランは部屋にある姿見に自分の姿を映す。鍛え抜いた体は、余分な肉ひとつない。騎士としては素晴らしいことだが、女性としての魅力は欠けているように見える。
フランはそのことに悔いも恥も感じていないが、ほんのすこし残念にも思う。
(男にも、女にもなりきれない私は、本当に中途半端だな……)
フランはそれ以上自分の姿を見たくなくて、姿見に布をかぶせた。
本人は気づいていないものの、中性的なフランの容貌は彼女独特の魅力を宿していた。
女性と男性、どちらともつかない美しさは、人目を惹きつけてやまない。特に貴族の婦人方からの人気は絶大なものだった。フラン自身は、己の容貌が周囲に与える影響をまったく理解していないが――
そのとき、部屋の扉をたたく音がした。フランが入室を許可すると、侍女が湯を張ったバケツを持って入ってきた。
フランは服を脱ぎ、たらいの中で一糸まとわぬ姿になる。
髪をひと括りにしていた紐をほどくと、腰まである長い赤髪が広がった。侍女はフランにバケツの湯をそろそろとかけていく。
汗を流し終えたフランがまとうのは、ドレスではない。
騎士が着る、簡素な上着とズボン。腰にベルトを巻いて短剣を差しこみ、太ももまである革のブーツを身につける。
侍女が髪を結い上げ終えると、フランは立ち上がった。
王宮での勤めを終え、久しぶりに領地へ戻った領主を囲んで、今夜は宴が開かれることになっている。フランは皆が待つ大広間に急いだ。
大広間には、長いテーブルにいくつもの大皿が並べられていた。中央には豪勢なことに丸焼きにされた雉が置かれている。
フランは自分の席に着くと、テーブルをぐるりと見渡す。城に勤める者たちが、皆集まっていた。ひとりひとりの顔を見て息災であることを確認し、フランは満足の息をつく。
フランの前に用意された杯に葡萄酒が注がれ、準備がととのう。フランは杯を高く掲げた。
呼応した皆が杯を掲げる。酒をたしなむ者には葡萄酒が、たしなまない者には井戸から汲んだ清水が入っている。
乾杯が終わるとフランは立ち上がり、主人としての役目に取りかかった。雉の丸焼きを切り分け、皆の皿にいきわたるように取り分けていく。
主人の役目を果たしたフランは、キアーラとマウロの間に用意された自分の席へ戻った。フランのもとには、次々と城で働く者たちが挨拶に押しかける。
「お帰りなさいませ、領主様。今夜の雉はなかなか大物でしょう?」
「ああ、素晴らしいな。捕まえるのに苦労しただろう」
赤ら顔をした料理番の男は、杯を手に上機嫌で笑った。
「領主様が戻られると聞いて、皆、張りきって狩りに出たんですよ」
城の下働きの女たちをまとめる料理番の妻が、料理番の肩をたたく。誇らしげなふたりに、フランは笑いかける。
「そうか、ありがとう」
フランは久しぶりに会った義姉や甥と話す間もなく、挨拶に訪れる者たちに答えた。
ようやくひとの波が落ち着いてきた頃には、宴は終わろうとしていた。城に詰めている守備隊の騎士たちも、交代で食事を取っている。
フランが料理を腹におさめていると、召使いがやってきた。
「お客様がお見えです」
召使いはフランの耳元に顔を寄せ、小さな声で用件を告げる。
「こんな時間に誰だ?」
「ベッティネッリ侯爵様です」
フランはその名前に目を瞠った。思わず口元がゆるむ。
ベッティネッリ侯爵領はモレッティ侯爵領と隣り合っており、両家は仲がいい。
フランは食事を中断して、ベッティネッリ侯爵が待つという楼門へ向かった。
戦時には、最初に攻撃の標的となる城の楼門。そこは平時でも厳重な警備を敷き、常に見張りの兵を配置している。その見張りの兵が、近づいてくるたいまつの灯りを見つけ、フランに伝えに来てくれたようだ。お陰で、フランはそれほど待たせずに客人を迎えることができた。
城を出て、楼門にたどり着く。門のすぐ内側では、ベッティネッリ侯爵がフランを待っていた。
「クリオ!」
彼の姿を見つけ、フランは思わず声高く呼ぶ。
「フラン!」
答えたクリオも嬉しそうだ。
幼馴染であり、騎士としても共に過ごしてきた、メルクリオ・ベッティネッリ。彼は、フランにとって親友とも言うべき存在だ。はちみつ色の髪に水色の瞳を持つ優しい容貌のクリオは、『薔薇の騎士』と呼ばれ、宮廷でも人気が高い。
「久しぶりだ。お前が王宮から帰ってきたと聞いて、会いに来た」
フランがクリオに近づくと、肩を抱き寄せられた。
クリオから香る汗の匂いに、フランの胸はどきりと大きく跳ねる。
「元気だったか?」
クリオは優しい目でフランを覗きこんで聞く。うなずいて、フランは答える。
「ああ。大事ない。しばらくはこちらでのんびりするさ」
「そうか……」
そう言って爽やかな笑みを浮かべるクリオの姿に、フランは胸が締めつけられた。
肩に添えられていたクリオの手が、すっと離れる。
(あ……もうすこしこのまま……いや、だめだ!)
ずっとクリオに触れていてほしいという気持ちに、フランは無理やり蓋をする。
クリオは、フランの初恋のひとだ。その気持ちは、長くフランの中で燻っている。
だが、フランが侯爵位を継いだとき、想いを断ち切らねばならなくなった。
フランは上着の下につけたブローチを、服の上からなぞる。
それはクリオが騎士として王に叙任された際、彼がフランにプレゼントしたものだ。
クリオが亡き母からもらったというブローチを、フランは喜んで受け取った。クリオは言葉にはしなかったけれど、フランはその意味を知っていた。騎士が母の形見を女性に渡すのは、いずれ自分のもとに嫁いでほしいという意思表示だ。
フランはブローチを受け取ったときから、「いつか」の訪れを心待ちにしていた。
けれども、運命は残酷だ。兄のアレックスが亡くなり、フランが侯爵位を継ぐことになったとき、フランは初めての恋をあきらめた。
そして、ブローチをクリオに返そうとしたのだ――
§
幼い頃より貴族の跡取りとして似た境遇にあったことで、仲がよかったアレックスとクリオ。ふたりは武術や剣術などに励み、互いに競い合っていた。そんな彼らに、フランはいつもついて回っていた。
野山を駆けまわり、ときには剣をまじえて、共に過ごした。それはフランにとって、宝物のような思い出だ。
やがて、年長のアレックスが騎士見習いをするために領地を離れると、クリオとフランの関係はすこしずつ変化していった。
それまでは、フランにとってクリオは兄の友人という認識でしかなかった。しかし、ふたりで過ごす時間が増えるにつれ、フランの中で彼の存在がどんどん大きくなっていく。
同じ頃、成長期を迎えたクリオは身長が伸び、声も低く男らしくなった。フランは男っぽくなっていく彼を目にするたび、胸がどきどきしていた。
気持ちに変化があったのは、クリオも同じだった。男の子のようだったフランの体は丸みを帯びて、すこしずつ女性らしくなる。そんなフランを見ているうちに、気の置けない幼馴染としてではなく、一人の女性として守ってやりたいという気持ちになったのだろう。
そしていつしか、ふたりの間に生まれたものは恋愛感情なのだと、互いに自覚するようになった。
やがてクリオも騎士見習いとして勤めるため、故郷を離れた。数年後、クリオは一人前と認められ、騎士として叙任された。
ふたりは、昔からよく遊んだ森で顔を合わせた。
「叙任、おめでとうございます。クリオもついに騎士様ですね」
フランは騎士服を着たクリオをまぶしそうに見上げ、祝福の言葉を述べる。クリオはほほえんで答えた。
「……ありがとう。アレックスに比べたら、まだまだ頼りないかもしれないが」
アレックスは数年前にすでに叙任を受け、騎士として王宮に勤めている。騎士となったばかりのクリオが、アレックスに実力で劣るのは仕方がない。
それでも、年齢に似合わぬ落ち着いた雰囲気をまとい、優雅な物腰のクリオは、将来の活躍を予感させた。
「いいえ、そんなことないですよ。クリオほどの腕前なら、きっとすぐに戦場でも活躍することでしょう。そして……きっと、多くの貴族のご婦人たちから想いを寄せられるのでしょうね」
フランは一抹の寂しさをこらえ、クリオを励まそうと言葉を重ねる。
「俺は、フランに……」
何事か言いかけ、クリオは顔を真っ赤にして口ごもった。そのまま黙りこんでしまった彼は、思い出したように懐からなにかを取りだした。
「やる」
目の前に手を突き出され、思わずフランは手を差し出す。そして手のひらに落とされたものを見て、目を瞠った。
それは、キラキラと輝きを放つ、大きな水色の宝石が埋めこまれた金色のブローチだった。ひと目で、かなり価値のあるものだとわかる。
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