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其の十八 毒舌王子の隠れ家(33)~狼の琥珀の瞳(3)
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……これは記憶の残像なのか……? それとも酔っているせいか……? いや、他人が居るのに、こんなにはっきりと琴枝を視るなんて、今まで一度もなかった。僕はとうとう気狂いになってしまったのか……?
顫える僕に向かい、琴枝は更に唇を動かした。
──とても危険よ……。お願い……、信用しないで……。
琴枝の青白い頬を泪が伝い落ち、ピチャン……、と反響する音がした。現か幻なのか区別がつかなかったが、流れる汗は針先のように冷たく僕の背中を強張らせた。
不意に冬月が肩を揺すり、胸元に垂れさがる赤褐色の髪の束を後ろに払った。すると琴枝の幻は、石を投げ込まれた暗い水面に映る枝垂れ柳の葉影のように、大きく揺れて立ち消えた。
「……っ」
途端に金縛りが解け、いきなり肺の中に流れ込んできた大量の空気に噎せた。
ゴホゴホと咳き込みながら滲んだ泪を拭って冬月を仰ぐと、障子窓から射し込む淡い午後の光を受けるその姿が、ずれた眼鏡越しにも奇妙なくらい明かに見えた。
西洋人混じりの整い過ぎの顔立ちと、無言で僕を貫く視線の強さとが、理屈の合わない恐ろしさで迫り、僕は混乱してまだ微かに顫える両手を握り締めた。
……あの人って、冬月の事なのか……?
血液という血液が、濁流となって體中を駆け巡る。
琥珀の弓矢を思わす視線と対峙する緊張で立っているのもやっとだった。
尋常ではない神経が冬月の背後の廊下を一段暗く感じさせ、其処に何か得體の知れない生き物が密やかに息づいている情景を妄想させた。
如何にも莫迦げた、幼稚とも言える空想だったが、僕はその恐ろしい想像に囚われ、無意識に遁走の手段を考え始めた。
だが、果たして自分に、あの廊下に──ケモノの口に飛び込む勇気があるのだろうかと思った瞬間、僕を射る視線はそのままに、冬月がいきなり後ろ手に襖を閉めた。
黒光りする縁と縁がかち合う小気味よい音で、ギクリと我に返った。
冬月は突然唇の端を嗤いの形に吊り上げたかと思うと、
「無鉄砲は止した方がいいよ。どうにか健闘したところで君が僕をすり抜けられる可能性は無に等しいからね。無駄な努力をするだけ徒労というものだよ」
「──え……⁉」
頭の中を読んだような発言に吃驚して息を呑んだ僕を意地悪な視線で見回しながら、冬月は鋭角的な顎を斜めに引き上げた。
「第一、此処から飛び出したところで、幻覚を見るほど酔っているようじゃ、階段を踏み外して地獄に真っ逆さまというのが落ちさ」
「……!」
……僕が、琴枝の幻を見ていた事に、気付いている……?
そう思い、すぐにまさかと打ち消した。
きっと冬月は、襖を開けた先で僕が空に向かって手を伸ばしているのを見て、酔って醜態を晒していると思ったに違いない。それで、みっともなかったぞ、と冬月一流の口吻で皮肉を言っただけなのだろう。
けれど、打ち消そうと試みる理性とは裏腹に、感情はざわざわと波立っていた。
顫える僕に向かい、琴枝は更に唇を動かした。
──とても危険よ……。お願い……、信用しないで……。
琴枝の青白い頬を泪が伝い落ち、ピチャン……、と反響する音がした。現か幻なのか区別がつかなかったが、流れる汗は針先のように冷たく僕の背中を強張らせた。
不意に冬月が肩を揺すり、胸元に垂れさがる赤褐色の髪の束を後ろに払った。すると琴枝の幻は、石を投げ込まれた暗い水面に映る枝垂れ柳の葉影のように、大きく揺れて立ち消えた。
「……っ」
途端に金縛りが解け、いきなり肺の中に流れ込んできた大量の空気に噎せた。
ゴホゴホと咳き込みながら滲んだ泪を拭って冬月を仰ぐと、障子窓から射し込む淡い午後の光を受けるその姿が、ずれた眼鏡越しにも奇妙なくらい明かに見えた。
西洋人混じりの整い過ぎの顔立ちと、無言で僕を貫く視線の強さとが、理屈の合わない恐ろしさで迫り、僕は混乱してまだ微かに顫える両手を握り締めた。
……あの人って、冬月の事なのか……?
血液という血液が、濁流となって體中を駆け巡る。
琥珀の弓矢を思わす視線と対峙する緊張で立っているのもやっとだった。
尋常ではない神経が冬月の背後の廊下を一段暗く感じさせ、其処に何か得體の知れない生き物が密やかに息づいている情景を妄想させた。
如何にも莫迦げた、幼稚とも言える空想だったが、僕はその恐ろしい想像に囚われ、無意識に遁走の手段を考え始めた。
だが、果たして自分に、あの廊下に──ケモノの口に飛び込む勇気があるのだろうかと思った瞬間、僕を射る視線はそのままに、冬月がいきなり後ろ手に襖を閉めた。
黒光りする縁と縁がかち合う小気味よい音で、ギクリと我に返った。
冬月は突然唇の端を嗤いの形に吊り上げたかと思うと、
「無鉄砲は止した方がいいよ。どうにか健闘したところで君が僕をすり抜けられる可能性は無に等しいからね。無駄な努力をするだけ徒労というものだよ」
「──え……⁉」
頭の中を読んだような発言に吃驚して息を呑んだ僕を意地悪な視線で見回しながら、冬月は鋭角的な顎を斜めに引き上げた。
「第一、此処から飛び出したところで、幻覚を見るほど酔っているようじゃ、階段を踏み外して地獄に真っ逆さまというのが落ちさ」
「……!」
……僕が、琴枝の幻を見ていた事に、気付いている……?
そう思い、すぐにまさかと打ち消した。
きっと冬月は、襖を開けた先で僕が空に向かって手を伸ばしているのを見て、酔って醜態を晒していると思ったに違いない。それで、みっともなかったぞ、と冬月一流の口吻で皮肉を言っただけなのだろう。
けれど、打ち消そうと試みる理性とは裏腹に、感情はざわざわと波立っていた。
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