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其の十八 毒舌王子の隠れ家(28)~琴枝の出現3
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──ねぇ、一つぐらいあたしの希望を叶えてくれたって、損はしないでしょう? そうじゃなきゃ、あたし、今に化けて出てやるんだから。
冗談めいた口ぶりだったが、底の方で靉靆とした影が浮き沈みしているのがわかった。
「琴枝……、君……」
言い掛けた僕に素早く首を振り、琴枝は黒い瞳を憂鬱げに瞬かせた。
──嘘よ。忘れていいわ。第一、浅草に行くのも怖がるような意気地なしの柊萍さんに、あんな高い建物のいちばん上まで登れと言っても、出来っこないでしょうからね。
「……」
再び顔を伏せた僕の頭上に、琴枝の溜息が降って来る。
──あぁ、つまらないわ。せっかく東京に居るのに、なぁんにも出来ないだなんて、まるで地獄もいいとこよ。
「……」
琴枝の幻の口を借り、罪悪感が僕に向かって牙を剥く。日々他人から露骨な蔑みをぶつけられる帝都での暮らしも自然と幻覚の上に作用しているのかもしれないが、素直で純な性格だった本当の琴枝からは聞いた事もない辛辣で棘のある言葉の数々が、ささやかな幸せを感じていた里での記憶をすべて歪曲してしまうようで、堪らなかった。
──ねぇ、もういいわよ。ほらほら、柊萍さん。そんなにいじけていないで、こっちを向いて。ね?
「……」
そろそろと見上げると、琴枝はお下げの髪の片方を弄りながら、唇を小鳥の嘴ほどに尖らせて、
──だけど、あたし、悪い事は言わないわ。その眼鏡はどうにかするべきよ。ほら、あの白いお鬚のお優しい先生に頼んでみてはどうかしら。眼鏡を新調するお金を用立ててください、って。
「み、御子柴先生に借金を申し込めと言うのかい⁉ そ、そんな事、出来る訳が……」
──でも、彼処の人たちったら、みんなして貴方を莫迦にして、ひどいったらありゃしないじゃない。あたし、帝都駅で初めてあの厭な人たちに会った時の事、忘れないんだから。主任さんだか副主任さんだか知らないけど、柊萍さん、あんな礼儀知らず達にへこへこしてやる事なんてないのよ。
「き、君はそう言うけど、彼処の人たちはとても優秀な人ばかりで、みんなが僕を莫迦にするのは当然の事だよ……」
言いながら、帝都駅での河原崎主任と的場副主任との初対面の時の記憶が、また頭をもたげて来た。
頻繁に滑り落ちる眼鏡を押し上げる僕の癖を見ていた的場副主任が、顔を顰めて傍らの河原崎主任に素早く何か耳打ちするのを見た時には、本当に肝が冷えた。
物資の行き渡らない山里では、町の人たち以上にどんな物も大事に使い続けるのが当然だが、その田舎に於いてすら、度数や顔幅に合わない眼鏡を掛けている僕がよほど珍妙に映ったのか、或いは僕という人間がよほど人の気に障るのかはわからないが、しょっちゅう人に揶揄われたり、厭味を言われたりしていた。
特に昔気質の古老たちには、「わしらの頃は眼鏡なんてもの、人様の前で掛けるものじゃなかった。まして目上の人の前では、珍しい高価な物を見せびらかしているだとか、頭の良さを自慢しているだとか思われないよう、外すのが当たり前だったというのに」などと、口酸っぱく説教をされる事もあった。
だから河原崎主任に耳打ちをする的場副主任を見た時も、やはり目障りに思われたのだろうと肩を窄め、二人の煩わしそうな視線を遣り過ごすしかなかった。
冗談めいた口ぶりだったが、底の方で靉靆とした影が浮き沈みしているのがわかった。
「琴枝……、君……」
言い掛けた僕に素早く首を振り、琴枝は黒い瞳を憂鬱げに瞬かせた。
──嘘よ。忘れていいわ。第一、浅草に行くのも怖がるような意気地なしの柊萍さんに、あんな高い建物のいちばん上まで登れと言っても、出来っこないでしょうからね。
「……」
再び顔を伏せた僕の頭上に、琴枝の溜息が降って来る。
──あぁ、つまらないわ。せっかく東京に居るのに、なぁんにも出来ないだなんて、まるで地獄もいいとこよ。
「……」
琴枝の幻の口を借り、罪悪感が僕に向かって牙を剥く。日々他人から露骨な蔑みをぶつけられる帝都での暮らしも自然と幻覚の上に作用しているのかもしれないが、素直で純な性格だった本当の琴枝からは聞いた事もない辛辣で棘のある言葉の数々が、ささやかな幸せを感じていた里での記憶をすべて歪曲してしまうようで、堪らなかった。
──ねぇ、もういいわよ。ほらほら、柊萍さん。そんなにいじけていないで、こっちを向いて。ね?
「……」
そろそろと見上げると、琴枝はお下げの髪の片方を弄りながら、唇を小鳥の嘴ほどに尖らせて、
──だけど、あたし、悪い事は言わないわ。その眼鏡はどうにかするべきよ。ほら、あの白いお鬚のお優しい先生に頼んでみてはどうかしら。眼鏡を新調するお金を用立ててください、って。
「み、御子柴先生に借金を申し込めと言うのかい⁉ そ、そんな事、出来る訳が……」
──でも、彼処の人たちったら、みんなして貴方を莫迦にして、ひどいったらありゃしないじゃない。あたし、帝都駅で初めてあの厭な人たちに会った時の事、忘れないんだから。主任さんだか副主任さんだか知らないけど、柊萍さん、あんな礼儀知らず達にへこへこしてやる事なんてないのよ。
「き、君はそう言うけど、彼処の人たちはとても優秀な人ばかりで、みんなが僕を莫迦にするのは当然の事だよ……」
言いながら、帝都駅での河原崎主任と的場副主任との初対面の時の記憶が、また頭をもたげて来た。
頻繁に滑り落ちる眼鏡を押し上げる僕の癖を見ていた的場副主任が、顔を顰めて傍らの河原崎主任に素早く何か耳打ちするのを見た時には、本当に肝が冷えた。
物資の行き渡らない山里では、町の人たち以上にどんな物も大事に使い続けるのが当然だが、その田舎に於いてすら、度数や顔幅に合わない眼鏡を掛けている僕がよほど珍妙に映ったのか、或いは僕という人間がよほど人の気に障るのかはわからないが、しょっちゅう人に揶揄われたり、厭味を言われたりしていた。
特に昔気質の古老たちには、「わしらの頃は眼鏡なんてもの、人様の前で掛けるものじゃなかった。まして目上の人の前では、珍しい高価な物を見せびらかしているだとか、頭の良さを自慢しているだとか思われないよう、外すのが当たり前だったというのに」などと、口酸っぱく説教をされる事もあった。
だから河原崎主任に耳打ちをする的場副主任を見た時も、やはり目障りに思われたのだろうと肩を窄め、二人の煩わしそうな視線を遣り過ごすしかなかった。
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