51 / 59
其の十八 毒舌王子の隠れ家(26)~琴枝の出現1
しおりを挟む「──……!!」
息を呑んで振り返ると、すぐ後ろに、琴枝が立っていた。
「……こ……琴枝……」
酔いのせいか、黙って僕を見詰める琴枝は、いつもよりずっとくっきりした輪郭を呈していた。だが、その大きな黒目がちの瞳には、平生立ち現れる幻に見るような生き生きとした表情がなく、まるで遠い何処かに焦点を合てているかの如くぼやけていた。
模糊とした眼でまじろぎもせず僕を見ている琴枝は、上京したての帝都駅の構内で見かけた女学生が着ていたのとそっくり同じ、青磁と海老茶の色も鮮やかな、山形文の銘仙羽織を身に着ていた。薄い日の入る静かな部屋には騒がしいほど鮮やかな着物と、じっと動かない無感動な黒い双眸を凝視するうちに、いつか研究室で見た風鳥の剥製が思い浮かび、知らず背筋が強張った。
「……こ……こと……」
もう一度呼び掛けようとした時、ピチョン……と、水滴が垂れ落ちるような音が響いた。よく見ると、琴枝のぼんやりと滲んで向こうの壁が透ける足元が、ぐっしょりと濡れそぼっていた。
「……──!!」
脳裏に、今朝聞いたばかりの例の事件の話が明滅する。
……四肢を喰い荒らされた、揚がったばかりの水死體…………。
「……っ」
僕は唇と目を固く閉じ、勢いよく頭を振った。恐ろしい想像を無理に掻き消し、ゆっくりと目を開け、お下げに編んだ髪の毛流れまで見て取れそうな琴枝を見上げた。
「……君は、本当の琴枝じゃない。だって君は……、……これは、僕が作り出した幻なんだから……。君への罪の意識が、僕にこんな幻を見せているんだ……。だから、君はまだ、死んでなんかいないんだ……。きっと何処かで、無事に、生きている……。そうだろう? 琴枝……」
僕の言葉に無表情だった琴枝の瞳が俄かに揺らぎ、光が差した。琴枝は今やっと目が覚めたかのように大きく息を吸い込むと、
──あぁ、柊萍さん、あたし……。
言い掛けたきり、口を閉ざして何か思い詰めるような様子で僕を見詰めていたが、軈て小さな溜息を吐いて俯いた。その息遣いのあまりの生々しさに、僕は幻だと言う事も忘れて琴枝の方に身を乗り出した。
「琴枝、どうしたんだい。何処か苦しいのかい」
琴枝は答える代わりに、細い指で毛先に巻いた水色のリボンを弄っていたが、不意に顔を上げ、真っ直ぐに僕を見ると、拗ねたような膨れっ面を作った。
──他の女の人が着ていた物を寄越すなんて、随分ひどいのね。
桜貝を思わす唇を突き出して、色鮮やかな羽織の袂をばさりと払って見せた。
一瞬、金木犀を煮詰めたような濃い匂いが強く香った。
僕は聲もなく茫然と琴枝を見上げていたが、すぐに気が付いて、あたふたと眼鏡を押し上げながら弁解した。
「ご、御免よ、琴枝。決してそういうつもりじゃなく……」
──それじゃ、どういうつもりでよその女の人の物をあたしに着せているの。
「だ、だからその……、あの時、帝都駅で見掛けた娘さんと君とが重なったものだから……」
──厭よ、そんなの。あたし、おさがりなんて欲しくないわ。第一、こんなの好きじゃないもの。
「だ、だけど、ほら、以前君が少女雑誌を欲しがって、二人で町の書店まで行った事があるだろう? その時、ちょうど同じような銘仙を着た女学生の絵が表紙になっていたのを買ったじゃないか。帰り道、雑誌を嬉しそうに抱えて、君が何度も素敵だと言っていたのを、よく憶えているんだ……」
──あたしはあの雑誌が気に入っただけよ。表紙なんかどうでもいいんだから。
琴枝はわざとらしく尖らせた唇で言い、プイ、とそっぽを向いた。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

おしごとおおごとゴロのこと そのさん
皐月 翠珠
キャラ文芸
目指すは歌って踊れるハウスキーパー!
個性的な面々に囲まれながら、ゴロはステージに立つ日を夢見てレッスンに励んでいた。
一方で、ぽってぃーはグループに足りない“何か”を模索していて…?
ぬいぐるみ達の物語が、今再び動き出す!
※この作品はフィクションです。実在の人物、団体、企業とは無関係ですが、ぬいぐるみの社会がないとは言っていません。
原案:皐月翠珠 てぃる
作:皐月翠珠
イラスト:てぃる
アデンの黒狼 初霜艦隊航海録1
七日町 糸
キャラ文芸
あの忌まわしい大戦争から遥かな時が過ぎ去ったころ・・・・・・・・・
世界中では、かつての大戦に加わった軍艦たちを「歴史遺産」として動態復元、復元建造することが盛んになりつつあった。
そして、その艦を用いた海賊の活動も活発になっていくのである。
そんな中、「世界最強」との呼び声も高い提督がいた。
「アドミラル・トーゴーの生まれ変わり」とも言われたその女性提督の名は初霜実。
彼女はいつしか大きな敵に立ち向かうことになるのだった。
アルファポリスには初めて投降する作品です。
更新頻度は遅いですが、宜しくお願い致します。
Twitter等でつぶやく際の推奨ハッシュタグは「#初霜艦隊航海録」です。
【完結】僕たちのアオハルは血のにおい ~クラウディ・ヘヴン〜
羽瀬川璃紗
キャラ文芸
西暦1998年、日本。
とある田舎町。そこには、国の重大機密である戦闘魔法使い一族が暮らしている。
その末裔である中学3年生の主人公、羽黒望は明日から夏休みを迎えようとしていた。
盆に開催される奇祭の係に任命された望だが、数々の疑惑と不穏な噂に巻き込まれていく。
穏やかな日々は気付かぬ間に変貌を遂げつつあったのだ。
戦闘、アクション、特殊能力、召喚獣的な存在(あやかし?式神?人外?)、一部グロあり、現代ファンタジー、閉鎖的田舎、特殊な血統の一族、そんな彼らの青春。
章ごとに主人公が変わります。
注意事項はタイトル欄に記載。
舞台が地方なのにご当地要素皆無ですが、よろしくお願いします。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる