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其の十八 毒舌王子の隠れ家(22)
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……ひょっとして、冬月は、知っている……?
琴枝の事を知られたくない、いや、知られてはいけない──何故だか強くそう思った。だが同時に、まるで體の何処かに存在するもう一人の自分に気が付いたような違和感が生じ、そう思った自分自身に慄かずには居られなかった。
「そう警戒する事はないよ。僕は君が業務の合間に他の事に気が取られてぼんやりしている事をあげつらおうと言うんじゃないんだ。寧ろ、僕は君が無益な雑事なんぞに莫迦正直に取り組む不健全な男ではない事に安心したい心境で居るんだからね」
「……」
……大丈夫だ、たかが雑用係の素性をいちいち調べるほど、冬月は暇じゃないさ……。
言い聞かせるように思い、少しばかり平静を取り戻したが、咽喉はカラカラに渇いていた。無意識に猪口の酒を啜ると、冬月は徳利を取って僕の杯に腕を伸ばし、きっかり減った分だけ酒を注ぎ入れながら、
「君があの研究室に居るのは御子柴教授自らが肝煎った結果だろ。まさか慈善や暇つぶしや気まぐれの類いという訳でもあるまいし、君に何かしらの才を嗅ぎ取ったからこそ教授は君を此処まで引っ張り出したんだ。そうだろ?」
「……い、いや……、どうだろう……。本当に、僕を哀れに思ってくださったのかも……」
無性に不安な気分が掻き立てられ、ドキドキと眼鏡を押さえた僕を一拍の間じっと見てから、冬月は硬質な煌めきを伴う聲で続けた。
「どういう経緯があるにしろ、君が現在あの研究室に居るのは紛れもない現実だ。他の研究員からすればいきなり新たな競争相手が、それも鳴り物入りで現れたも同然だからね、当初はそりゃ君を目の敵にしたって当然さ。けど、現状君は研究員たちにとっては取るに足りない存在という位置づけだろ。僕は研究員たちが君に対してそういう認識を持つに至った原因としては、教授の君の扱い方にあると思っている。ま、君に対して侮蔑的な言動をする事で教授に阿っているつもりなのかもしれないが、概して高い自尊心を持つ割りには見合うだけの結果を出せない人間の中には最初の敵意が大きければ大きいほど、反動で相手を必要以上に見下す人間がとても多い。そうすれば周囲や自分自身に対して相手よりも自分が優位にある事を示せると勘違いしているんだよ。そういう心理は哀れに思うし、そもそも連中に礼節なんてものは期待していないが、それにしたって連中の君への態度は御子柴教授への敬意を欠いていると言わざるを得ない。見方によっては教授に対する婉曲的反発、或いは消極的反乱と取ってもおかしくない」
「ち、ちょっと待ってくれ……」
僕は慌てて猪口を置いて身を乗り出した。
「か、かか、かば……庇って、もらうのは有り難いが、あの人たちは御子柴先生に対してそんな……」
しかしドキドキと訴えようとした言葉の続きは、鋭い鼻嗤いに脆くも吹き飛ばされた。
「庇う? 僕が君を? 驚いたな。君、本気でこの僕がしがない雑役夫なんかの弁護をすると思っているのかい。それともやはり君は相当の自惚れ屋なのか」
「……っ」
赤面し、バツの悪さを誤魔化そうと猪口を煽った。冬月はまた腕を伸ばして僕の杯を酒で満たすと、
「君の自意識過剰は兎も角く、連中の君への態度は世間一般的な礼儀の観点から言っても不適当だ。だがある一点では君の自信に欠けた振る舞いが連中を増長させているのも事実だ。その点について自覚はあるのかい」
「そ……それはその……」
「言い換えるなら、研究室の教授に対する背反的な空気は君自身が原因だという事だよ。それをきちんと理解しているんだろうね」
「……勿論、わかっているよ……」
「結構。だとすれば、君は教授に対して相当心苦しい思いをしている筈だ。教授の役に立ちたいと言う今朝の君の殊勝ぶった発言を聞くまでもなく、君が教授に対して過剰なまでに恩義を感じている事は、厭でも目につく君の卑屈な態度からも明白だ。まして自分の存在があの研究室に不穏な空気をもたらしていると自覚しているなら、たとえ君が余程の鉄面皮であったとしても、とても身の置き場なんかないだろうからね」
「…………」
往復で平手打ちをするような皮肉の羅列に悄然と項垂れるしかなかった。だが冬月は箝口するどころか、ますますその舌を苛烈に振るって畳み掛けて来た。
「だから僕は訊ねたんだよ、小鳥遊。何の武器も持たずに乗り込んで来た君が、まさか全国から集まった優秀な鳥類研究者たちと肩を並べるまでになるなんて荒唐無稽な空想をする気はないが、しかし幾らかでも稀少な鳥についての知識や扱い方を身につければ、あの研究室の中で何かしらもっと実際的に役立つ道が拓ける可能性は大いに有り得る。仮に君にその方面の資質が皆無であったとしても、もっとましな別の存在意義を示す努力をする事はどの方面から言っても無駄にはならない筈だ。第一あれだけの観察舎を前にして学習意欲が盛り立てられないほうが不思議だ。きっと観察舎に入って鳥を一目見たいと思っているんじゃないかい?」
「え……っ、……そ、それは、その……」
滲む汗で眼鏡が鼻先にまで滑り落ちた。元に戻そうとする指の微かな顫えを琥珀色の視線から隠す余裕もないまま、僕はオロオロと口を開いた。
「あ……彼処には、その、くれぐれも近づかないようにと、ま……的場副主任に、きつく言われているんだよ……。だ、だから、そんな風に考えた事は、ない……」
責任転嫁して逃げ口上するような具合に聞こえるだろうとは思ったが、働き始めてすぐの頃、的場副主任をはじめ複数の研究員から、万一の事があっては取り返しがつかないからと、観察舎に接近しないよう釘を刺されたのは事実だった。
冬月は片眉を高く額に掲げると、
「近づくなって? ……ふぅん、まぁ君が相手じゃそう言うだろうね」
薄い笑みで唇を吊り上げる冬月の皮肉めいた視線が突き刺さり、痛さに思わず俯いた。
琴枝の事を知られたくない、いや、知られてはいけない──何故だか強くそう思った。だが同時に、まるで體の何処かに存在するもう一人の自分に気が付いたような違和感が生じ、そう思った自分自身に慄かずには居られなかった。
「そう警戒する事はないよ。僕は君が業務の合間に他の事に気が取られてぼんやりしている事をあげつらおうと言うんじゃないんだ。寧ろ、僕は君が無益な雑事なんぞに莫迦正直に取り組む不健全な男ではない事に安心したい心境で居るんだからね」
「……」
……大丈夫だ、たかが雑用係の素性をいちいち調べるほど、冬月は暇じゃないさ……。
言い聞かせるように思い、少しばかり平静を取り戻したが、咽喉はカラカラに渇いていた。無意識に猪口の酒を啜ると、冬月は徳利を取って僕の杯に腕を伸ばし、きっかり減った分だけ酒を注ぎ入れながら、
「君があの研究室に居るのは御子柴教授自らが肝煎った結果だろ。まさか慈善や暇つぶしや気まぐれの類いという訳でもあるまいし、君に何かしらの才を嗅ぎ取ったからこそ教授は君を此処まで引っ張り出したんだ。そうだろ?」
「……い、いや……、どうだろう……。本当に、僕を哀れに思ってくださったのかも……」
無性に不安な気分が掻き立てられ、ドキドキと眼鏡を押さえた僕を一拍の間じっと見てから、冬月は硬質な煌めきを伴う聲で続けた。
「どういう経緯があるにしろ、君が現在あの研究室に居るのは紛れもない現実だ。他の研究員からすればいきなり新たな競争相手が、それも鳴り物入りで現れたも同然だからね、当初はそりゃ君を目の敵にしたって当然さ。けど、現状君は研究員たちにとっては取るに足りない存在という位置づけだろ。僕は研究員たちが君に対してそういう認識を持つに至った原因としては、教授の君の扱い方にあると思っている。ま、君に対して侮蔑的な言動をする事で教授に阿っているつもりなのかもしれないが、概して高い自尊心を持つ割りには見合うだけの結果を出せない人間の中には最初の敵意が大きければ大きいほど、反動で相手を必要以上に見下す人間がとても多い。そうすれば周囲や自分自身に対して相手よりも自分が優位にある事を示せると勘違いしているんだよ。そういう心理は哀れに思うし、そもそも連中に礼節なんてものは期待していないが、それにしたって連中の君への態度は御子柴教授への敬意を欠いていると言わざるを得ない。見方によっては教授に対する婉曲的反発、或いは消極的反乱と取ってもおかしくない」
「ち、ちょっと待ってくれ……」
僕は慌てて猪口を置いて身を乗り出した。
「か、かか、かば……庇って、もらうのは有り難いが、あの人たちは御子柴先生に対してそんな……」
しかしドキドキと訴えようとした言葉の続きは、鋭い鼻嗤いに脆くも吹き飛ばされた。
「庇う? 僕が君を? 驚いたな。君、本気でこの僕がしがない雑役夫なんかの弁護をすると思っているのかい。それともやはり君は相当の自惚れ屋なのか」
「……っ」
赤面し、バツの悪さを誤魔化そうと猪口を煽った。冬月はまた腕を伸ばして僕の杯を酒で満たすと、
「君の自意識過剰は兎も角く、連中の君への態度は世間一般的な礼儀の観点から言っても不適当だ。だがある一点では君の自信に欠けた振る舞いが連中を増長させているのも事実だ。その点について自覚はあるのかい」
「そ……それはその……」
「言い換えるなら、研究室の教授に対する背反的な空気は君自身が原因だという事だよ。それをきちんと理解しているんだろうね」
「……勿論、わかっているよ……」
「結構。だとすれば、君は教授に対して相当心苦しい思いをしている筈だ。教授の役に立ちたいと言う今朝の君の殊勝ぶった発言を聞くまでもなく、君が教授に対して過剰なまでに恩義を感じている事は、厭でも目につく君の卑屈な態度からも明白だ。まして自分の存在があの研究室に不穏な空気をもたらしていると自覚しているなら、たとえ君が余程の鉄面皮であったとしても、とても身の置き場なんかないだろうからね」
「…………」
往復で平手打ちをするような皮肉の羅列に悄然と項垂れるしかなかった。だが冬月は箝口するどころか、ますますその舌を苛烈に振るって畳み掛けて来た。
「だから僕は訊ねたんだよ、小鳥遊。何の武器も持たずに乗り込んで来た君が、まさか全国から集まった優秀な鳥類研究者たちと肩を並べるまでになるなんて荒唐無稽な空想をする気はないが、しかし幾らかでも稀少な鳥についての知識や扱い方を身につければ、あの研究室の中で何かしらもっと実際的に役立つ道が拓ける可能性は大いに有り得る。仮に君にその方面の資質が皆無であったとしても、もっとましな別の存在意義を示す努力をする事はどの方面から言っても無駄にはならない筈だ。第一あれだけの観察舎を前にして学習意欲が盛り立てられないほうが不思議だ。きっと観察舎に入って鳥を一目見たいと思っているんじゃないかい?」
「え……っ、……そ、それは、その……」
滲む汗で眼鏡が鼻先にまで滑り落ちた。元に戻そうとする指の微かな顫えを琥珀色の視線から隠す余裕もないまま、僕はオロオロと口を開いた。
「あ……彼処には、その、くれぐれも近づかないようにと、ま……的場副主任に、きつく言われているんだよ……。だ、だから、そんな風に考えた事は、ない……」
責任転嫁して逃げ口上するような具合に聞こえるだろうとは思ったが、働き始めてすぐの頃、的場副主任をはじめ複数の研究員から、万一の事があっては取り返しがつかないからと、観察舎に接近しないよう釘を刺されたのは事実だった。
冬月は片眉を高く額に掲げると、
「近づくなって? ……ふぅん、まぁ君が相手じゃそう言うだろうね」
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