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其の十八 毒舌王子の隠れ家(21)
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「ぼ、僕の事って……」
厭な予感で身を固くした僕をフフンと嗤い、冬月は皮肉っぽく吊り上がった唇を動かした。
「紳士的な君の信条に反する猥談を吹っ掛けようと言うんじゃないんだ。だからそう身構えなくても平気だよ。僕はただ君の仕事ぶりについて話がしたいんだよ」
「え……」
ますます身が強張った。冬月はそんな僕を見るとフ……と嘲弄するような息を吐き、卓に杯を置いた。猪口の底がトン、と鳴る音が、何だかこの頃巷で流行り始めた拳闘なる西洋スポーツの試合開始の合図のようで、僕は早くも試合台の隅っこまで追い詰められた気分になった。
酔いのせいかうっかり忘れかけていたが、この琥珀色の瞳に抜かりのない怜悧な光を湛えて嗤う青年は、大日本大国大学御子柴研究室の唯一にして最大の資金提供者たる冬月一族の御曹司であり、尚且つその資金の提供に関し、継続の是非を決定するに至るための全権を委ねられた、謂ば検事とも判事とも言うべき青年なのだ。対して僕は、理想から述べるならば、弁護人の役割を果たすべきなのだろうが、舌から先に生まれたような冬月蘇芳を前にしては、訥弁を自認する僕は「迂闊に返答して万一の事態の原因を作った証人」になってしまうのを避けるだけで精いっぱいだろう。
緊張で冷たい汗が滲み始めた僕に向かい、冬月は酷薄な笑みの影を濃くして身を乗り出すと、
「御子柴研究室での君の仕事が煩瑣で些末な雑用業務だという事は充分わかった上で訊るが、一年近くも居れば君もそろそろ彼処の鳥の知識を得たいと思い始めてもおかしくない頃合いだ。実際、君としてはどう考えているんだい」
「え……!? そ、それは……」
どんな答えを返すのが正解なのか判断が付かず、口ごもった。
「ど、どうって、それは……」
確かに、勤め始めた最初の頃はそういう意欲がなかった訳ではないが、半年も経つ頃にはすっかりそんな志などあらゆる希望と共に潰えてしまった──と正直に答えるべきなのだろうか。しかし僕の発言がどんな結果につながるとも知れないと考えると、当たり障りのない返答をするのが賢明であるように思えた。かと言って、元来人に嘘を吐く事ができない僕が、炯眼たる冬月を誤魔化しきれるとは、とてもじゃないが思えなかった。オロオロと言い淀んでいると、薄い笑みを含んだ硬質な聲が、獲物に噛みつく動物のように僕の耳朶を打った。
「君は確かに高等教育を受けた訳ではないようだが郷里では尋常小学校で代用教員の職に就いていたんだろ。仮にそれが何らかの縁故関係なり誰かしらの利害の一致なりの産物だったとしても、代用教員として奉職するにはそれなりの人物でなきゃ問題があるだろ。実際、歌人や政治家として成功した人間たちの中には青年期に代用教員をしていた者も少なくない。君だって君自身が卑下したり他人があんな風に蔑んだりする程には莫迦じゃない」
「──え……っ!?」
極度の緊張で身を固くし、滔々と流れ込んでくる懸河の弁を必死に耳と頭で追っていた僕は、まるで肩を持つような冬月の発言に驚き、夢でも見ている気分で、目の前の二つの琥珀玉を見詰めた。しかし一瞬の後には、更なる緊張と不安で身と心をよりいっそう硬直させなければならなかった。
「小鳥遊、僕はさっき、君はいつでも夢うつつだと言ったが、僕が思うに君が日ごろ薄ぼんやりして見えるのは他に何か気になるもっと重要な事があるからだ。違うかい?」
瞬間、知らずに開けた仕掛け箱の中から、いきなり奇怪な玩具が飛び出して来るように、風に揺れる水色のリボンと、黒く巨大な鳥の幻影とが、目蓋の裏に大きく交互に映し出された。
思わず息を詰め、強く瞬きをして、やけに耀いて見える冬月の瞳を凝視した。
「──え……」
見透かすような鋭い視線に胸があやしく騒ぎ出す。薄っぺらなシャツの背中に、冷たい汗の染みが急速に広がった。
厭な予感で身を固くした僕をフフンと嗤い、冬月は皮肉っぽく吊り上がった唇を動かした。
「紳士的な君の信条に反する猥談を吹っ掛けようと言うんじゃないんだ。だからそう身構えなくても平気だよ。僕はただ君の仕事ぶりについて話がしたいんだよ」
「え……」
ますます身が強張った。冬月はそんな僕を見るとフ……と嘲弄するような息を吐き、卓に杯を置いた。猪口の底がトン、と鳴る音が、何だかこの頃巷で流行り始めた拳闘なる西洋スポーツの試合開始の合図のようで、僕は早くも試合台の隅っこまで追い詰められた気分になった。
酔いのせいかうっかり忘れかけていたが、この琥珀色の瞳に抜かりのない怜悧な光を湛えて嗤う青年は、大日本大国大学御子柴研究室の唯一にして最大の資金提供者たる冬月一族の御曹司であり、尚且つその資金の提供に関し、継続の是非を決定するに至るための全権を委ねられた、謂ば検事とも判事とも言うべき青年なのだ。対して僕は、理想から述べるならば、弁護人の役割を果たすべきなのだろうが、舌から先に生まれたような冬月蘇芳を前にしては、訥弁を自認する僕は「迂闊に返答して万一の事態の原因を作った証人」になってしまうのを避けるだけで精いっぱいだろう。
緊張で冷たい汗が滲み始めた僕に向かい、冬月は酷薄な笑みの影を濃くして身を乗り出すと、
「御子柴研究室での君の仕事が煩瑣で些末な雑用業務だという事は充分わかった上で訊るが、一年近くも居れば君もそろそろ彼処の鳥の知識を得たいと思い始めてもおかしくない頃合いだ。実際、君としてはどう考えているんだい」
「え……!? そ、それは……」
どんな答えを返すのが正解なのか判断が付かず、口ごもった。
「ど、どうって、それは……」
確かに、勤め始めた最初の頃はそういう意欲がなかった訳ではないが、半年も経つ頃にはすっかりそんな志などあらゆる希望と共に潰えてしまった──と正直に答えるべきなのだろうか。しかし僕の発言がどんな結果につながるとも知れないと考えると、当たり障りのない返答をするのが賢明であるように思えた。かと言って、元来人に嘘を吐く事ができない僕が、炯眼たる冬月を誤魔化しきれるとは、とてもじゃないが思えなかった。オロオロと言い淀んでいると、薄い笑みを含んだ硬質な聲が、獲物に噛みつく動物のように僕の耳朶を打った。
「君は確かに高等教育を受けた訳ではないようだが郷里では尋常小学校で代用教員の職に就いていたんだろ。仮にそれが何らかの縁故関係なり誰かしらの利害の一致なりの産物だったとしても、代用教員として奉職するにはそれなりの人物でなきゃ問題があるだろ。実際、歌人や政治家として成功した人間たちの中には青年期に代用教員をしていた者も少なくない。君だって君自身が卑下したり他人があんな風に蔑んだりする程には莫迦じゃない」
「──え……っ!?」
極度の緊張で身を固くし、滔々と流れ込んでくる懸河の弁を必死に耳と頭で追っていた僕は、まるで肩を持つような冬月の発言に驚き、夢でも見ている気分で、目の前の二つの琥珀玉を見詰めた。しかし一瞬の後には、更なる緊張と不安で身と心をよりいっそう硬直させなければならなかった。
「小鳥遊、僕はさっき、君はいつでも夢うつつだと言ったが、僕が思うに君が日ごろ薄ぼんやりして見えるのは他に何か気になるもっと重要な事があるからだ。違うかい?」
瞬間、知らずに開けた仕掛け箱の中から、いきなり奇怪な玩具が飛び出して来るように、風に揺れる水色のリボンと、黒く巨大な鳥の幻影とが、目蓋の裏に大きく交互に映し出された。
思わず息を詰め、強く瞬きをして、やけに耀いて見える冬月の瞳を凝視した。
「──え……」
見透かすような鋭い視線に胸があやしく騒ぎ出す。薄っぺらなシャツの背中に、冷たい汗の染みが急速に広がった。
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