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其の十八 毒舌王子の隠れ家(17)
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冬月はずいと身を乗り出すと、
「その昔、京の都で神とも化け物とも恐れられた巨大な山犬が都落ちして棲み移ったという伝承があるんだよ。今でもその霊が出て、目撃した者はおろか、その話をしただけでも悉く祟られると専らの評判でね。住民には遠く離れた希臘の迷宮に幽閉されていた怪物ミノタウロスの神話なんかより、よほど信憑性があって恐ろしいらしいよ」
元来、怪談物が苦手な僕の背中には、厭な汗が流れ出した。散々情けないところを見られたというのに、この上枯れ尾花にも怯える臆病者だと思われるのはさすがに無念で、滑り落ちる眼鏡をひっきりなしに押し上げて気を紛らわせながら、
「そ、そんな曰くつきの山と、み、澪子さんが、どう関係するんだ……?」
冬月はますます凄絶な嗤いを見せて方眉を上げ、
「真名神山は天華宗の本山なんだよ。天華宗はその山犬の霊を真名神権現と呼び、本尊として祀っている。それで真名神修験の名でも知られる天華宗は陰で『犬神教』とも言われ、口さがない連中は次期宗主である天花寺澪子を『お犬御前』なんていう浅薄な渾名で言い表して貶めた気になっているのさ。だが実際、彼女のあのストレートな物言いでは蒙昧な連中でなくともそう呼び表したくなるのは無理もないよ」
冬月は卓に乗り出していた體を引いて再び猪口を取り上げると、クイと一息に煽り、
「おまけに怪しげな山犬の神の信者たちが修行だか何だかでしょっちゅう出入りしているそうだが、それが男女混合の一団と来ているものだから、あまりにいかがわしいと関係者以外はますます近寄らない。そもそも天華宗は修験道の流れを汲みながら女性信者の峰入りを積極的に受け入れているという点で一部の筋の不興を買い、当局の厳重な監視対象にもなっているとの噂が絶えない。まして次期宗主が女だというので何処ぞの低俗な三流雑誌か何かが『信仰の貞操を問う』だのという見出しで記事にして、一部の有識者や宗教関係者を巻き込む争論となって世間を賑わせた事もあるしね。くだらない論争の火種を蒔いて喜んでいる雑誌も低級だがそれに踊らされる世間も同程度には莫迦莫迦しいと呆れるしかないよ。しかしあんな記事が出なくとも、敢えて燃え盛る火の中に飛び込む虫でもあるまいし、あの山及び天花寺澪子に近づく奴なんて余程の物好きぐらいだよ」
フン、と鼻を鳴らして嗤い、冬月は空になった杯にまた酒を注いだ。
「銚子が全部空いた。いつもなら飲み切る前に新しいのを持って来させるのに、志乃さんめ、あのヤブ医者にまんまと言いくるめられたな」
冬月は億劫そうに立ち上がると、襖を開け、よく通る聲を階下に向かって掛けた。
「酒がないよ。僕に渇き死にさせる気かい」
するとややあって、下のほうから、困ったような微笑含みに志乃さんが返事をするのが聞こえた。
「まぁ坊ちゃん、そうは仰いますけどね……」
「いいから持って来てくれ。こんな量じゃとても僕の腹の虫は納得しないよ」
「蘇芳坊っちゃん、そんなご冗談は……」
それまでの明朗さが消え、低く押し殺す調子で言おうとした志乃さんを圧するように、冬月は襖の縁に手を掛けて階段の下を覗き込むと、
「説教なら屋敷で聞くよ。それより、此処には僕と固い絆で結ばれた親友が居るんだ。少しぐらい目こぼししたって誰も文句は言わないよ」
皮肉な嗤い混じりの言葉を聞き終えた志乃さんが、僅かな間の後、静かな溜息を吐いた。それを了解と取って頷いた冬月は、
「じゃ、頼んだよ。僕だけじゃなく小鳥遊にもまだ酒が充分じゃないようだからね」
更に念を押す具合で言い置いて襖を閉めた。
「その昔、京の都で神とも化け物とも恐れられた巨大な山犬が都落ちして棲み移ったという伝承があるんだよ。今でもその霊が出て、目撃した者はおろか、その話をしただけでも悉く祟られると専らの評判でね。住民には遠く離れた希臘の迷宮に幽閉されていた怪物ミノタウロスの神話なんかより、よほど信憑性があって恐ろしいらしいよ」
元来、怪談物が苦手な僕の背中には、厭な汗が流れ出した。散々情けないところを見られたというのに、この上枯れ尾花にも怯える臆病者だと思われるのはさすがに無念で、滑り落ちる眼鏡をひっきりなしに押し上げて気を紛らわせながら、
「そ、そんな曰くつきの山と、み、澪子さんが、どう関係するんだ……?」
冬月はますます凄絶な嗤いを見せて方眉を上げ、
「真名神山は天華宗の本山なんだよ。天華宗はその山犬の霊を真名神権現と呼び、本尊として祀っている。それで真名神修験の名でも知られる天華宗は陰で『犬神教』とも言われ、口さがない連中は次期宗主である天花寺澪子を『お犬御前』なんていう浅薄な渾名で言い表して貶めた気になっているのさ。だが実際、彼女のあのストレートな物言いでは蒙昧な連中でなくともそう呼び表したくなるのは無理もないよ」
冬月は卓に乗り出していた體を引いて再び猪口を取り上げると、クイと一息に煽り、
「おまけに怪しげな山犬の神の信者たちが修行だか何だかでしょっちゅう出入りしているそうだが、それが男女混合の一団と来ているものだから、あまりにいかがわしいと関係者以外はますます近寄らない。そもそも天華宗は修験道の流れを汲みながら女性信者の峰入りを積極的に受け入れているという点で一部の筋の不興を買い、当局の厳重な監視対象にもなっているとの噂が絶えない。まして次期宗主が女だというので何処ぞの低俗な三流雑誌か何かが『信仰の貞操を問う』だのという見出しで記事にして、一部の有識者や宗教関係者を巻き込む争論となって世間を賑わせた事もあるしね。くだらない論争の火種を蒔いて喜んでいる雑誌も低級だがそれに踊らされる世間も同程度には莫迦莫迦しいと呆れるしかないよ。しかしあんな記事が出なくとも、敢えて燃え盛る火の中に飛び込む虫でもあるまいし、あの山及び天花寺澪子に近づく奴なんて余程の物好きぐらいだよ」
フン、と鼻を鳴らして嗤い、冬月は空になった杯にまた酒を注いだ。
「銚子が全部空いた。いつもなら飲み切る前に新しいのを持って来させるのに、志乃さんめ、あのヤブ医者にまんまと言いくるめられたな」
冬月は億劫そうに立ち上がると、襖を開け、よく通る聲を階下に向かって掛けた。
「酒がないよ。僕に渇き死にさせる気かい」
するとややあって、下のほうから、困ったような微笑含みに志乃さんが返事をするのが聞こえた。
「まぁ坊ちゃん、そうは仰いますけどね……」
「いいから持って来てくれ。こんな量じゃとても僕の腹の虫は納得しないよ」
「蘇芳坊っちゃん、そんなご冗談は……」
それまでの明朗さが消え、低く押し殺す調子で言おうとした志乃さんを圧するように、冬月は襖の縁に手を掛けて階段の下を覗き込むと、
「説教なら屋敷で聞くよ。それより、此処には僕と固い絆で結ばれた親友が居るんだ。少しぐらい目こぼししたって誰も文句は言わないよ」
皮肉な嗤い混じりの言葉を聞き終えた志乃さんが、僅かな間の後、静かな溜息を吐いた。それを了解と取って頷いた冬月は、
「じゃ、頼んだよ。僕だけじゃなく小鳥遊にもまだ酒が充分じゃないようだからね」
更に念を押す具合で言い置いて襖を閉めた。
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