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其の十八 毒舌王子の隠れ家(16)

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 ハッと我に返って顔を上げると、もともと度の合っていない眼鏡のレンズとにじみかけた泪のせいで、冬月の輪郭りんかくはユラユラと立ち昇る陽炎かげろうのように揺らめいて見えた。
「あんなが引っ付いているんじゃ、天花寺澪子てんげいじみおこに近づこうと考える男はまず居ないだろうね。それでなくとも彼女は婚期をのがし兼ねないのに、この分だと決定事項になるのは間違いないよ」
 再び卓に頬杖をついて指の間に挟んだ猪口をもてあそび始めた冬月に気付かれないよう、素早く泪の痕跡こんせきぬぐい取ると、殊更ことさらに元気を強調すべく、わざと大きな聲を出して言った。
「婚期を逃し兼ねないって、何か問題があるのか? ひょっとして、天花寺てんげいじ家の生業なりわいか? あっ、そ、そういえば、た、確か、君はさっき、澪子さんが次期宗主だというような事を言わなかったか……?」
 先ほどは会話の最中にもかかわらず、またしてもになった後ろめたさや、我に返ってふと見た冬月の双眸そうぼう耀かがやきなどに気を取られ、つい聞き逃してしまったが、あの猛禽もうきんの目の黒葛瑛資つづらえいすけは、の運転手兼護衛だと説明された筈だった。
「あぁ、言ったよ」
 さらりとうなずき弄んでいた猪口を口元に持っていった冬月のほうに、思わず前のめりになりながら、
「す、凄い事だな、それは……。た、確かに、近頃は女性が代表を務める宗教の一団などがあちこちにおこっているとは聞くが……。し、しかし、もしかしてそれが問題になっていると言うのか……?」
 冬月はまた猪口をくるくると回して遊ばせながら、
「政府が宗教問題について慎重な姿勢を打ち出している昨今の実情を見ればそれも理由の一つではある。けど、何より厄介な原因は彼女自身の信念だよ」
「信念? それじゃ、立場というよりは、信仰それ自身に何かあるのか?」
「そうだな、ある意味あれはと言っていい。まるでだよ」
「……?」
 真意をくみ取れず、眼鏡の奥で目をしばたかせていると、冬月は頬杖をした腕にもたれ掛かるようにしながら、
「彼女のげんを借りれば、僕と彼女は
「……え……!?」
「だからどう転んでも僕たちは結婚する事になると言い張って譲らないんだよ。思い込みもそこまで行くとだよ」
 冬月は皮肉にわらって猪口を置いたが、その様子には、普段の傲岸不遜ごうがんふそんからは遠く離れた気怠けだるさが充満していた。
 僕はにわかにドキドキと脈打つ鼓動を聞きながら、熱を帯び始めた頬を隠しがてら指先で眼鏡を押し上げ、
「う、運命の赤い糸って……、み、み、澪子さんが、そう言ったのか……」
「そうだよ。先日の見合いの席上、まぎれもなく彼女の口から飛び出した言葉だ。証人はその場に居合わせた全員だね」
「そ、それはその……。ほ、本当に、じ……情熱的というか、げ……現代的な、女性だな……」
 冬月への好意をはっきりと表現してはばからない帝都ホテルでの澪子さんの言動を思い出し、しきりに眼鏡を押し上げていると、呆れたような鼻息と共に、
「あけすけに言い過ぎなんだよ。あれじゃ迂愚うぐの世間に『お犬御前ごぜん』なんて陰口を叩かれても反論の仕様がない」
「お、お犬御前?」
 気品に満ちた澪子さんにはおよそ似つかわしくない蔑称べっしょうを耳にした思いでたずね返すと、冬月は皮肉っぽい嗤いのにじむ琥珀色の瞳を意味ありげにまたたかせ、
「君、真名神山まながみさんって知っているかい」
「まながみ……?」
「奥多摩山系の一つで北部に位置する山だ。ま、君が知らなくても当然だよ。規模としては小さい山だし、観光登山向きじゃないからえ抜きの帝都民でも知らないという人間は少なくないんだ」
「は、はぁ……」
「あの山域の中ではかなり急峻きゅうしゅんでね。それに山中はクレタ島の伝説上の建造物、迷宮ラビュリントスさながらに複雑に入り組んで、慣れない者は容易たやすく方向感覚を失ってしまうんだよ」
「ら、らび……?」
 横文字はよく聞き取れなかったが、話の雲行きのあやしさだけは敏感に感じ取れた。何か恐ろしい話が始まる予感に、早くも心臓がバクバクと音を立て始める。
「一度入ると抜け出せないとされる迷宮の事だよ。その上いわくつきと来ているから地元住民ですら滅多めったに近寄らない。それどころかまるでみ言葉か何かのように山の名を口にするのも避けようとするんだ」
「い、曰く……つき……?」
 ゴクリと喉を鳴らして凝視ぎょうしする先で、端麗たんれいな顔が凄みのある嗤いで歪んだ。
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