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其の十八 毒舌王子の隠れ家(15)
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と、僅かに酒の残った猪口の上に、徳利が翳された。
「あっ、僕はもう……」
慌てて注ぎ口に手を出すと、冷笑に歪められた唇が意地悪に動いた。
「この僕に紳士の嗜みを豪語したとあっては、君としても勧められる酒は飲み干さずには終われない筈だよ」
やはり気を悪くしたのかと不安になったが、目顔で「手をどけろ」と指図する様子には、怒っているというよりは、皮肉的な愉快の気配が潜んでいた。
「そ、それとこれとは……」
別だと言おうとしたが、これ以上余計な口を滑らせて本当に気分を害してしまう事だは避けたかった。僕は覚悟を決めると言い掛けた言葉の先を飲んで猪口を取り上げた。けれど、僕に酒を注ぎ終えた冬月が自分の杯にも徳利を傾けるのを目にすると、つい口を出してしまった。
「もう止したほうがいいんじゃないのか? 医者に止められているんだろ? さっきから見ているが、飲む速度が一向に落ちないどころか上がっているように思うが……」
「子犬の肝臓の君と違って僕の場合この程度の酒は飲んだうちに入らない」
「……っ」
墓穴を掘った気分で唇を噛み、俯いて猪口に口をつけた。
疾うに酒量の限界を超えている僕の胃の腑に落ちた酒が、脳髄にまで広がっていく。上等な酒は悪酔いしないと聞くが、確実に二日酔いを起こしそうだ。
明日、ちゃんと起きられるだろうか──と一瞬不安がかすめた頭の中に、冷ややかに僕を見る研究員たちの顔が浮かんだ。
……いや、僕が居ようが居まいが、気にする人など居やしないか……。
雑用すら満足に熟せないとあからさまな陰口を叩く研究員たちの軽蔑的な視線が、凍傷のような痛みで心臓を疼かせた。
とりわけ、御子柴先生の高弟として大学内外に一目置かれる河原崎主任の氷の礫を思わす目には、痛みを越えて恐ろしさが頭をもたげ、逃げるように澄んだ酒の表面に視線を落とすと、今度は御子柴先生の温かな笑顔が、ぼんやりと浮き上がって見えた。だが束の間訪れた安堵も、昏く物憂い不安がすぐに覆い隠し、却って心臓を痛めつけた。
……先生は、今の僕の働きぶりを、どう思っているんだろう……。
知らず顫えた指先の振動が伝わり、酒の水面が微かに波打って、御子柴先生の笑顔は杯の底に沈んでしまった。
考えてみれば、郷里での送別会以降、先生とゆっくり話す機会もないまま今に至っている。無論、大日本帝国大学の教授である御子柴先生が、忙しい日々の業務の合間を縫って僕の為に時間を割いてくれるなどという自惚れをしている訳ではなかったが、来る日も来る日もただ片付け事や買い出しなどの用事に追われるだけの現在の有様を考えてみると、果たして自分が本当に先生の役に立てているのか、わからなくなる。
確かに、碌な知識も経験もないまま御子柴先生だけを頼りに研究室にやって来た僕に、先生の研究内容が理解できる──ましてやその一助となる働きが出来るなどとは、最初から考えていなかった。けれど、先生の研究について、何か説明を受けるものとばかり思い込んでいた僕にとって、実際に働き始めてどれだけ日にちが経っても、一向説明らしい説明がない事態に、当初はどうしたって焦燥を感じてしまった。焦る気持ちの裏には、ひょっとするとこんな自分にも社会に貢献し得る何かがあるのではないかと言う思い上がりにも似た甘い期待があったからだ。だがいくら待っても雑務以外の仕事を仰せつかる事が無いという事態に直面し、焦りは軈て困惑へと変わり、その戸惑いは不安になった。そして終いには、自分の無能ぶりへの失望という落胆に終着した。
……だって、もしも僕が優秀ならば、一も二もなく先生の研究に引き入れられた筈だものな……。
心の中でポツリと呟いた途端、酔いによって感情の抑制の手綱が緩んでいた胸部に、自嘲と感傷の気分が、濛濛と立ち込めた。危うく泪が目蓋の縁に盛り上がりそうになった時、
「──操り人形は兎も角」
軽い咳払いと共に冬月の聲が座敷に響いた。
「あっ、僕はもう……」
慌てて注ぎ口に手を出すと、冷笑に歪められた唇が意地悪に動いた。
「この僕に紳士の嗜みを豪語したとあっては、君としても勧められる酒は飲み干さずには終われない筈だよ」
やはり気を悪くしたのかと不安になったが、目顔で「手をどけろ」と指図する様子には、怒っているというよりは、皮肉的な愉快の気配が潜んでいた。
「そ、それとこれとは……」
別だと言おうとしたが、これ以上余計な口を滑らせて本当に気分を害してしまう事だは避けたかった。僕は覚悟を決めると言い掛けた言葉の先を飲んで猪口を取り上げた。けれど、僕に酒を注ぎ終えた冬月が自分の杯にも徳利を傾けるのを目にすると、つい口を出してしまった。
「もう止したほうがいいんじゃないのか? 医者に止められているんだろ? さっきから見ているが、飲む速度が一向に落ちないどころか上がっているように思うが……」
「子犬の肝臓の君と違って僕の場合この程度の酒は飲んだうちに入らない」
「……っ」
墓穴を掘った気分で唇を噛み、俯いて猪口に口をつけた。
疾うに酒量の限界を超えている僕の胃の腑に落ちた酒が、脳髄にまで広がっていく。上等な酒は悪酔いしないと聞くが、確実に二日酔いを起こしそうだ。
明日、ちゃんと起きられるだろうか──と一瞬不安がかすめた頭の中に、冷ややかに僕を見る研究員たちの顔が浮かんだ。
……いや、僕が居ようが居まいが、気にする人など居やしないか……。
雑用すら満足に熟せないとあからさまな陰口を叩く研究員たちの軽蔑的な視線が、凍傷のような痛みで心臓を疼かせた。
とりわけ、御子柴先生の高弟として大学内外に一目置かれる河原崎主任の氷の礫を思わす目には、痛みを越えて恐ろしさが頭をもたげ、逃げるように澄んだ酒の表面に視線を落とすと、今度は御子柴先生の温かな笑顔が、ぼんやりと浮き上がって見えた。だが束の間訪れた安堵も、昏く物憂い不安がすぐに覆い隠し、却って心臓を痛めつけた。
……先生は、今の僕の働きぶりを、どう思っているんだろう……。
知らず顫えた指先の振動が伝わり、酒の水面が微かに波打って、御子柴先生の笑顔は杯の底に沈んでしまった。
考えてみれば、郷里での送別会以降、先生とゆっくり話す機会もないまま今に至っている。無論、大日本帝国大学の教授である御子柴先生が、忙しい日々の業務の合間を縫って僕の為に時間を割いてくれるなどという自惚れをしている訳ではなかったが、来る日も来る日もただ片付け事や買い出しなどの用事に追われるだけの現在の有様を考えてみると、果たして自分が本当に先生の役に立てているのか、わからなくなる。
確かに、碌な知識も経験もないまま御子柴先生だけを頼りに研究室にやって来た僕に、先生の研究内容が理解できる──ましてやその一助となる働きが出来るなどとは、最初から考えていなかった。けれど、先生の研究について、何か説明を受けるものとばかり思い込んでいた僕にとって、実際に働き始めてどれだけ日にちが経っても、一向説明らしい説明がない事態に、当初はどうしたって焦燥を感じてしまった。焦る気持ちの裏には、ひょっとするとこんな自分にも社会に貢献し得る何かがあるのではないかと言う思い上がりにも似た甘い期待があったからだ。だがいくら待っても雑務以外の仕事を仰せつかる事が無いという事態に直面し、焦りは軈て困惑へと変わり、その戸惑いは不安になった。そして終いには、自分の無能ぶりへの失望という落胆に終着した。
……だって、もしも僕が優秀ならば、一も二もなく先生の研究に引き入れられた筈だものな……。
心の中でポツリと呟いた途端、酔いによって感情の抑制の手綱が緩んでいた胸部に、自嘲と感傷の気分が、濛濛と立ち込めた。危うく泪が目蓋の縁に盛り上がりそうになった時、
「──操り人形は兎も角」
軽い咳払いと共に冬月の聲が座敷に響いた。
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