穢れなき禽獣は魔都に憩う

Arakane

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其の十八 毒舌王子の隠れ家(8)

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 なか畏怖いふして感心するような溜息をつき、僕は猪口の中身を飲み干した。間を置かず徳利を差し出され、慌てて酒を受けながら、
「でも、いろいろな生き物って、たとえばどんな──」
 言い掛ける途中、しゃっくりが出た。その拍子にからだが揺れて眼鏡がずれた。苦笑する冬月の視線を避けるように眼鏡の位置を直し、
「──どういう生き物を飼っているんだ?」
 冬月は苦笑の顔を崩さないまま、
「だからさ。君は意外に質問が多いな。そう好奇心が旺盛おうせいなタイプとは思わなかった」
「あ……。す……すまない……。さ……酒を過ごしたせいで、つい……」
 言って下を向き、並々と張った猪口の酒をすすった。酒のせいにしてのがれたが、実際、いつになく僕の口は軽かった。
 思い返してみると、この店に入った辺りから、いつも胸の真ん中につっかえている重くて硬い石のようなかたまりが、すうっと消えていったような感じがしていた。志乃さんのあたたかくほがらかな笑みや旨い食事に、日ごろの緊張や懊悩おうのう憂鬱ゆううつが溶かされたというのも事実ではあったが、正直なところを言えば、僕はひどく浮き立った気持ちになっていた。それは最初にこの座敷に足を踏み入れ、立派な卓の上に用意された食事が、きっちり二人分だったのを認めた瞬間から始まっていた。
 大学の研究室で初めて会って以降、僕は何というか、唐突とうとつに目の前に現れたこの冬月蘇芳というまばゆいばかりの青年に、それまでのどころなく宙を彷徨さまよ石鹸シャボンの泡のような日常をはじけ壊されたような感じがしていた。同時にその事を何処どこか恐れるような、逃げ出してしまいたいような、そのくせ強烈にきつけられるような、何とも言えない複雑な気持ちでいたのだ。
 それが此処ここに来て、何の接点もない僕と冬月の間に突然、しかし確かな手触りをって何かが形作られていくような感覚を覚え、まるで夢でも見ているような気分になっていた。冬月と過ごしているこの現実が、一度弾けた石鹸シャボンの泡がまたふわふわと舞い上がっていくようなを生み、いやうえにも喜びを沸き立たせているのだった。
 それに、僕の食べ残した料理にもこだわる事なく箸をつける冬月の言動や、僕の問い掛ける私的な質問に答える何気ない調子の端々には、どうしたって好意的なものを見出みいだしてしまい、それが僕の感情を名状めいじょうしがたいで浮つかせていた。普段の僕からは考えられない浮薄ふはくようになったとしても、仕方がない状況だった。
 しかし酔いも手伝っているとは言え、確かにあれこれと質問攻めにしてしまったのは行き過ぎていた。急に僭越せんえつあやまりを犯した気分になり、うつむいて酒を舐めていると、
「けどまぁ、うちの生き物の中では僕は特に犬をこのむかな。だから犬の散歩やしつけは人任せにせず、わりに自分でするんだよ」
「へ……へぇ、そうなのか……」
「君は? 何か生き物を飼った経験はあるかい」
「いや、特にそういう経験はないな……。田舎に居た頃に世話になった家の何軒かは農作業用の牛が居たが、あまりに幼い時分だったからあまりよくおぼえていないんだ……」
 話しながら、ふと黒っぽい雲の影が、胸の底のほうに冷たく伸びる気配がし、何か甘酸っぱいような香りが漂うのを感じた。だが間髪を入れず口を開いた冬月の聲が、胸に押し広がろうとしていた雲の影と香りを消散しょうさんさせた。
「牛か。うちのは農作業に従事する種類の牛ではなく闘牛にいそしむ種類のが居る」
「闘牛? 凄いものを飼っているんだな」
「まぁ趣味と実益を兼ねた道楽みたいなものだよ」
「道楽……」
 吃驚きっきょうすると共に、感嘆かんたんと恐れのぜになった呟きが出た。冬月家の財の莫大ばくだいさについては最早もはや疑いの余地よちがない。
「まぁそういう訳で、筒鳥みたいに生き物の扱いにけた人間の手はいくらでも必要なんだよ。残念ながら今はうちに常駐していないがそれでも時々現在いまの別当頭の手伝いをしに屋敷に来てもらうんだよ」
「それで筒鳥さんにも躊躇ちゅうちょなくステッキを渡したのか……」
 納得して猪口に唇をつけてから、ずっと気になっていた質問を口に出した。
「その、志乃さんと筒鳥さんは、その……夫婦なのか……?」
 冬月はニヤッと唇の端を上げ、
「男女の事情にうとそうなのにくね」
「えっ!? だ……大胆って、なんでそんな……っ。だ、だって君のところで働いていた二人が同じ店に居るとなれば夫婦なのかと思うのは当然じゃないか……っ」
「酒で赤くなった顔がますます紅潮こうちょうした。それじゃまるでだよ」
「あか……!?」
「君は実に揶揄からか甲斐がいのある奴だな」
「からか……っ!?」
「冗談だよ。これ以上何か言ったらのぼせ切って倒れそうだからしてやるよ」
 冬月は目を白黒させる僕をニヤニヤと嗤い、最後の皿に取り掛かった。
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