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其の十八 毒舌王子の隠れ家(6)
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「……その……、ぼ、僕は君の事をよく知らないから、そ……そんな事が褒める言葉になるなんて、その、わからなかったんだよ……」
「よく知らないなら、それこそ褒めて然るべきじゃないのかい」
「え……っ」
追い詰めた鼠を残酷に弄ぶ猫のようにニヤニヤと目を細めて問い掛け、冬月がぐっと身を前に押し出した。卓の上を掠める冬月の肩から垂れ下がる赤褐色の髪の毛先が毒蛇の舌先のように見え、僕は手に握りしめていた猪口を置いた。
「き、気を悪くしたなら謝る……。で、でも僕にはどういう事かさっぱりわからない……。君が普通に箸を使って、それがどうして褒める事になるのか……。その……もしかして、上流の世界ではそれが礼法なのかも知れないが、僕にはそういうところの事はわからないから、その……」
俯いてボソボソと弁解じみた言葉を繰っていると、
「そんな放言が礼法の訳ないだろ」
「──えっ?」
反射的に顔を上げると、意地悪い嗤いに頬を歪めた冬月と目が合った。
「僕のこの髪や目の色だけで僕が箸を使えないだろうと決め込んだ上、臆面もなくそれを口にするなんて、愚かだとか失敬だとか言う次元の話じゃない。それはもう、僕に対しては勿論、冬月家全體への侮辱以外の何物でもないよ。だが大抵の連中と来たらまるで御機嫌伺いの世辞でもしたつもりになって得意顔をして憚らない。呆れて物も言えないよ。君がそんな恥知らずどもと同じ穴の貉でないとわかって安心したよ」
にぃっと唇を吊り上げた冬月に、全身からどっと力が抜けた。
「──……そ……そうか……。……それは……良かった……」
急激な緊張と弛緩に嬲られ、冷や汗に醒めかけていた酔いが勢いを盛り返し、途端に眩暈がし始めた。ずれた眼鏡の位置を直すついでに額に手を当てていると、ニヤニヤした嗤いを保持したままの冬月が、
「ところで、君はもうそれ以上は腹に入らないようだね。代わりに僕が食べてしまっても構わないかい」
「え……っ!?」
驚きのあまり聲が裏返った。
「……い、いや、その、も……勿體ないとは思っていたんだが……その……、……いや、でも、僕の食べた残りなんて……」
すっかり狼狽え、オロオロと眼鏡を上げたり下げたりしている僕の前に腕を伸ばしてコロッケの皿を取りながら、
「固い絆で結ばれた親友じゃないか。何も気兼ねする事はないさ。それに僕は頗る空腹だ。放っておいたら君まで食べてしまいそうだからね」
冬月は陸に上がった魚のように口をパクパクさせて身を顫わせる僕に向かってニヤッと片眉を掲げて見せると、皿に二つ残したコロッケの片方を箸で摘まみ上げ、ひょいと口に放り込んだ。
「あ、あの……冬月……、そ、そのソースだが……、その……僕……」
「旨かっただろ。気に入ったかい?」
「う、うん……。いや、その、そうじゃなくてその……」
執着して何度も箸の先で舐っていた事を告げるべきかどうか迷ってオロオロしていると、冬月は件のソースを丹念に掬い取るようにしてもう一つのコロッケに纏わせながら、
「志乃さんの得意は昔ながらの家庭の味という奴だが洋食もまた絶品でね。近頃では特に腕を上げて本格的な西洋料理のコースなんかも出すんだよ」
「へ、へぇ……それは凄いな……。あ、あの冬月、そんなにソースをつけないほうが……」
言い切らぬ間に、冬月はたっぷりとソースの絡まったコロッケを一口に頬張ってしまった。
「……あ……っ」
硬直し、青くなって凝視していると、冬月は噛み終えたコロッケをゴクンと飲み込んで、
「なるほど、これが友情の味か。何とも香り高いものだね」
意地悪な嗤いに片眉を掲げて僕を見た。
「……!!」
いじましく何度も箸をつけなければ良かったと、泣きたいような気持ちになって俯いていると、
「君は潔癖な性格のようだが食事に関しても他人の箸が触れたものを喰えないタイプか」
「え……っ、い、いや、そんな事はないが……」
「ならそんなに気にする必要はないだろ」
「い、いや、僕が気にしているのは君の事だよ……。その……、僕のような者が食べた後のものを口にするなんて、さぞ後味が悪いんじゃないかと……」
冬月はまた一皿僕の前から取って無言で食べていたが、
「謙虚というより卑屈だな。君が劣等感を強く抱えているのはわかっていたが、そう後方に下がられるとまるで暴虐なごろつき集団の頭領にでもなった気分だ」
「そ、そんなつもりでは……」
慌てて否定しようと顔を上げた。だが目に映った冬月の表情には別段気を悪くしているらしい様子は見当たらず、ただじっと僕を見る琥珀色の瞳が、障子窓の向こうから射す日の光を反射して、何とも言えない煌めきを放っているばかりだった。
「よく知らないなら、それこそ褒めて然るべきじゃないのかい」
「え……っ」
追い詰めた鼠を残酷に弄ぶ猫のようにニヤニヤと目を細めて問い掛け、冬月がぐっと身を前に押し出した。卓の上を掠める冬月の肩から垂れ下がる赤褐色の髪の毛先が毒蛇の舌先のように見え、僕は手に握りしめていた猪口を置いた。
「き、気を悪くしたなら謝る……。で、でも僕にはどういう事かさっぱりわからない……。君が普通に箸を使って、それがどうして褒める事になるのか……。その……もしかして、上流の世界ではそれが礼法なのかも知れないが、僕にはそういうところの事はわからないから、その……」
俯いてボソボソと弁解じみた言葉を繰っていると、
「そんな放言が礼法の訳ないだろ」
「──えっ?」
反射的に顔を上げると、意地悪い嗤いに頬を歪めた冬月と目が合った。
「僕のこの髪や目の色だけで僕が箸を使えないだろうと決め込んだ上、臆面もなくそれを口にするなんて、愚かだとか失敬だとか言う次元の話じゃない。それはもう、僕に対しては勿論、冬月家全體への侮辱以外の何物でもないよ。だが大抵の連中と来たらまるで御機嫌伺いの世辞でもしたつもりになって得意顔をして憚らない。呆れて物も言えないよ。君がそんな恥知らずどもと同じ穴の貉でないとわかって安心したよ」
にぃっと唇を吊り上げた冬月に、全身からどっと力が抜けた。
「──……そ……そうか……。……それは……良かった……」
急激な緊張と弛緩に嬲られ、冷や汗に醒めかけていた酔いが勢いを盛り返し、途端に眩暈がし始めた。ずれた眼鏡の位置を直すついでに額に手を当てていると、ニヤニヤした嗤いを保持したままの冬月が、
「ところで、君はもうそれ以上は腹に入らないようだね。代わりに僕が食べてしまっても構わないかい」
「え……っ!?」
驚きのあまり聲が裏返った。
「……い、いや、その、も……勿體ないとは思っていたんだが……その……、……いや、でも、僕の食べた残りなんて……」
すっかり狼狽え、オロオロと眼鏡を上げたり下げたりしている僕の前に腕を伸ばしてコロッケの皿を取りながら、
「固い絆で結ばれた親友じゃないか。何も気兼ねする事はないさ。それに僕は頗る空腹だ。放っておいたら君まで食べてしまいそうだからね」
冬月は陸に上がった魚のように口をパクパクさせて身を顫わせる僕に向かってニヤッと片眉を掲げて見せると、皿に二つ残したコロッケの片方を箸で摘まみ上げ、ひょいと口に放り込んだ。
「あ、あの……冬月……、そ、そのソースだが……、その……僕……」
「旨かっただろ。気に入ったかい?」
「う、うん……。いや、その、そうじゃなくてその……」
執着して何度も箸の先で舐っていた事を告げるべきかどうか迷ってオロオロしていると、冬月は件のソースを丹念に掬い取るようにしてもう一つのコロッケに纏わせながら、
「志乃さんの得意は昔ながらの家庭の味という奴だが洋食もまた絶品でね。近頃では特に腕を上げて本格的な西洋料理のコースなんかも出すんだよ」
「へ、へぇ……それは凄いな……。あ、あの冬月、そんなにソースをつけないほうが……」
言い切らぬ間に、冬月はたっぷりとソースの絡まったコロッケを一口に頬張ってしまった。
「……あ……っ」
硬直し、青くなって凝視していると、冬月は噛み終えたコロッケをゴクンと飲み込んで、
「なるほど、これが友情の味か。何とも香り高いものだね」
意地悪な嗤いに片眉を掲げて僕を見た。
「……!!」
いじましく何度も箸をつけなければ良かったと、泣きたいような気持ちになって俯いていると、
「君は潔癖な性格のようだが食事に関しても他人の箸が触れたものを喰えないタイプか」
「え……っ、い、いや、そんな事はないが……」
「ならそんなに気にする必要はないだろ」
「い、いや、僕が気にしているのは君の事だよ……。その……、僕のような者が食べた後のものを口にするなんて、さぞ後味が悪いんじゃないかと……」
冬月はまた一皿僕の前から取って無言で食べていたが、
「謙虚というより卑屈だな。君が劣等感を強く抱えているのはわかっていたが、そう後方に下がられるとまるで暴虐なごろつき集団の頭領にでもなった気分だ」
「そ、そんなつもりでは……」
慌てて否定しようと顔を上げた。だが目に映った冬月の表情には別段気を悪くしているらしい様子は見当たらず、ただじっと僕を見る琥珀色の瞳が、障子窓の向こうから射す日の光を反射して、何とも言えない煌めきを放っているばかりだった。
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