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其の十八 毒舌王子の隠れ家(3)
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慌てて冬月を追い掛け、急な階段をそろそろと上がり切ると、薄暗い廊下の左右には何枚かの襖が並んでいた。一番手前の襖を開けて入って行った冬月に続き、小ぢんまりした座敷の中に進んだ僕は、中央に置かれたぴかぴかに磨かれた大きな座卓の上に、ところ狭しとばかりに豪勢な料理が載せられているのに目を瞠った。
既に準備万端整えられている食卓に驚き、今朝から行動を共にしていた冬月がいったい何時連絡を入れたのだろうと不思議に思い掛けたが、座卓の手前と奥に置かれた二人分の箸と取り皿が目に入ると、ハッとして唇を閉じ合わせた。
……ひょっとして、冬月は最初から昼食を奢ってくれるつもりで志乃さんに用意を頼んでいたんじゃ……。
思った途端、まるでシュワシュワと浮き立つラムネのような面映ゆさが胸を過った。
……ま……まさか、な……。そんなわけ……。
即座に打ち消しつつも、足元から泡立つように湧き上がって来るこそばゆい感覚を持て余し、眼鏡の鼻当てを押さえ、座敷の入口に突っ立ってもぞもぞと身を動かしていると、座卓の向こう側に回った冬月が、三つ揃いの上着を脱ぎながら座布団に胡坐を掻いて座り、
「何をそんなところで立ち往生しているんだ。新婚旅行に来た新妻だってもう少し堂々としているぞ」
「──はっ!? にい……!?」
ぎょっと目を見開いた僕に顎をしゃくって向かいの座布団を示しながら、冬月は忙しなく急き立てるように言った。
「早く座り給え。それでなくともさっきから空腹で腹の虫が騒いでいるんだ。一刻も早く何か口に入れなければ身がもちそうにないんだよ」
「え、あ、ああ……」
上等な上着を無造作に傍らの畳の上に投げ出す冬月をチラチラと見ながら、おずおずと座卓に近づいたが、見た事もない料理の数々に改めて圧倒された。如何にも殿様が座るような座布団にも気圧され、おろおろと立ち尽くしていると、
「ほら、早く」
苛立ったように促され、ぎくしゃくと座布団に腰を下ろした。
冬月は待ち兼ねていたかの如く箸を取り上げ、早速目の前の皿に手を付けた。魚のすり身を団子にして餡掛けにしたような料理を直に口に放り込むと一旦箸を置き、咀嚼しながら手前に置かれた徳利を慌ただしく持ち上げ、自分の猪口に注いだ。
「ほら、君も」
徳利を僕の方に差し向けつつ、もう片方の左手で猪口をくいと煽って飲み干し、
「まさか下戸という訳でもないだろ?」
「え……、そ、それはその……」
僕の返事を待つ間にもう一度自分の杯を満たして飲み干す冬月の飲みっぷりの良さに、知らず畏れるような気持ちが沸き起こり、
「……の……飲めない事はない、が……」
しどろもどろに答えたが、実際のところ酒はあまり得意ではない。まるで如何にも左利きの様子で酒杯を空ける冬月に比すれば、僅かな酒ですぐに顔を真っ赤にしてしまう僕など下戸だと言ってもよいぐらいだ。
郷里に居た時分にも、寄合や仕事の付き合いでどうしても酒の席に顔を出さなければならない場面が度度あった。しかし鼻をつくような酒精の味にすぐに頭痛を引き起こして気分を悪くし、早々に引き上げるのが常だった。そういう僕に、田舎の弊なのか男の性なのか、酒量が男の甲斐性に直結すると言わんばかりに酒を飲み干す近隣住民や同僚の男たちは、「酒も飲めない根性なし」とあからさまな陰口を叩き、時には面罵される事すらあった。
冬月に自分の酒の弱さが露呈してしまうのにはどうにも抵抗があった。見栄を張る意味からではなく、僕と同じ歳でありながら、何もかもが正反対の冬月に、これ以上不甲斐ない姿を見られるのが、堪らなく恥ずかしい気分だったのだ。何故とはわからず冬月に対してそういう感情を感じる自分にも困惑し、ますます猪口を取るのを躊躇っていると、更に荒々しく押し付けるように徳利が差し出された。
僕は徳利の先に見え隠れする透明な液體を見詰め、畳の上に蚯蚓がのたうつように字を書きながら、そろそろと口を開いた。
「……こんな明るい昼時から飲むのは気が引ける。……君だけやってくれ」
冬月は呆れたように方頬を歪めると、
「君はつくづく狷介だな。これから昼飯を奢ってやろうと言う相手の勧める酒を無下に断るなんて非礼というだけでなく無粋もいいところだ。少し口をつけて付き合おうとするぐらいの嗜みがなくてどうする。だいたい、今日の自分の失態を顧みれば、挽回の為に進んで飲み干しても罰は当たらないだろ」
「し、失態って……っ」
僕は大急ぎで口を開いた。
「そ、そんな言い方をされては割に合わない。僕は君に強引に引っ張り出されたんだぞ。それに、お……恩着せがましく奢ってやると言うが……」
「恩着せがましい? 僕はそんな物言いをした覚えはないよ。君は僕に謂れもない汚名を着せるつもりか」
「ぼ、僕はそんなつもりじゃ……っ」
躍起になって言い募ろうとした途端、苛立った鼻息に言葉の続きを抑え込まれた。
「僕は空腹だと言っただろ。いつまで僕にこの恰好を続けさせるんだ」
徳利を差し出したままの冬月に不機嫌に睨まれ、僕は不承不承に猪口を取り上げた。
既に準備万端整えられている食卓に驚き、今朝から行動を共にしていた冬月がいったい何時連絡を入れたのだろうと不思議に思い掛けたが、座卓の手前と奥に置かれた二人分の箸と取り皿が目に入ると、ハッとして唇を閉じ合わせた。
……ひょっとして、冬月は最初から昼食を奢ってくれるつもりで志乃さんに用意を頼んでいたんじゃ……。
思った途端、まるでシュワシュワと浮き立つラムネのような面映ゆさが胸を過った。
……ま……まさか、な……。そんなわけ……。
即座に打ち消しつつも、足元から泡立つように湧き上がって来るこそばゆい感覚を持て余し、眼鏡の鼻当てを押さえ、座敷の入口に突っ立ってもぞもぞと身を動かしていると、座卓の向こう側に回った冬月が、三つ揃いの上着を脱ぎながら座布団に胡坐を掻いて座り、
「何をそんなところで立ち往生しているんだ。新婚旅行に来た新妻だってもう少し堂々としているぞ」
「──はっ!? にい……!?」
ぎょっと目を見開いた僕に顎をしゃくって向かいの座布団を示しながら、冬月は忙しなく急き立てるように言った。
「早く座り給え。それでなくともさっきから空腹で腹の虫が騒いでいるんだ。一刻も早く何か口に入れなければ身がもちそうにないんだよ」
「え、あ、ああ……」
上等な上着を無造作に傍らの畳の上に投げ出す冬月をチラチラと見ながら、おずおずと座卓に近づいたが、見た事もない料理の数々に改めて圧倒された。如何にも殿様が座るような座布団にも気圧され、おろおろと立ち尽くしていると、
「ほら、早く」
苛立ったように促され、ぎくしゃくと座布団に腰を下ろした。
冬月は待ち兼ねていたかの如く箸を取り上げ、早速目の前の皿に手を付けた。魚のすり身を団子にして餡掛けにしたような料理を直に口に放り込むと一旦箸を置き、咀嚼しながら手前に置かれた徳利を慌ただしく持ち上げ、自分の猪口に注いだ。
「ほら、君も」
徳利を僕の方に差し向けつつ、もう片方の左手で猪口をくいと煽って飲み干し、
「まさか下戸という訳でもないだろ?」
「え……、そ、それはその……」
僕の返事を待つ間にもう一度自分の杯を満たして飲み干す冬月の飲みっぷりの良さに、知らず畏れるような気持ちが沸き起こり、
「……の……飲めない事はない、が……」
しどろもどろに答えたが、実際のところ酒はあまり得意ではない。まるで如何にも左利きの様子で酒杯を空ける冬月に比すれば、僅かな酒ですぐに顔を真っ赤にしてしまう僕など下戸だと言ってもよいぐらいだ。
郷里に居た時分にも、寄合や仕事の付き合いでどうしても酒の席に顔を出さなければならない場面が度度あった。しかし鼻をつくような酒精の味にすぐに頭痛を引き起こして気分を悪くし、早々に引き上げるのが常だった。そういう僕に、田舎の弊なのか男の性なのか、酒量が男の甲斐性に直結すると言わんばかりに酒を飲み干す近隣住民や同僚の男たちは、「酒も飲めない根性なし」とあからさまな陰口を叩き、時には面罵される事すらあった。
冬月に自分の酒の弱さが露呈してしまうのにはどうにも抵抗があった。見栄を張る意味からではなく、僕と同じ歳でありながら、何もかもが正反対の冬月に、これ以上不甲斐ない姿を見られるのが、堪らなく恥ずかしい気分だったのだ。何故とはわからず冬月に対してそういう感情を感じる自分にも困惑し、ますます猪口を取るのを躊躇っていると、更に荒々しく押し付けるように徳利が差し出された。
僕は徳利の先に見え隠れする透明な液體を見詰め、畳の上に蚯蚓がのたうつように字を書きながら、そろそろと口を開いた。
「……こんな明るい昼時から飲むのは気が引ける。……君だけやってくれ」
冬月は呆れたように方頬を歪めると、
「君はつくづく狷介だな。これから昼飯を奢ってやろうと言う相手の勧める酒を無下に断るなんて非礼というだけでなく無粋もいいところだ。少し口をつけて付き合おうとするぐらいの嗜みがなくてどうする。だいたい、今日の自分の失態を顧みれば、挽回の為に進んで飲み干しても罰は当たらないだろ」
「し、失態って……っ」
僕は大急ぎで口を開いた。
「そ、そんな言い方をされては割に合わない。僕は君に強引に引っ張り出されたんだぞ。それに、お……恩着せがましく奢ってやると言うが……」
「恩着せがましい? 僕はそんな物言いをした覚えはないよ。君は僕に謂れもない汚名を着せるつもりか」
「ぼ、僕はそんなつもりじゃ……っ」
躍起になって言い募ろうとした途端、苛立った鼻息に言葉の続きを抑え込まれた。
「僕は空腹だと言っただろ。いつまで僕にこの恰好を続けさせるんだ」
徳利を差し出したままの冬月に不機嫌に睨まれ、僕は不承不承に猪口を取り上げた。
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