穢れなき禽獣は魔都に憩う

クイン舎

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其の十七 初めての喧嘩(3)

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「ところで──」
 言いながら、冬月は足元に落ちた帽子を片手で拾い上げると、指先で弾くように表面を払い、赤褐色せきかっしょくの髪の上にかぶり直した。
「そろそろ昼食時だな」
「──えっ?」
 涼しい顔で車窓を通り過ぎる街並みに視線を滑らせる冬月にきょかれたような具合になり、咽喉のどから変な聲が出た。冬月は嘲笑的な失笑の息を漏らして僕を一瞥いちべつすると、
「昼飯だよ。ちょうどいい頃だ」
「え? ……あ、ああ、そうなのか……」
 あまりに急な話題の転換に、僕は今のが幻だったのかという疑いを生じさせ、ずるずると眼鏡を押し上げた。
 冬月はその僕をじっと見ながら、
の君はかすみっていれば平気なのだろうが僕はそういう訳にはいかなくてね。昼食に付き合い給え。おごってやろう」
「え……っ?」
 思いがけない申し出に、また妙な聲が飛び出した。冬月はやはり皮肉な嗤いを片頬に刻み、
「そんなせこけたからだであの研究員たちの間をうろうろしていたのではますます貧相ひんそう際立きわだって仕方ないからね」
 言った後、不意に嗤いを引っ込め、まじまじと僕の全身を見回して、
「しかし御子柴みこしば教授はそういう君の姿を毎日目にしていながら何も思わないのか」
「そ、そういうって……?」
 冬月はふん、と鼻を鳴らして左手の人差し指を僕の胸に当てると、反対側の窓際に引き下がらせようとするように指先にぐっと力を込めながら、
「だから──だよ。君が衣食に事欠いている様子を見ても知らんふりをしているとはね」
 その力の予想外の強さに驚いたが、押された勢いで窓に背中をぶつけて我に返り、慌ててずれた眼鏡の位置を戻しつつ、
「ぼ、僕は元々食欲が旺盛おうせいではないから痩せているだけで、食べる物に困っているという訳では……」 
「見栄を張っているのか、それとも御子柴教授をかばっているのか、どっちだい?」
「えっ? な、何の事……」
「君の給金が雀のなみだだと言うのを僕が知らない筈ないだろ。ま、君の立場では薄給はっきゅうもっともだろうが、しかしそもそも君があの研究室に来た経緯けいいを考えれば、書生として自分の家に住まわせるのが筋なのに教授はそうはしていない。君としてもそういう事をちらとでも疑問に思う事はないのかい」
「い、いや、僕には書生になれるような才覚などないから……」
「教授自身が君の才を買ってのにか」
 妙な雲行きにドキドキし始めていた。僕は眼鏡を押し上げると、
「……先生は、きっと僕を不憫ふびんに思って下さったんだろう。おかしな話だが、先生は僕が代用教員として奉職しつつ、青葉家……下宿先でも、奉公人として働いていると思われたようだから、或いはその……下宿先で、僕が何かしいたげられて苦労しているように感じられたのかもしれない。それで、何の取り柄もないにもかかわらず、いや、そういう僕だからこそ、救いの手を差し伸べなければと言うような気持ちになられたのかもしれない……。と……兎に角、いずれにしても、僕は先生には本当に良くして戴いている……」
「ふうん。それで君は研究室を訪れる僕の相手をつとめて恩返しに代えようとしているという訳か」
「……えっ!?」
 また変な具合の聲が出た。冬月は絶句して固まった僕をにやにやと嗤いながら見回し、
「それとももっと直接的に御子柴教授に僕と依頼されているのかい? ま、君が自分の意志という形で教授の意思をみ取っていようが教授の命令に従っているだけだろうが特に関心はないけどね。だがまぁせいぜい。それが研究室への支援継続の判断材料になる訳ではないが、しかし君の忠義心にほだされて教授が君の進退について良い計らいをしてくれるかもしれないよ」
「……い、いや、そ……それは……、ぼ……僕はそういう……」
 見透みすかすような言動と薄ら嗤いを浮かべる琥珀色の瞳に動揺し、しどろもどろに口を動かしていると、冬月はぞっとするような笑みでその形の良い唇を吊り上げて、
「どうしたんだい、小鳥遊? 知らずに陥穽かんせいまってしまった小動物みたいに困惑しているじゃないか。さっき僕に掴みかかって来たあの威勢いせいは何処に行ったのかな?」
 僕はおろおろと眼鏡を上げたり下げたりしながら、
「ふ、冬月、その、さっきはその……、本当に申し訳なかった……。つ、ついかっとして、その……」
「別に気にしていないよ。むしろ愉快な見世物を見学した気分になれた」
「そ、それはその……、あの……」
 痛烈な厭味いやみなのか本音なのかの判断がつかず、冷や汗をきながらかく謝罪を続けようとした僕を片手でさえぎると、冬月はその手を左の腹の辺りまで滑り下ろしながら、
「君は食事にはこだわりがなさそうだが何か特別に食べられないような物があるかい?」
「えっ? あ、い……いや、特には何もないが……」
「そうか」
 それだけ短く言うと、冬月は座席シートに深く背中を預け、僕から顔をそむけるように窓の方を向いてしまった。



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