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其の十七 初めての喧嘩(1)
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臙脂の薔薇が咲き誇るレエスの手袋をにこやかに振る澪子さんとすっかり冷めきった檸檬入り紅茶を卓上に残し、僕は別れの挨拶もそこそこに席を立った冬月に不機嫌に促され、好奇心に満ちた客たちの視線の間を宛ら夢遊病患者のようにふらふらと泳いで貴賓喫茶室を出た。
廊下に出ると、いったい何処から現れたのか、燕尾服の支配人が腰を低くして何か話し掛けるのにも無視を決め込む冬月の後を半分意識を手放した状態で追った。上等な三つ揃いのズボンの裾が翻るのを夢でも見るように追い掛けるうち、冬月の革靴の音が高らかに響く壮麗な玄関広間から、久方ぶりにお天道様の見える帝都の空の下に出ていた。
すると深い藍色のビウイク號が既に車寄せで待っていて、冬月の姿を見るなり風のように近づいて来た。
冬月は訪問時とは打って変わり僕に対しても直角の辞儀を崩さない案内係に目も呉れず、自動車の扉を開けて頭を下げた運転手に何か一言告げると、僕を面倒な荷物か何かのように後部座席に押し込んだ。
座席の冷たい革の感覚が薄いシャツの背中に伝わったのでやっと我に返った僕は、自動車が発進するなり両膝の間に體を折り曲げるようにして頭を抱え込んだ。
車輪が砂利道に取られガてタガタと揺れるに従って激しく左右に振られながら、僕は眼鏡が足元にずり落ちそうになるのも構わず、押し寄せる怒涛の如く甦って来る非現実な会合の記憶にぐしゃぐしゃと髪を掻き回した。
……僕はいったい何をやっているんだ……。
「櫛も通していない髪を今以上乱れさせてどうする。見苦しいだけだぞ」
自動車の揺れから體を守るように窓枠に肘を掛けた冬月が冷淡を極めた聲で言い放つ。
その横顔に刻まれた不愉快が自動車の揺れへの不快感を表しているのか、僕の無作法に対する侮蔑を明らかにしているのか、あるいはその両方なのか区別はつかなかったが、僕は膝に両肘をついて頭を抱えたまま、微かに息を吐いて顔を顰めている冬月を横目に見上げ、
「……──今日という今日は、君という男に心底呆れ果てた……」
冬月はチラリと僕を一瞥したが、僕など眼中にないとでも言いたげにすぐに窓の外につまらなそうな視線を投げた。
僕は膝の間から頭を上げると、此方を見ようともしない冬月に向かい、
「よくもあんな大嘘を……」
押し殺し気味に言った聲が僅かに顫える。だが冬月はやはり無反応のまま車窓を流れ去る景色に漠然と目を向けているだけだった。
「いったいどういうつもりであんな……」
言い掛けた時、冬月の鋭角的な顎が微かに動き、不機嫌と諦観が入り混じるような溜息が聞こえた。
「こうなったのではもう仕方がない。この僕がまるでまな板の上の鯉だなんて癪に障って仕様がないが──」
胸元のタイに手を遣りながら正面を向いたその横顔には、例によって不遜な表情が持ち前の傲岸と高踏を色濃く浮き彫りにしていた。
「──当面はこのお遊戯を続行する以外に無いだろうな。小鳥遊、了承してくれるね?」
此方に決して否とは言わせない口調で言い、冬月は琥珀色の瞳を嵩に懸かった光で瞬かせた。
「ぞ、続行……!? ……って、まさか君、僕と友人のふりをして澪子さんを騙し続けるつもりなのか……!?」
「おいおい、小鳥遊。僕と君は固い絆で結ばれた親友同士だろ。友人のふりをして騙すなんて人聞きが悪い事を言うのは止し給え」
冬月は背筋が凍り付きそうな薄ら嗤いに唇を吊り上げると、三つ揃いの上着の前を開いて鈍い銀色に光る懐中時計を取り出した。慣れた手つきで蓋を開け、文字盤に目を走らせる冬月を茫然と見詰めながら失心していると、
「あのホテルを使うのは考え物だな。勧められて利用するようにはなったものの、行く度落ち度が目について仕方ない」
懐中時計の蓋をパチンと閉じて仕舞い、怏怏とした様子で上着のボタンを留めながら、
「それでも利用していたのは客の少なさとそこそこの紅茶を出す数少ない店だという理由があったからだが、今日その両方が一時に失われた。パーティーなんぞを催されるようになったのでは落ち落ち軽食を摂る事も出来ない。第一、僕が上海に行っていたのはほんの僅かの間だったにもかかわらず紅茶の味が大幅に落ちていた。頼みもしないのに檸檬の輪切りを出してサービスのいいホテルを気取ったつもりだろうが、実際には粗悪な茶葉の品質を誤魔化す為だという事が明らかだ。失望したよ」
僕は冬月の不満げな溜息にハッと我に返ると、
「──い……いや、今はそんな事どうでもいいだろ!?」
「僕が利用出来るホテルがまた一つ減ったという事がどうでもいい事だと言うのか」
「そ、そういう事ではなく、もっと重要な話が……っ」
「今後また都合のいい店を探さなくてはいけないという厄介が判明した今、それ以上に話題にするべき重要な案件などないだろ」
「な、何を言っているんだ、君は……っ」
僕は思わず拳を握り、詰め寄らんばかりに冬月の方に身を乗り出した。
「何だってこんな狂言芝居に僕を巻き込んだんだ……!? 君がこんな事をしでかす気で居ると知っていたら僕は絶対車には乗らなかった……っ。何としてでも君を振り払ってあの場から一目散に逃げ出して──」
「眼鏡」
「──はっ?」
蔑むように眉を寄せた冬月の突然の一言につんめのりそうになっていると、
「また眼鏡がずり落ちている。いい加減鬱陶しいぞ」
嫌気が差したと言わんばかりに冷たく一瞥し、僕から目を背けたを冬月を一瞬ポカンと見詰めていたが、次第にやかんの湯が沸くようにふつふつと怒りが込み上げて来た。
廊下に出ると、いったい何処から現れたのか、燕尾服の支配人が腰を低くして何か話し掛けるのにも無視を決め込む冬月の後を半分意識を手放した状態で追った。上等な三つ揃いのズボンの裾が翻るのを夢でも見るように追い掛けるうち、冬月の革靴の音が高らかに響く壮麗な玄関広間から、久方ぶりにお天道様の見える帝都の空の下に出ていた。
すると深い藍色のビウイク號が既に車寄せで待っていて、冬月の姿を見るなり風のように近づいて来た。
冬月は訪問時とは打って変わり僕に対しても直角の辞儀を崩さない案内係に目も呉れず、自動車の扉を開けて頭を下げた運転手に何か一言告げると、僕を面倒な荷物か何かのように後部座席に押し込んだ。
座席の冷たい革の感覚が薄いシャツの背中に伝わったのでやっと我に返った僕は、自動車が発進するなり両膝の間に體を折り曲げるようにして頭を抱え込んだ。
車輪が砂利道に取られガてタガタと揺れるに従って激しく左右に振られながら、僕は眼鏡が足元にずり落ちそうになるのも構わず、押し寄せる怒涛の如く甦って来る非現実な会合の記憶にぐしゃぐしゃと髪を掻き回した。
……僕はいったい何をやっているんだ……。
「櫛も通していない髪を今以上乱れさせてどうする。見苦しいだけだぞ」
自動車の揺れから體を守るように窓枠に肘を掛けた冬月が冷淡を極めた聲で言い放つ。
その横顔に刻まれた不愉快が自動車の揺れへの不快感を表しているのか、僕の無作法に対する侮蔑を明らかにしているのか、あるいはその両方なのか区別はつかなかったが、僕は膝に両肘をついて頭を抱えたまま、微かに息を吐いて顔を顰めている冬月を横目に見上げ、
「……──今日という今日は、君という男に心底呆れ果てた……」
冬月はチラリと僕を一瞥したが、僕など眼中にないとでも言いたげにすぐに窓の外につまらなそうな視線を投げた。
僕は膝の間から頭を上げると、此方を見ようともしない冬月に向かい、
「よくもあんな大嘘を……」
押し殺し気味に言った聲が僅かに顫える。だが冬月はやはり無反応のまま車窓を流れ去る景色に漠然と目を向けているだけだった。
「いったいどういうつもりであんな……」
言い掛けた時、冬月の鋭角的な顎が微かに動き、不機嫌と諦観が入り混じるような溜息が聞こえた。
「こうなったのではもう仕方がない。この僕がまるでまな板の上の鯉だなんて癪に障って仕様がないが──」
胸元のタイに手を遣りながら正面を向いたその横顔には、例によって不遜な表情が持ち前の傲岸と高踏を色濃く浮き彫りにしていた。
「──当面はこのお遊戯を続行する以外に無いだろうな。小鳥遊、了承してくれるね?」
此方に決して否とは言わせない口調で言い、冬月は琥珀色の瞳を嵩に懸かった光で瞬かせた。
「ぞ、続行……!? ……って、まさか君、僕と友人のふりをして澪子さんを騙し続けるつもりなのか……!?」
「おいおい、小鳥遊。僕と君は固い絆で結ばれた親友同士だろ。友人のふりをして騙すなんて人聞きが悪い事を言うのは止し給え」
冬月は背筋が凍り付きそうな薄ら嗤いに唇を吊り上げると、三つ揃いの上着の前を開いて鈍い銀色に光る懐中時計を取り出した。慣れた手つきで蓋を開け、文字盤に目を走らせる冬月を茫然と見詰めながら失心していると、
「あのホテルを使うのは考え物だな。勧められて利用するようにはなったものの、行く度落ち度が目について仕方ない」
懐中時計の蓋をパチンと閉じて仕舞い、怏怏とした様子で上着のボタンを留めながら、
「それでも利用していたのは客の少なさとそこそこの紅茶を出す数少ない店だという理由があったからだが、今日その両方が一時に失われた。パーティーなんぞを催されるようになったのでは落ち落ち軽食を摂る事も出来ない。第一、僕が上海に行っていたのはほんの僅かの間だったにもかかわらず紅茶の味が大幅に落ちていた。頼みもしないのに檸檬の輪切りを出してサービスのいいホテルを気取ったつもりだろうが、実際には粗悪な茶葉の品質を誤魔化す為だという事が明らかだ。失望したよ」
僕は冬月の不満げな溜息にハッと我に返ると、
「──い……いや、今はそんな事どうでもいいだろ!?」
「僕が利用出来るホテルがまた一つ減ったという事がどうでもいい事だと言うのか」
「そ、そういう事ではなく、もっと重要な話が……っ」
「今後また都合のいい店を探さなくてはいけないという厄介が判明した今、それ以上に話題にするべき重要な案件などないだろ」
「な、何を言っているんだ、君は……っ」
僕は思わず拳を握り、詰め寄らんばかりに冬月の方に身を乗り出した。
「何だってこんな狂言芝居に僕を巻き込んだんだ……!? 君がこんな事をしでかす気で居ると知っていたら僕は絶対車には乗らなかった……っ。何としてでも君を振り払ってあの場から一目散に逃げ出して──」
「眼鏡」
「──はっ?」
蔑むように眉を寄せた冬月の突然の一言につんめのりそうになっていると、
「また眼鏡がずり落ちている。いい加減鬱陶しいぞ」
嫌気が差したと言わんばかりに冷たく一瞥し、僕から目を背けたを冬月を一瞬ポカンと見詰めていたが、次第にやかんの湯が沸くようにふつふつと怒りが込み上げて来た。
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