穢れなき禽獣は魔都に憩う

クイン舎

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其の十五 御子柴教授の過去(2)

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「教授の御婚約者は基督教徒クリスチャンでいらしたとかで、葬儀も彼方あちらの形式にのっとった物でしたから、わたくしたちも白い百合ゆりのお花を一輪ひつぎの中におおさめさせて戴く機会がございましたのよ。その時にちらと拝見した亡骸なきがらのお顔の美しさには、本当に胸をかれる思いが致しましたわ。随分ずいぶん不謹慎ふきんしんな事を口にするとお思いになられるかもしれませんけれど、年端としはもいかない子どもの目には、その方の安らかに眠っていらっしゃるようなお顔に、彼方あちらで信心される天使とはこのような方を言うのではないかと感動する気持ちすら起こったぐらい、本当に無垢な清らかさをたたえた死顔しにがおでしたわ。それだけに、神父様の励ましを受けて泣いていらした御子柴教授のお姿が一層あわれにもいたわしくも思えて、幼い胸にもり切れないような悲しみを感じたものでしたわ……。御婚約者の死後、一時はおからだを壊されるまで思い詰められて、日常生活もままならないような状態だったそうですけれど、回復されて以降はますます御研究にのめり込まれるようになったとかで……」
 其処そこで、ふと何かを思い出したように、わずかに目を横の方に向けた澪子さんは、
「──そういえば、その時分に何度か父を訪ねていらした事がございましたわ。どんなお話をなさっていたのかはわかり兼ねますけれど、随分ずいぶんと御熱心なお具合でしたから、幼心にも御仏みほとけすがりたいようなお気持ちなのだろうかと、胸を痛めも御同情するような気にもなったものですが、後になって聞きましたところによれば、あの時分、教授はわたくしの父の元にいらっしゃるのと並行して、方々の社寺ですとか、教会ですとか、道場ですとか、あらゆる宗教の関連施設に足繁あししげくお通いになっていらしたそうですから、心に負った傷の深さがうかがえるというものですわね……」
 突然知るところとなった御子柴先生の悲愴ひそうな過去に、琴枝の失踪しっそうを聞いた先生が深く同調を示し、憐れんでくれたのには、こういう理由わけがあったからなのかと気がつかされた。
 知らなかったとはいえ、自分の悲しみや不安だけに囚われていた自分が情けなく、慙愧ざんきえない思いで唇をんだ。
 同時に、読みかけて諦めていた御子柴先生の一番新しい著書の事が思い出された。
 風鳥ふうちょうの研究報告にとどまらず、進化論や西洋の宗教思想にまで言及げんきゅうした複雑で難解な内容に一ページ読むにも難儀なんぎしていたが、婚約者と死に別れた過去がいまえない傷となって先生を苦しめている事を端的たんてきに表した著書であったかに思えると、本の半ばまでも行かず投げ出そうとしていた自分が恥ずかしくなった。
 思わず円卓テーブルの下でこぶしを握った耳に、続けて言う澪子さんの言葉が入った。 
「そのうち御子柴教授がお見えになる事もなくなって、何かの折にお名前をちらと耳にするぐらいになっておりましたけれど、先だって百貨店で偶然にも教授をお見掛け致しましたのよ。お急ぎの御様子でしたし、わたくしおぼえていらっしゃるとも限りませんからお聲を掛けるのは遠慮致しましたけれど、素敵にお年をお召しになった教授のお顔に、お菓子を下さったあの時と同じ温かな微笑がたたえられているのを拝見して、何だかほっと致しましたの」
 レエスの手袋の指先を組み合わせるようにして微笑む澪子さんに、僕は弱い笑みを作って向けた。
「……僕も、先生の微笑みにはいつも救われる思いで居ます。けれど僕は本当に御子柴先生の事を何も存じ上げず今日まで来てしまって、随分ずいぶん失礼があったかと思うと恥ずかしい限りです。尊い華族かぞく様の御身分でいらっしゃる方に対して僕は──」
「いいや」
 それまで一言も口をかず、喫茶室サロン絨毯じゅうたんにステッキの先端を押し付け、ぐらぐらと揺らしてもてあそんでいた冬月が、突然僕の言葉をさえぎった。
「御子柴家は教授の父親の代の時に皇籍こうせき剥奪はくだつされ、平民の身分に落とされている。もともと金銭問題と女性がらみの醜聞スキャンダルの多かった父親が気紛きまぐれから宮家以外の女性との結婚をした事が原因だ。御子柴玄人つねひとはその結婚で誕生した子で、当然一般民間人の扱いだ。単純に血という観点だけから言えば確かに今上帝きんじょうていとは縁戚えんせきに当たると言えるだろうが、その立場はあくまでも平民。自分の研究一つ続けられるかどうかもわからない教授の現況げんきょうを思えばその胸中きょうちゅう複雑ふくざつかもしれないな。両親の所謂いわゆる貴賤きせん結婚がなければこの世に生を受けてはおらず、爵位しゃくいというものに縛られる事なく自由に生きて来られた反面、本来ならば当然受けられるべき恩恵もなく、自分の研究にかかる費用の他、父親がのこした借金などもあって金銭的な余裕はない。ああいうは自分の研究の為なら身上しんしょうの一つや二つ潰してしまう事などいとわないからね。ただ一つ残ったも今後怪しいとなっては結局のところ諸手もろてを挙げて自分の境遇きょうぐうに満足しているとは言えないだろう」
 皮肉っぽく頬を歪めて言う冬月に、僕は思わず語調を強め、迫るように言った。
「冬月、それは言い過ぎだ。そんな邪推じゃすいとも言えるような推量すいりょうで教授の心中がどうのと決めつけるべきじゃない」
「君のその発言こそ邪推だよ。そもそも君は何をもって僕が教授の心中しんちゅうを決めつけていると言うんだ。僕が教授の胸中について何も知らないという事を君はどうやって証するつもりなのか聞かせてもらいたいね」
 ジロリと冷たい横目ににらまれひるみそうになったが、僕は何としても御子柴先生の名誉を守りたい一心で歯を喰いしばって耐え、思い切って口を開いた。
「ぼ、僕が言いたいのは、君がいつだって、先生に対してひ……必要以上に、し……辛辣しんらつだという事だ」
「君は必要最低限の事を率直に言う行為を指して辛辣だと言うつもりなのか。第一、僕の忌憚きたんのない言動は誰に対しても平等に行われるものだ。僕が御子柴教授に対して特に論難ろんなんしているなどと思って居るなら勘違いもいいとこだ」
「ぼ、僕が問題にしているのは、き……君の率直さではなく、君のその、も……物の言い方だ。き、君はいつも、ま……まるでわざとかどを立てるような言い方をしているとしか思えない。で、でも、そ、そんな事をしても、誰も得をしないばかりか、き……君が損をするだけだ。そ、それでなくても君は人にらぬ誤解を与えがちなのだから……」
 言いながら気持ちがたかぶり、鼻息荒く言葉をっていた僕は、ふとずれた眼鏡の向こうで、大きな瞳を見開いてじっと此方こちらを見ている澪子さんに気がつくと、はっと我に返って慌てて口を閉じた。
 女性の前で感情的になるなんてもってのほかな上、澪子さんからすれば、僕のような凡民ぼんみんが、公然と自分のなじっているようなこの状況は、不快な出来事でしかないに決まっている。
「……し、失礼しました……」
 急いで目礼した僕に、澪子さんは意外にも、雨上がりの青空のような笑顔を開いて見せた。
 え? と思わず呆気に取られた気分で見詰めていると、澪子さんは晴れやかな笑顔を僕の方に近づけるようにかたむけながら、
わたくし感銘かんめいを受けましたわ。冬月家の御嫡子ごちゃくしである蘇芳すおう様に堂々と物をおっしゃる方は滅多めったにいらっしゃいませんのよ」
 その言葉にどっと冷や汗が噴き出した。
 僕は鼻頭にずり落ちた眼鏡を押し上げながら、
「た、大変僭越せんえつでした……。ぼ、僕のような者が、まるで冬月に意見をするような真似などして……」
 舌がもつれて転びそうになる言葉を、しどろもどろにつなげて何とか言おうとしていると、
ってどういう者だ。さっきも言ったが自分の事もろくに知らないくせにこの僕に意見しようという君が、自分自身をどう認識しているのか聞かせてもらいたいね」
 横から飛んで来た鋭い冬月の琥珀の視線に射竦いすくめられ、僕は道に迷って右往左往うおうさおうするように、いたずらに目をきょろきょろと動かしながら眼鏡を押し上げ、
「そ、それは勿論もちろんという奴だよ……。ぼ、僕なんて、君から見れば愚民ぐみんもいいとこだろ……」
 わかっているならいいと冷淡に吐きてられてこの会話は終わるだろうと思っていたが、冬月は不愉快そうに上げていた顎を引いて手元の茶碗カップに目を落とすと、いささ苛立いらだち気味に取り上げたさじで飲みもしない紅茶を黙って掻き回すだけだった。
 円卓テーブルの上には一瞬気詰きづまりな沈黙が流れたが、ぎくしゃくとしたその空気は、何処か悪戯いたずらを仕掛ける猫のような瞳を華やかにまたたかせて言った澪子さんの言葉ですぐに打ち破られた。
「小鳥遊先生はわたくしの好奇心をはしたなくお思いかしら」
「え……と……? あの、それはどういう……?」
「私、こうして先生とお話をしていますと、どうしてもおたずねしたいと心に浮かんで来る事がありますのよ。でもそれをお訊ねすれば、先生にたしなみの無い女と思われはしないかと心配でもありますの」
「は、はぁ……。あの、どうぞ御遠慮なく何でもお訊ねください……」
「それではお言葉に甘えて単刀直入におうかがいしますけれど、先生には決まった女性はいらっしゃいますの?」
 途端とたんに、心臓が大きくねた。
 鮮やかに笑う琴枝の姿が閃光のように目の前をよぎる。
「……──あ、あの……それ、は──……」
 舌が麻痺まひしたように硬直し、言葉が出せなかった。

 ──柊萍しゅうへいさん…… ねぇ、柊萍さん……

 小鳥のさえずりにも似た琴枝の聲が、耳の奥で何度も何度も僕を呼ぶ。

 ──嗚呼ああ……、駄目だめだ……。底なしの沼のような追憶ついおくに、また落ち込んでいく──……。

 突如とつじょとして深い深い陥穽かんせいまってしまったかのように、目の前が真っ暗になった。
 けれど、奈落ならくの底に落ちかけていた僕を引き上げたのは、冬月の少し硬質な玲瓏れいろうたる聲だった。
「小鳥遊に決まった相手は居ません」
 はっきりと断定だんてい的に言い切るその言葉に明瞭めいりょうな意識を取り戻すと、帝都の空をおおっていた灰色の雲を割り、貴賓喫茶室サロンの窓からにわかにし込んだ黄金こがね陽射ひざしの中、その名を示すに相応ふさわしい赤褐色せきかっしょくの髪を燃え立たせながら、と顎を上げて見せた冬月を、勢いよく振り向いた。
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