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其の十一 天花寺澪子
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冬月は澪子さんの問い掛けには答えず、チラリと横目に辺りを窺って、
「今日はやけに人が多いな」
独り言のように呟いた聲には微かに癇立った響きがあり、その表情を確かめずとも、冬月が些か苛立っている事が知れた。
僕ならばすぐにもおろおろとしてしまうところだが、澪子さんはそんな冬月の様子にも臆する気振りを見せず、花の香りが匂い立ちそうな口元を綻ばせると、
「昨夜此方の宴会場でパーティーがあったとかで、そのままお泊まりになる方が大勢あったそうですわ」
「今はパーティーと聞くだけでうんざりするな」
鼻白むように琥珀色の目を細くして鼻を鳴らした冬月に、上品な微笑みの絶えない瞳を一つ瞬かせた澪子さんが言った。
「蘇芳様、先日は御旅行のお疲れも癒えないままあのような席を設けて頂きました上、今日は早速のお呼び出し。私もうひたすら嬉しくて、飛ぶように参りましたのよ。これまで、何かの催しの際に蘇芳様のお姿をお見掛けしてもお聲を掛けるなんて罷り成らぬ事と思い、ただ列席する人々の間から、それでもお姿を拝見出来る事の幸福を心の楽しみにしておりましたものが、あのように十年ぶりに向かい合って座り、金剛石のような耀きのお聲で私の名を呼んで戴いた喜びを思い出す度、これが儚い夢などではなく現実であるのだと確かめる為に、自分で自分の頬をつねらなくてはなりませんのよ」
冬月の隣に所在なく座って澪子さんの語る言葉を聞いていた僕は、俄かに頬に熱を感じて俯くと、どぎまぎと眼鏡を押し上げた。近頃の都会の女性にははっきりと意見を述べる人が多くなったと聞くが、こうも率直に自分の気持ちを──ましてや男性に対する自分の好意を表して憚らない澪子さんを前に、僕の方で気恥ずかしい思いがし、額に滲んだ熱い汗が火照った頬を伝い落ちた。
しかし当の冬月は、いつもと寸分違わない、冷笑とも言える皮肉的な嗤いに唇を歪めているばかりで、女性の──それも人並外れて美しい女性が言う直截的な女心にも、一向心が動かされるような様子がないのだった。
其処へ、やはり西洋式のお仕着せに身を包んだ若い女給がしずしずと近づいて来て、立ち止まった。
冬月は女給が円卓の上の紅茶淹れを取って、席の前に置かれた花模様の西洋茶碗に注ぎ入れようとするのを片手で遮ると、
「すまないが僕は紅茶の淹れ方同様、注ぎ方にも一家言あってね。自分で注ぐから此方の事は気にしないでいてくれ給え」
そう言って薄い笑みを見せた冬月に、女給は俄かに頬を染めると目をぱちぱちと瞬かせ、深く頭を下げた。去り際、女給は上目遣いに冬月を見て、もう一度、妙にゆっくりな瞬きをしたが、既に明後日の方角に視線を向けていた冬月は、女給をチラとも顧みなかった。
女給が行ってしまうと、澪子さんはふふ、と微笑みの濃くなった口元に臙脂のレエスの手袋を翳し、
「どちらにいらっしゃっても女性に持て囃される御様子は少年の日の蘇芳様と全く同じですのね。あの頃は私も他愛のない少女でございましたから、ただただ蘇芳様に焦がれ慕う自分の気持ちにばかり熱心でしたけれど、今となっては私が蘇芳様のお気に召すかどうかがひどく気になりますのよ。蘇芳様、やはり蘇芳様も世の殿方同様、今の方みたいな如何にも純に見える女性をお好みになられますの?」
悪戯っぽく瞳を回しながら言った澪子さんに、またしてもどぎまぎと眼鏡を押し上げていたが、次の瞬間、澪子さんの言葉に答えるべく冬月が吐いた言葉に、僕はぎょっとその手を止めて瞠目した。
「あの手の女性に発展家が多いというのは衆評の一致する所でしょうが、一部の鈍物の中にはあの手の女狐に寧ろ好んで誑かされるのが居るようですね。まさか貴女が僕をそのような衆愚の一人と侮っているなどとは思いませんが、ひょっとして貴女のような女性にはやはり一般とは違った視座があるのでしょうか」
僕は思わず勢いつけて、皮肉な笑みを高雅な頬に刻んでいる冬月を振り向いた。
けれど澪子さん自身は冬月のその嗤い顔に微塵も動じる気配もなく、にこやかな微笑をますます花開かせて、
「女の目というのは当てになるようなならないような仕方のない物ですわ。まして私は蘇芳様への恋心でいっぱいなのですもの。つい邪推の一つも申し上げてみたくなりますのよ。けれども女性のお好みについては兎も角、蘇芳様が昔からお茶に関してお好みが明確でいらしたという事は論を俟ちませんわね」
「残念ながら──」
言いながら、冬月は慣れた手つきで自分の西洋茶碗に回転式の金の茶漉しを引っ掻け、紅茶淹れから朱色の液体を注ぎ始めた。
「この国ではなかなか納得のいく物は飲めませんけどね。まぁ最初から期待などしていないので問題はありませんが」
「蘇芳様は相変わらず何事にも正直でいらっしゃいますのね」
冬月の毒舌を臆するどころか寧ろ愉しんでいるような素振りで、澪子さんは美しい顔をより一層艶やかに綻ばせた。
思わずその笑顔に吸い寄せられていた僕は、自分の茶碗を満たし終えた冬月が、今度は僕の前に置かれた茶碗にも同じようにして紅茶を注ぎ始めたのを見ると、その思いも寄らない行動に吃驚して我に返り、徐々に満たされていく茶碗と、ごく自然な様子で紅茶を注ぐ冬月とを、何度も見比べてしまった。
青天の霹靂とも言うべき冬月の行動ではあったが、紅茶の注ぎ方など全くもってわからない僕には、まさに天の助けも同然だった。無様な振る舞いで衆目の嗤笑を誘い、如何にも高貴な生まれである事の窺える澪子さんに恥を掻かせてしまう事態を招く危険を避けられた安堵で、我知らず小さな吐息が漏れた。
「……有難う」
小聲に礼を言った僕に冬月は一瞬チラリと視線を寄越したが、すぐにまた手元に目を落として黙って茶碗を満たし終えると、再び椅子の背に深く凭れ掛かって、如何にも無聊をかこつように、組んだ脚をぶらぶらと動かした。
図らずも冬月のその不調法な仕草は、先程から極度の緊張を強いられていた僕の神経を僅かながら解す事に一役買った。
御蔭で幾らか落ち着いた僕の耳には、周囲でさざ波のように聞こえる客たちの低い話し聲や、食器の触れ合う微かな音と共に、西洋音楽を歌う女性の高い聲が流れ込んで来た。
喫茶室の隅に置かれた蓄音器から聴こえてくるらしい、その何処か騒々しい音楽に耳を傾けるともなしに傾けていると、
「オッフェンバックの『天国と地獄』。君もこういうのを好むのかい?」
僅かに頸を傾けて此方を見た冬月の言葉が質問の形で終わっている事はわかったが、聞き慣れない横文字に、僕は一瞬阿呆のようにきょとんと目を瞬かせた。
「え──? ……あっ、こ、この音楽か……。いや、僕はあまり……。その、音楽に疎くて……」
眼鏡を押し上げるふりをして、華やかな微笑で僕を見た澪子さんの視線から顔を隠していると、
「浅草オペラのレコードではなく西洋で録音された稀少盤を掛ける努力は認めるが、こういう場で聞かせる物としては内容の点で些か品位に欠けるな。あの物覚えの悪い給仕長は皮肉だけは一人前のようだ。集う客に当て擦っているのだとしたらいい趣味をしているよ」
「蘇芳様、不品行な方々ばかりではございませんことよ。現に私や蘇芳様、それに小鳥遊様だって……。──まぁ、小鳥遊様、どうかなさって?」
驚いたような澪子さんの気遣わしげな聲で、僕ははっと顔を上げた。
「お顔の色が優れませんわ。お加減が宜しくないのでは?」
「──あ……っ、い、いえ……その、し、失礼しました……何でもありません……」
浅草──という言葉に、今朝方琴枝の幻と交わした会話が甦り、知らぬ間に茫然自失となっていたようだ。
僕は強張った體をゆっくりと動かして、気に掛けるように僕を見詰める澪子さんと、横目でじっと此方を窺っている冬月に、何とか微笑を作って見せた。
しかし澪子さんの背後に立った猛禽の男の射竦めるような視線に気がつくと、灰色の不安の塊が卒然と腹の底で不穏な蠢動を始めるようで、僕は落ち着かない思いに意味もなく眼鏡を上げ下げした。
「何でもないのでしたら宜しいのですけれど……。もしかしてお疲れでいらっしゃるのではありませんか?」
「い、いえ、そんな事は……」
「失礼ではございますけれど、小鳥遊様は何かお仕事をなさっていらっしゃいますの?」
優しい微笑で訊ねる澪子さんに答えようとした僕より早く、歪に唇を吊り上げた冬月が割って入った。
「貴女にはこれがきちんとした仕事を持っている一人前の男子に見えるのですか」
「あら、それではやはり書生さんか何かでいらっしゃるのかしら」
「やはりと言う言葉が咄嗟に口を衝いて出ましたか」
「……まぁ、私そんなつもりでは……」
「いえいえ、気になさる事など一切ありません。誰がどう見てもこの面輪は生熟れですよ。ほら見ろ小鳥遊、立派なお遊戯だろ?」
冬月はいつもらしい揶揄の色に琥珀の瞳を光らせて、にやにやと僕を見た。
「お遊戯? 楽しそうなお話みたいですけれど、何の事ですの?」
「大して愉快な話ではありません。ちょっとした内輪の遣り取りです」
「あら、それは一層楽しそうですわね」
美しい微笑みを花と咲かせて僕と冬月とを見る澪子さんにドキリとした心臓が、一方ではキリキリと鋭く痛んだ。
──本当に、冬月は今日この場で、澪子さんに縁談の破棄を申し出るつもりなのだろうか……。
冬月がどういうつもりで僕をこの場に同席させたのかはわからないが、ひょっとすると緩衝材の役目を果たす何かが欲しかったのかもしれない。
然しもの冬月も、縁談を当人に対して直に断ろうというような暴状には気が咎めるのかもしれない。
──……だとするならば、冬月は案外と、僕が思う以上に良識的な男なのかもしれない。……しかしそうなると、「ただ黙ってそれらしく座っていれば良い」と言う訳にもいかないだろうが、かと言って僕にこの場を取り持つような大役が熟せるかどうか……。
第一、澪子さんの後ろで堅牢な岩のように直立するあの男が、仮に恥を掻いた主人の仇を討とうとするような性状の持ち主であったとしたら、最悪の事態に発展する可能性だって無きにしも非ずじゃないか……──。
様々に考えを巡らせ、一人気を揉んでいる僕の気を知ってか知らずか、冬月はますます皮肉な嗤いに頬を歪めると、僕を顎で指しながら、
「これでも彼は大日本帝国大学の研究室に勤めているのですよ」
「まぁ、それでは先生とお呼びしませんといけませんわね」
大きな黒い瞳を煌めかせて言った澪子さんに、僕は頭と手を同時にぶんぶんと勢いよく振った。
「せ、先生だなんてとんでもありません……っ。僕などは単なる雑用係で……」
「御謙遜を。大日本帝国大学にお勤めなさるなんて、余程優秀な方でなければ実現しませんわ」
「いや、澪子さん。小鳥遊は本当に雑用係ですよ。少なくとも僕の見知る限り、彼が雑務以外を熟しているところなど見た事がありません」
冬月は酷薄と表現するに相応しい嗤笑で僕を横目に見ながら言った。
澪子さんは冬月の言葉を本当とは受け取らなかったのか、長い睫毛に縁どられた美しい楕円形の目の中に生き生きとした耀きを瞬かせ、
「大学ではどういう研究をなさっていらっしゃるのですか?」
「あ、はい、いや、その、僕は研究をしている訳ではなく、あくまでも雑事を担って……」
「ごちゃごちゃとつまらない陳弁を並べ立てていないでさっさと質問に答え給え」
すげなく言う冬月に冷たい横目で一瞥され、僕はごくりと喉を鳴らすと、おずおずと口を開いた。
「……鳥類学を研究する先生の元で働かせて頂いています……」
「鳥類学? 大日本帝国大学で鳥類学といえば、御子柴教授の御専門じゃなかったかしら」
思いがけず澪子さんの口から御子柴先生の名が出た事に驚き、
「御子柴先生を御存知なのですか」
ぐっと身を乗り出してしまった僕をじろりと睨みつける猛禽の男の鋭利な視線に気がつき、僕はビクビクと椅子の背に體を引っ込めた。
「ええ……と申しましても、幼い頃に一、二度お目にかかったくらいですけれど。とは言え、今上帝の御縁戚に当たる方ですから、お顔を一方的に見知っている方々なども多くいらっしゃるでしょうね」
「え……っ!? じ、慈惇──」
思わず聲高に御尊名を口にしてしまいそうになって、慌てて調子を落とし、
「──……天皇の、御縁戚……?」
潜めた聲が知らず顫えた。
冬月は僕の頬に呆れた視線を突き立てながら、
「君、そんな事も知らなかったのか。あの研究室で一年もの間いったい何を見聞きしていたんだ」
「……研究員の人たちと口を利く事なんて殆どないし、御子柴先生御自身から私的な内容のお話を伺う機会もあまりないから……」
つい言い訳をするような口調で言った僕に頷いて、澪子さんが艶やかな葡萄色の唇を開いた。
「あの方は得意げに御自分の出自をお話になるような方ではないと思いますわ。教授のお父上が、確か宮家の御出身でいらしたのでしたわね?」
確かめるような視線を澪子さんに向けられた冬月は、無言のまま僅かに顎を引いて首肯した。
「……あの……天花寺さん」
遠慮しつつ呼び掛けた僕に、澪子さんはにっこりと微笑んで、
「どうぞ私の事は澪子とお呼びになって下さい。私、どんな方にも名前で呼んで頂くようお願い致しておりますのよ」
「そ、それでは……澪子さん……」
どぎまぎと名を呼んだ僕の額に、再び猛禽の視線が突き刺さった。この男は視線だけで人を射殺せそうだと半ば怯えながら眼鏡を押し上げ、
「幼い頃にお会いしたとの事でしたが、その、大変不躾な事をお伺いするようですが、ひょっとして澪子さんの御宅でも、先生に研究費の援助をなさっていらした事が……?」
慮外千万な質問だとは思いつつ、もしそうであった場合、何か失礼な発言をして不愉快な思いをさせてしまう事は避けたく、気が引けながらもそっと訊ねた僕に、澪子さんは花のような微笑を綻ばせると、
「寧ろ此方が御寄附を頂戴致しましたのよ」
「え?」
「教授がまだお若くて、御研究の勢い盛んな時分でもあったのでしょうけれど、私の父を訪ねていらした事がありましたの。その時に結構な額を戴いたと、後で父が申しておりましたのをよく憶えています。その時分、私はまだほんの幼い子どもでしたから、教授とは会話らしい会話は致しませんでしたけれど、とても美味しい外国のお菓子を下さいましたのよ。そのお菓子の味と私の頭を撫でて下さった優しい手や笑顔を、御子柴教授の名を耳にする折には必ず思い出しますの」
「そうでしたか……」
如何にも先生らしい話だという思いに心が和み、自然な笑顔が浮かんで来た。
澪子さんはそんな僕を見ると、ほんの少し頸を傾け、微笑を濃くした。その柔らかな笑みに勇気を得た僕は、再びの無礼を承知で口を開いた。
「……あの、度々失礼な事を伺うようですが、澪子さんの御父上も何かの御研究を……?」
ぎろっと目玉だけ動かして睨む猛禽の男に思わず首を竦めた僕に、澪子さんは僅かに視線を上向けて考えるようにしながら、
「研究をする……といった一面も無い事はありませんわね。けれど、どちらかと言うと舵取りに精を出すと言った方が適当かしら」
「あ、船長さんなのですか?」
「まあ、ふふ……。然に非ず──とは申しましても、組織と船は確かに似たような物かもしれませんわね」
「では実業家か何か……、──も、もしかして、政治家でいらっしゃるとか……」
「うふふ……」
俄かに緊張感を走らせながら言った僕に、澪子さんは臙脂色のレエスの手袋を嵌めた手を優雅に動かして、謎めいた微笑の浮かぶ唇を静かに覆った。
「今日はやけに人が多いな」
独り言のように呟いた聲には微かに癇立った響きがあり、その表情を確かめずとも、冬月が些か苛立っている事が知れた。
僕ならばすぐにもおろおろとしてしまうところだが、澪子さんはそんな冬月の様子にも臆する気振りを見せず、花の香りが匂い立ちそうな口元を綻ばせると、
「昨夜此方の宴会場でパーティーがあったとかで、そのままお泊まりになる方が大勢あったそうですわ」
「今はパーティーと聞くだけでうんざりするな」
鼻白むように琥珀色の目を細くして鼻を鳴らした冬月に、上品な微笑みの絶えない瞳を一つ瞬かせた澪子さんが言った。
「蘇芳様、先日は御旅行のお疲れも癒えないままあのような席を設けて頂きました上、今日は早速のお呼び出し。私もうひたすら嬉しくて、飛ぶように参りましたのよ。これまで、何かの催しの際に蘇芳様のお姿をお見掛けしてもお聲を掛けるなんて罷り成らぬ事と思い、ただ列席する人々の間から、それでもお姿を拝見出来る事の幸福を心の楽しみにしておりましたものが、あのように十年ぶりに向かい合って座り、金剛石のような耀きのお聲で私の名を呼んで戴いた喜びを思い出す度、これが儚い夢などではなく現実であるのだと確かめる為に、自分で自分の頬をつねらなくてはなりませんのよ」
冬月の隣に所在なく座って澪子さんの語る言葉を聞いていた僕は、俄かに頬に熱を感じて俯くと、どぎまぎと眼鏡を押し上げた。近頃の都会の女性にははっきりと意見を述べる人が多くなったと聞くが、こうも率直に自分の気持ちを──ましてや男性に対する自分の好意を表して憚らない澪子さんを前に、僕の方で気恥ずかしい思いがし、額に滲んだ熱い汗が火照った頬を伝い落ちた。
しかし当の冬月は、いつもと寸分違わない、冷笑とも言える皮肉的な嗤いに唇を歪めているばかりで、女性の──それも人並外れて美しい女性が言う直截的な女心にも、一向心が動かされるような様子がないのだった。
其処へ、やはり西洋式のお仕着せに身を包んだ若い女給がしずしずと近づいて来て、立ち止まった。
冬月は女給が円卓の上の紅茶淹れを取って、席の前に置かれた花模様の西洋茶碗に注ぎ入れようとするのを片手で遮ると、
「すまないが僕は紅茶の淹れ方同様、注ぎ方にも一家言あってね。自分で注ぐから此方の事は気にしないでいてくれ給え」
そう言って薄い笑みを見せた冬月に、女給は俄かに頬を染めると目をぱちぱちと瞬かせ、深く頭を下げた。去り際、女給は上目遣いに冬月を見て、もう一度、妙にゆっくりな瞬きをしたが、既に明後日の方角に視線を向けていた冬月は、女給をチラとも顧みなかった。
女給が行ってしまうと、澪子さんはふふ、と微笑みの濃くなった口元に臙脂のレエスの手袋を翳し、
「どちらにいらっしゃっても女性に持て囃される御様子は少年の日の蘇芳様と全く同じですのね。あの頃は私も他愛のない少女でございましたから、ただただ蘇芳様に焦がれ慕う自分の気持ちにばかり熱心でしたけれど、今となっては私が蘇芳様のお気に召すかどうかがひどく気になりますのよ。蘇芳様、やはり蘇芳様も世の殿方同様、今の方みたいな如何にも純に見える女性をお好みになられますの?」
悪戯っぽく瞳を回しながら言った澪子さんに、またしてもどぎまぎと眼鏡を押し上げていたが、次の瞬間、澪子さんの言葉に答えるべく冬月が吐いた言葉に、僕はぎょっとその手を止めて瞠目した。
「あの手の女性に発展家が多いというのは衆評の一致する所でしょうが、一部の鈍物の中にはあの手の女狐に寧ろ好んで誑かされるのが居るようですね。まさか貴女が僕をそのような衆愚の一人と侮っているなどとは思いませんが、ひょっとして貴女のような女性にはやはり一般とは違った視座があるのでしょうか」
僕は思わず勢いつけて、皮肉な笑みを高雅な頬に刻んでいる冬月を振り向いた。
けれど澪子さん自身は冬月のその嗤い顔に微塵も動じる気配もなく、にこやかな微笑をますます花開かせて、
「女の目というのは当てになるようなならないような仕方のない物ですわ。まして私は蘇芳様への恋心でいっぱいなのですもの。つい邪推の一つも申し上げてみたくなりますのよ。けれども女性のお好みについては兎も角、蘇芳様が昔からお茶に関してお好みが明確でいらしたという事は論を俟ちませんわね」
「残念ながら──」
言いながら、冬月は慣れた手つきで自分の西洋茶碗に回転式の金の茶漉しを引っ掻け、紅茶淹れから朱色の液体を注ぎ始めた。
「この国ではなかなか納得のいく物は飲めませんけどね。まぁ最初から期待などしていないので問題はありませんが」
「蘇芳様は相変わらず何事にも正直でいらっしゃいますのね」
冬月の毒舌を臆するどころか寧ろ愉しんでいるような素振りで、澪子さんは美しい顔をより一層艶やかに綻ばせた。
思わずその笑顔に吸い寄せられていた僕は、自分の茶碗を満たし終えた冬月が、今度は僕の前に置かれた茶碗にも同じようにして紅茶を注ぎ始めたのを見ると、その思いも寄らない行動に吃驚して我に返り、徐々に満たされていく茶碗と、ごく自然な様子で紅茶を注ぐ冬月とを、何度も見比べてしまった。
青天の霹靂とも言うべき冬月の行動ではあったが、紅茶の注ぎ方など全くもってわからない僕には、まさに天の助けも同然だった。無様な振る舞いで衆目の嗤笑を誘い、如何にも高貴な生まれである事の窺える澪子さんに恥を掻かせてしまう事態を招く危険を避けられた安堵で、我知らず小さな吐息が漏れた。
「……有難う」
小聲に礼を言った僕に冬月は一瞬チラリと視線を寄越したが、すぐにまた手元に目を落として黙って茶碗を満たし終えると、再び椅子の背に深く凭れ掛かって、如何にも無聊をかこつように、組んだ脚をぶらぶらと動かした。
図らずも冬月のその不調法な仕草は、先程から極度の緊張を強いられていた僕の神経を僅かながら解す事に一役買った。
御蔭で幾らか落ち着いた僕の耳には、周囲でさざ波のように聞こえる客たちの低い話し聲や、食器の触れ合う微かな音と共に、西洋音楽を歌う女性の高い聲が流れ込んで来た。
喫茶室の隅に置かれた蓄音器から聴こえてくるらしい、その何処か騒々しい音楽に耳を傾けるともなしに傾けていると、
「オッフェンバックの『天国と地獄』。君もこういうのを好むのかい?」
僅かに頸を傾けて此方を見た冬月の言葉が質問の形で終わっている事はわかったが、聞き慣れない横文字に、僕は一瞬阿呆のようにきょとんと目を瞬かせた。
「え──? ……あっ、こ、この音楽か……。いや、僕はあまり……。その、音楽に疎くて……」
眼鏡を押し上げるふりをして、華やかな微笑で僕を見た澪子さんの視線から顔を隠していると、
「浅草オペラのレコードではなく西洋で録音された稀少盤を掛ける努力は認めるが、こういう場で聞かせる物としては内容の点で些か品位に欠けるな。あの物覚えの悪い給仕長は皮肉だけは一人前のようだ。集う客に当て擦っているのだとしたらいい趣味をしているよ」
「蘇芳様、不品行な方々ばかりではございませんことよ。現に私や蘇芳様、それに小鳥遊様だって……。──まぁ、小鳥遊様、どうかなさって?」
驚いたような澪子さんの気遣わしげな聲で、僕ははっと顔を上げた。
「お顔の色が優れませんわ。お加減が宜しくないのでは?」
「──あ……っ、い、いえ……その、し、失礼しました……何でもありません……」
浅草──という言葉に、今朝方琴枝の幻と交わした会話が甦り、知らぬ間に茫然自失となっていたようだ。
僕は強張った體をゆっくりと動かして、気に掛けるように僕を見詰める澪子さんと、横目でじっと此方を窺っている冬月に、何とか微笑を作って見せた。
しかし澪子さんの背後に立った猛禽の男の射竦めるような視線に気がつくと、灰色の不安の塊が卒然と腹の底で不穏な蠢動を始めるようで、僕は落ち着かない思いに意味もなく眼鏡を上げ下げした。
「何でもないのでしたら宜しいのですけれど……。もしかしてお疲れでいらっしゃるのではありませんか?」
「い、いえ、そんな事は……」
「失礼ではございますけれど、小鳥遊様は何かお仕事をなさっていらっしゃいますの?」
優しい微笑で訊ねる澪子さんに答えようとした僕より早く、歪に唇を吊り上げた冬月が割って入った。
「貴女にはこれがきちんとした仕事を持っている一人前の男子に見えるのですか」
「あら、それではやはり書生さんか何かでいらっしゃるのかしら」
「やはりと言う言葉が咄嗟に口を衝いて出ましたか」
「……まぁ、私そんなつもりでは……」
「いえいえ、気になさる事など一切ありません。誰がどう見てもこの面輪は生熟れですよ。ほら見ろ小鳥遊、立派なお遊戯だろ?」
冬月はいつもらしい揶揄の色に琥珀の瞳を光らせて、にやにやと僕を見た。
「お遊戯? 楽しそうなお話みたいですけれど、何の事ですの?」
「大して愉快な話ではありません。ちょっとした内輪の遣り取りです」
「あら、それは一層楽しそうですわね」
美しい微笑みを花と咲かせて僕と冬月とを見る澪子さんにドキリとした心臓が、一方ではキリキリと鋭く痛んだ。
──本当に、冬月は今日この場で、澪子さんに縁談の破棄を申し出るつもりなのだろうか……。
冬月がどういうつもりで僕をこの場に同席させたのかはわからないが、ひょっとすると緩衝材の役目を果たす何かが欲しかったのかもしれない。
然しもの冬月も、縁談を当人に対して直に断ろうというような暴状には気が咎めるのかもしれない。
──……だとするならば、冬月は案外と、僕が思う以上に良識的な男なのかもしれない。……しかしそうなると、「ただ黙ってそれらしく座っていれば良い」と言う訳にもいかないだろうが、かと言って僕にこの場を取り持つような大役が熟せるかどうか……。
第一、澪子さんの後ろで堅牢な岩のように直立するあの男が、仮に恥を掻いた主人の仇を討とうとするような性状の持ち主であったとしたら、最悪の事態に発展する可能性だって無きにしも非ずじゃないか……──。
様々に考えを巡らせ、一人気を揉んでいる僕の気を知ってか知らずか、冬月はますます皮肉な嗤いに頬を歪めると、僕を顎で指しながら、
「これでも彼は大日本帝国大学の研究室に勤めているのですよ」
「まぁ、それでは先生とお呼びしませんといけませんわね」
大きな黒い瞳を煌めかせて言った澪子さんに、僕は頭と手を同時にぶんぶんと勢いよく振った。
「せ、先生だなんてとんでもありません……っ。僕などは単なる雑用係で……」
「御謙遜を。大日本帝国大学にお勤めなさるなんて、余程優秀な方でなければ実現しませんわ」
「いや、澪子さん。小鳥遊は本当に雑用係ですよ。少なくとも僕の見知る限り、彼が雑務以外を熟しているところなど見た事がありません」
冬月は酷薄と表現するに相応しい嗤笑で僕を横目に見ながら言った。
澪子さんは冬月の言葉を本当とは受け取らなかったのか、長い睫毛に縁どられた美しい楕円形の目の中に生き生きとした耀きを瞬かせ、
「大学ではどういう研究をなさっていらっしゃるのですか?」
「あ、はい、いや、その、僕は研究をしている訳ではなく、あくまでも雑事を担って……」
「ごちゃごちゃとつまらない陳弁を並べ立てていないでさっさと質問に答え給え」
すげなく言う冬月に冷たい横目で一瞥され、僕はごくりと喉を鳴らすと、おずおずと口を開いた。
「……鳥類学を研究する先生の元で働かせて頂いています……」
「鳥類学? 大日本帝国大学で鳥類学といえば、御子柴教授の御専門じゃなかったかしら」
思いがけず澪子さんの口から御子柴先生の名が出た事に驚き、
「御子柴先生を御存知なのですか」
ぐっと身を乗り出してしまった僕をじろりと睨みつける猛禽の男の鋭利な視線に気がつき、僕はビクビクと椅子の背に體を引っ込めた。
「ええ……と申しましても、幼い頃に一、二度お目にかかったくらいですけれど。とは言え、今上帝の御縁戚に当たる方ですから、お顔を一方的に見知っている方々なども多くいらっしゃるでしょうね」
「え……っ!? じ、慈惇──」
思わず聲高に御尊名を口にしてしまいそうになって、慌てて調子を落とし、
「──……天皇の、御縁戚……?」
潜めた聲が知らず顫えた。
冬月は僕の頬に呆れた視線を突き立てながら、
「君、そんな事も知らなかったのか。あの研究室で一年もの間いったい何を見聞きしていたんだ」
「……研究員の人たちと口を利く事なんて殆どないし、御子柴先生御自身から私的な内容のお話を伺う機会もあまりないから……」
つい言い訳をするような口調で言った僕に頷いて、澪子さんが艶やかな葡萄色の唇を開いた。
「あの方は得意げに御自分の出自をお話になるような方ではないと思いますわ。教授のお父上が、確か宮家の御出身でいらしたのでしたわね?」
確かめるような視線を澪子さんに向けられた冬月は、無言のまま僅かに顎を引いて首肯した。
「……あの……天花寺さん」
遠慮しつつ呼び掛けた僕に、澪子さんはにっこりと微笑んで、
「どうぞ私の事は澪子とお呼びになって下さい。私、どんな方にも名前で呼んで頂くようお願い致しておりますのよ」
「そ、それでは……澪子さん……」
どぎまぎと名を呼んだ僕の額に、再び猛禽の視線が突き刺さった。この男は視線だけで人を射殺せそうだと半ば怯えながら眼鏡を押し上げ、
「幼い頃にお会いしたとの事でしたが、その、大変不躾な事をお伺いするようですが、ひょっとして澪子さんの御宅でも、先生に研究費の援助をなさっていらした事が……?」
慮外千万な質問だとは思いつつ、もしそうであった場合、何か失礼な発言をして不愉快な思いをさせてしまう事は避けたく、気が引けながらもそっと訊ねた僕に、澪子さんは花のような微笑を綻ばせると、
「寧ろ此方が御寄附を頂戴致しましたのよ」
「え?」
「教授がまだお若くて、御研究の勢い盛んな時分でもあったのでしょうけれど、私の父を訪ねていらした事がありましたの。その時に結構な額を戴いたと、後で父が申しておりましたのをよく憶えています。その時分、私はまだほんの幼い子どもでしたから、教授とは会話らしい会話は致しませんでしたけれど、とても美味しい外国のお菓子を下さいましたのよ。そのお菓子の味と私の頭を撫でて下さった優しい手や笑顔を、御子柴教授の名を耳にする折には必ず思い出しますの」
「そうでしたか……」
如何にも先生らしい話だという思いに心が和み、自然な笑顔が浮かんで来た。
澪子さんはそんな僕を見ると、ほんの少し頸を傾け、微笑を濃くした。その柔らかな笑みに勇気を得た僕は、再びの無礼を承知で口を開いた。
「……あの、度々失礼な事を伺うようですが、澪子さんの御父上も何かの御研究を……?」
ぎろっと目玉だけ動かして睨む猛禽の男に思わず首を竦めた僕に、澪子さんは僅かに視線を上向けて考えるようにしながら、
「研究をする……といった一面も無い事はありませんわね。けれど、どちらかと言うと舵取りに精を出すと言った方が適当かしら」
「あ、船長さんなのですか?」
「まあ、ふふ……。然に非ず──とは申しましても、組織と船は確かに似たような物かもしれませんわね」
「では実業家か何か……、──も、もしかして、政治家でいらっしゃるとか……」
「うふふ……」
俄かに緊張感を走らせながら言った僕に、澪子さんは臙脂色のレエスの手袋を嵌めた手を優雅に動かして、謎めいた微笑の浮かぶ唇を静かに覆った。
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