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其の五 狂鴉病事件
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大学の外には出たが、このまま下宿に戻るとちょうど住人たちと顔を合わせる時刻になる事を考えると、真っ直ぐ帰る気にもなれなかった。
大日本帝国大学近くの喫茶店はその場所柄の為か、早朝から深夜まで開いている店が幾つかあり、僕はどうしても時間を潰さなくてはならない事情がある時などには、そうした店の中でも一番遠く、且つ代金の安いある小さな一軒で珈琲を飲んだ。
別段珈琲が好きな訳ではなかったし、僕の懐事情から言っても、ハイカラな喫茶店などではなく、ミルクホール辺りで済ます事が出来れば申し分ないのだが、帝都に来てすぐの頃、偶然見つけた一軒のミルクホールにありったけの勇気を出して入ったところ、どういう勝手だったかは忘れたが、血気盛んな学生たちに取り囲まれ、難しい議論を吹っ掛けられた事があった。
もともと初対面の人間と話すのを苦手としていた上、難解な横文字混じりに口角泡飛ばす学生たちの気迫に気圧され、巧く答えられずにへどもどしていると、嘲笑混じりの罵聲が飛んで来た挙句、何かあやふやな事を口にした僕の言葉が逆鱗に触れたらしい一人の学生から、強か殴られて昏倒するという事態に遭遇してしまった。
それ以来、ミルクホールの看板を見ると、その時の恥ずかしさや屈辱感、殴られた頬の痛みなどが蘇って、とても入る気など起きなかった。
かと言って食欲が無い僕には、食堂などで食べもしない料理を注文する肝の太さも分厚い財布も持ち合わせては居ないし、元来酒が強い方ではないので、一杯飲み屋などの類いにも──酔客に絡まれる事態を避ける意味でも──入れない。結局、喫茶店に落ち着くしかなかった。
せいぜい人の少ない店を選んでいるうちに件の店に辿り着いたのだが、其処とてもやはり居心地がいいとは言い難かった。
埃が溜まった止まり木と、四人掛けの卓子が三つ入ってぎゅうぎゅうという狭さについては苦ではなかったが、店主の無愛想と飲食物の不味さには些か閉口だった。
けれど東京の垢抜けた人々に対するのと同様、あまりに洒落た店には気後れがしてしまう僕にとっては、客の少ないその店は、数少ない立ち寄れる場所という位置づけになっていた。
店の前まで辿り着くと、僕は俄かに白んで来た帝都の空を見上げ、大きく息を吐いて扉を開けた。未だに店に入る瞬間に、心臓がどきどきと妙な具合に鳴るのはどうしようもない。
日頃から客の少ないこの店には珍しく、早朝のこんな時間帯にもかかわらず、店内には先客が居た。
入口から一番離れた卓子席に、開店準備の合間を抜けて来たものか、何処かの店の番頭風の男と、近頃めっきり少なくなりつつある人力車の俥夫らしい二人組が座って、額を突き合わすようにして何事かひそひそと囁き交わしていた。
僕は仕方なく、普段は座らない止まり木に腰掛けて、相変わらず感じの悪い店主の親父に俯き加減に珈琲を注文した。
舌が焼けそうに熱い珈琲に口をつけた瞬間、斜め後ろの席で深刻そうに聲を潜めていた先客たちの一人が、出し抜けに驚いたような叫びを上げた。
「えっ、何だって?」
叫んだ俥夫らしき男はすぐさま聲を落とし、向かいに座った番頭風の男にひそひそと、
「もっぺん言ってくれ」
「…………だからだね、一昨日の早朝、あたしんとこの若旦那の遺體がだよ、とうとう見つかって引きあげられたんだよ。やっぱりあの様子じゃ狂鴉病事件に巻き込まれたと見て間違いないだろうね」
その言葉に僕の心臓が激しく跳ねた。
聞き耳を立てるなど甚だ無作法とは思いつつ、耳は勝手に聳った。
「そりゃ本当か。なんてこった。気風のいい人だったのになぁ。近頃じゃ円タク一辺倒で俺たち俥夫は商売あがったりだがよ、あの若旦那は自動車なんざくるまじゃねぇ、人力車こそが本当の俥だなんて言いなさってさ、俺たち俥夫相手にも気さくで偉ぶったところ一つなくてよ、降りる時には必ずお足の他に何か旨い物でも喰いなって幾らか握らせてくれてさぁ。べらぼうにいい男だったよ。惜しいなぁ……。……で、何処で見つかったんだい」
「……口止めされているもんであまり大きな聲では言えないけどね……井の頭公園の……」
「玉川上水か」
「そう。水衛所の職員がね、職業的勘っていう奴かねぇ、いつもと流れが違うって言って、すぐ羽村の取水堰に連絡して水を止めたら……案の定だよ。つっかえてたってさ……」
「なんまいだぶ、なんまいだぶ……。……それで……見たのかい……?」
「見た」
「やっぱり酷ぇ様子だったか」
「そりゃあねぇお前……。身元確認するって言うんで、現場まで直ちに来いと巡査が朝早くに呼びに来たんだが、大旦那様は若旦那の失踪以来寝たっきりだろ。それじゃ大奥様と奥様はっつったら、恐ろしがってとても行けないと仰る。だから仕方なしに、あたしと店の若いので行って仏さんを拝んだんだけどねぇ……。それでなくても土左衛門てぇのは酷いもんなのに、其処へもってきて鳥に喰い荒らされてると来ちゃあ……。駆け付けたはいいが、その有り様と来たらお前……思い出しても……胸が……。……店じゃ当分、あたし等の飯代は、かからないだろうよ……」
「……そいつぁお前、豪ぇ目に遭ったなぁ」
「豪いなんてもんじゃない、生き地獄だよありゃ。けど見つかった場所が場所なもんで、警察としては事故か自殺の線で片付けたいってぇのが見え見えでね。情死じゃねぇのかなんて言いやがる。でも若旦那は若奥様一筋だったし、第一お前、自殺なんてなさるお人柄じゃなかった」
「……遺された者の心中は如何ばかりかだな。お前、そんな大変な時に出て来て大丈夫なのかい」
「いや、ちっと抜け出さなきゃ息が詰まるってもんよ。第一、遺體の確認なんて役目やらされて酷い目に遭ったのは此方人等だよ。全く、こうなると親子も夫婦もあったもんじゃないね。大奥様なんざ家の周りに塩なんか撒いてよ、それじゃ足りねぇっつって、何処ぞで貰って来た霊験あらたかな札だとか言うのを屋敷中に貼っつけて廻ってさ。どうも妖怪変化の仕業だと信じ込んでいらっしゃるようでさ」
「ああ、巷じゃそういう噂も出ているからなぁ」
「それにしたって薄情だよ」
「こう犠牲者が続いたんじゃなぁ。おまけにいつまでも解決しねぇわ黒い大きな羽根が散らばってるわってんじゃ、ひょっとすると……なんて思いたくなる気持ちもわからんではねぇがなぁ」
「あたしはやはり伝染病にやられた鴉の仕業だと思うけどねぇ。ほら、この先の大日本帝国大学。黒い羽根の鳥を特定し損ねた御子柴とかいう学者がさ、敷地内で外国の珍しい鳥を飼育しているって言うだろ」
僕はぎくりと珈琲碗を持つ手を震わせた。
「その中の病気にやられた一羽が逃げ出したんじゃないかと睨んでいるんだがね」
「そんな噂もあるにはあるな。信じた連中が大学に押し入って石投げ込んだり籠城したりと、一時は随分と新聞を賑わしていたものなぁ。ついこの間も、その鳥の飼育小屋だか観察棟だかに火ぃつけようとして、お牢にぶち込まれたのが居たっけな」
その通りだった。先週、火炎瓶を手に大学に忍び込んだ連中が、風鳥の観察舎に火をつけようとしているところを、見廻り時間で通りかかった守衛に発見され、取り押さえられるという騒ぎがあったばかりだった。
「いずれにしてもお偉いさん達にゃ頑張って貰わねぇとな。早く対処を見つけてくれねぇと、おちおち寝てもいられねぇ。この頃じゃよ、お上に対する天の怒りじゃねぇかなんて噂する奴らまで出て来たからな」
「しっ。滅多な事を言うもんじゃないよ」
二人は殊更に聲を潜めると、取り繕うように軽く咳払いをし、飲んでいた珈琲の代金を卓の上に置いて、そそくさと店を出て行った。
僕は厭な汗に湿った掌をこっそりと上着の裾で拭いながら、どきどきと脈打つ心臓を必死に宥めようとした。店主が胡乱そうにじっと睨む目が、僕の心臓を更に煽り立てる。
と、背後で入り口の扉の開く音がして、入って来た客を確認しようと其方に目を遣った店主が、ぎょっとしたように目を見開いて動きを止めた。
店主の気が逸れた事にほっと胸撫で下していた僕だったが、風を連れて足早に入って来た客が真っ直ぐ僕の後ろにやって来て立ち止まったのに気がつくと、俄かに緊張が高まった。
知る人と言ってもそうは居ない帝都のこんな寂れた喫茶店で、僕に用事のある人間と行き合う事などざらにはない。
件のミルクホールの一件が脳裏を過り、またしても絡まれて痛い目を見る厭な予感にゴクリと喉を呑み込んで恐る恐る振り返って見ると、其処には、恐らく最新流行の型なのだろう海老茶の三つ揃いの背広上下に、同じく揃えて誂えたらしい海老茶の山高帽を目深に被った青年が、顎を深く引いた伏し目の姿で立っていた。
思いがけない時に出くわすと、それが見知った人物であっても一瞬誰かわからず、きょとんとする事が間々あるが、今がまさにそれだった。
ちょっとの間、ぼんやりと青年のすっとした立ち姿を眺めていた僕は、次の瞬間、青年の肩先に垂れ下がる赤褐色の髪が目に入ると、咄嗟にそれが誰であるかに思い至り、大きく息を吸い込んで止まり木の椅子から跳び上がるように立ち上がった。
「ふ、冬月……!?」
思わずその名を大きな聲で呼び、立ち上がった拍子にずり落ちた眼鏡を押さえた僕に、冬月蘇芳は顎を引いた伏し目のまま、形の良い唇の片端をくいっと吊り上げた。
大日本帝国大学近くの喫茶店はその場所柄の為か、早朝から深夜まで開いている店が幾つかあり、僕はどうしても時間を潰さなくてはならない事情がある時などには、そうした店の中でも一番遠く、且つ代金の安いある小さな一軒で珈琲を飲んだ。
別段珈琲が好きな訳ではなかったし、僕の懐事情から言っても、ハイカラな喫茶店などではなく、ミルクホール辺りで済ます事が出来れば申し分ないのだが、帝都に来てすぐの頃、偶然見つけた一軒のミルクホールにありったけの勇気を出して入ったところ、どういう勝手だったかは忘れたが、血気盛んな学生たちに取り囲まれ、難しい議論を吹っ掛けられた事があった。
もともと初対面の人間と話すのを苦手としていた上、難解な横文字混じりに口角泡飛ばす学生たちの気迫に気圧され、巧く答えられずにへどもどしていると、嘲笑混じりの罵聲が飛んで来た挙句、何かあやふやな事を口にした僕の言葉が逆鱗に触れたらしい一人の学生から、強か殴られて昏倒するという事態に遭遇してしまった。
それ以来、ミルクホールの看板を見ると、その時の恥ずかしさや屈辱感、殴られた頬の痛みなどが蘇って、とても入る気など起きなかった。
かと言って食欲が無い僕には、食堂などで食べもしない料理を注文する肝の太さも分厚い財布も持ち合わせては居ないし、元来酒が強い方ではないので、一杯飲み屋などの類いにも──酔客に絡まれる事態を避ける意味でも──入れない。結局、喫茶店に落ち着くしかなかった。
せいぜい人の少ない店を選んでいるうちに件の店に辿り着いたのだが、其処とてもやはり居心地がいいとは言い難かった。
埃が溜まった止まり木と、四人掛けの卓子が三つ入ってぎゅうぎゅうという狭さについては苦ではなかったが、店主の無愛想と飲食物の不味さには些か閉口だった。
けれど東京の垢抜けた人々に対するのと同様、あまりに洒落た店には気後れがしてしまう僕にとっては、客の少ないその店は、数少ない立ち寄れる場所という位置づけになっていた。
店の前まで辿り着くと、僕は俄かに白んで来た帝都の空を見上げ、大きく息を吐いて扉を開けた。未だに店に入る瞬間に、心臓がどきどきと妙な具合に鳴るのはどうしようもない。
日頃から客の少ないこの店には珍しく、早朝のこんな時間帯にもかかわらず、店内には先客が居た。
入口から一番離れた卓子席に、開店準備の合間を抜けて来たものか、何処かの店の番頭風の男と、近頃めっきり少なくなりつつある人力車の俥夫らしい二人組が座って、額を突き合わすようにして何事かひそひそと囁き交わしていた。
僕は仕方なく、普段は座らない止まり木に腰掛けて、相変わらず感じの悪い店主の親父に俯き加減に珈琲を注文した。
舌が焼けそうに熱い珈琲に口をつけた瞬間、斜め後ろの席で深刻そうに聲を潜めていた先客たちの一人が、出し抜けに驚いたような叫びを上げた。
「えっ、何だって?」
叫んだ俥夫らしき男はすぐさま聲を落とし、向かいに座った番頭風の男にひそひそと、
「もっぺん言ってくれ」
「…………だからだね、一昨日の早朝、あたしんとこの若旦那の遺體がだよ、とうとう見つかって引きあげられたんだよ。やっぱりあの様子じゃ狂鴉病事件に巻き込まれたと見て間違いないだろうね」
その言葉に僕の心臓が激しく跳ねた。
聞き耳を立てるなど甚だ無作法とは思いつつ、耳は勝手に聳った。
「そりゃ本当か。なんてこった。気風のいい人だったのになぁ。近頃じゃ円タク一辺倒で俺たち俥夫は商売あがったりだがよ、あの若旦那は自動車なんざくるまじゃねぇ、人力車こそが本当の俥だなんて言いなさってさ、俺たち俥夫相手にも気さくで偉ぶったところ一つなくてよ、降りる時には必ずお足の他に何か旨い物でも喰いなって幾らか握らせてくれてさぁ。べらぼうにいい男だったよ。惜しいなぁ……。……で、何処で見つかったんだい」
「……口止めされているもんであまり大きな聲では言えないけどね……井の頭公園の……」
「玉川上水か」
「そう。水衛所の職員がね、職業的勘っていう奴かねぇ、いつもと流れが違うって言って、すぐ羽村の取水堰に連絡して水を止めたら……案の定だよ。つっかえてたってさ……」
「なんまいだぶ、なんまいだぶ……。……それで……見たのかい……?」
「見た」
「やっぱり酷ぇ様子だったか」
「そりゃあねぇお前……。身元確認するって言うんで、現場まで直ちに来いと巡査が朝早くに呼びに来たんだが、大旦那様は若旦那の失踪以来寝たっきりだろ。それじゃ大奥様と奥様はっつったら、恐ろしがってとても行けないと仰る。だから仕方なしに、あたしと店の若いので行って仏さんを拝んだんだけどねぇ……。それでなくても土左衛門てぇのは酷いもんなのに、其処へもってきて鳥に喰い荒らされてると来ちゃあ……。駆け付けたはいいが、その有り様と来たらお前……思い出しても……胸が……。……店じゃ当分、あたし等の飯代は、かからないだろうよ……」
「……そいつぁお前、豪ぇ目に遭ったなぁ」
「豪いなんてもんじゃない、生き地獄だよありゃ。けど見つかった場所が場所なもんで、警察としては事故か自殺の線で片付けたいってぇのが見え見えでね。情死じゃねぇのかなんて言いやがる。でも若旦那は若奥様一筋だったし、第一お前、自殺なんてなさるお人柄じゃなかった」
「……遺された者の心中は如何ばかりかだな。お前、そんな大変な時に出て来て大丈夫なのかい」
「いや、ちっと抜け出さなきゃ息が詰まるってもんよ。第一、遺體の確認なんて役目やらされて酷い目に遭ったのは此方人等だよ。全く、こうなると親子も夫婦もあったもんじゃないね。大奥様なんざ家の周りに塩なんか撒いてよ、それじゃ足りねぇっつって、何処ぞで貰って来た霊験あらたかな札だとか言うのを屋敷中に貼っつけて廻ってさ。どうも妖怪変化の仕業だと信じ込んでいらっしゃるようでさ」
「ああ、巷じゃそういう噂も出ているからなぁ」
「それにしたって薄情だよ」
「こう犠牲者が続いたんじゃなぁ。おまけにいつまでも解決しねぇわ黒い大きな羽根が散らばってるわってんじゃ、ひょっとすると……なんて思いたくなる気持ちもわからんではねぇがなぁ」
「あたしはやはり伝染病にやられた鴉の仕業だと思うけどねぇ。ほら、この先の大日本帝国大学。黒い羽根の鳥を特定し損ねた御子柴とかいう学者がさ、敷地内で外国の珍しい鳥を飼育しているって言うだろ」
僕はぎくりと珈琲碗を持つ手を震わせた。
「その中の病気にやられた一羽が逃げ出したんじゃないかと睨んでいるんだがね」
「そんな噂もあるにはあるな。信じた連中が大学に押し入って石投げ込んだり籠城したりと、一時は随分と新聞を賑わしていたものなぁ。ついこの間も、その鳥の飼育小屋だか観察棟だかに火ぃつけようとして、お牢にぶち込まれたのが居たっけな」
その通りだった。先週、火炎瓶を手に大学に忍び込んだ連中が、風鳥の観察舎に火をつけようとしているところを、見廻り時間で通りかかった守衛に発見され、取り押さえられるという騒ぎがあったばかりだった。
「いずれにしてもお偉いさん達にゃ頑張って貰わねぇとな。早く対処を見つけてくれねぇと、おちおち寝てもいられねぇ。この頃じゃよ、お上に対する天の怒りじゃねぇかなんて噂する奴らまで出て来たからな」
「しっ。滅多な事を言うもんじゃないよ」
二人は殊更に聲を潜めると、取り繕うように軽く咳払いをし、飲んでいた珈琲の代金を卓の上に置いて、そそくさと店を出て行った。
僕は厭な汗に湿った掌をこっそりと上着の裾で拭いながら、どきどきと脈打つ心臓を必死に宥めようとした。店主が胡乱そうにじっと睨む目が、僕の心臓を更に煽り立てる。
と、背後で入り口の扉の開く音がして、入って来た客を確認しようと其方に目を遣った店主が、ぎょっとしたように目を見開いて動きを止めた。
店主の気が逸れた事にほっと胸撫で下していた僕だったが、風を連れて足早に入って来た客が真っ直ぐ僕の後ろにやって来て立ち止まったのに気がつくと、俄かに緊張が高まった。
知る人と言ってもそうは居ない帝都のこんな寂れた喫茶店で、僕に用事のある人間と行き合う事などざらにはない。
件のミルクホールの一件が脳裏を過り、またしても絡まれて痛い目を見る厭な予感にゴクリと喉を呑み込んで恐る恐る振り返って見ると、其処には、恐らく最新流行の型なのだろう海老茶の三つ揃いの背広上下に、同じく揃えて誂えたらしい海老茶の山高帽を目深に被った青年が、顎を深く引いた伏し目の姿で立っていた。
思いがけない時に出くわすと、それが見知った人物であっても一瞬誰かわからず、きょとんとする事が間々あるが、今がまさにそれだった。
ちょっとの間、ぼんやりと青年のすっとした立ち姿を眺めていた僕は、次の瞬間、青年の肩先に垂れ下がる赤褐色の髪が目に入ると、咄嗟にそれが誰であるかに思い至り、大きく息を吸い込んで止まり木の椅子から跳び上がるように立ち上がった。
「ふ、冬月……!?」
思わずその名を大きな聲で呼び、立ち上がった拍子にずり落ちた眼鏡を押さえた僕に、冬月蘇芳は顎を引いた伏し目のまま、形の良い唇の片端をくいっと吊り上げた。
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