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其の四 鬱屈とした現実
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陰鬱に沈み込む僕を、お下げを揺らした琴枝の幻が叱咤した。
──ほらほら、柊萍さん。元気を出さなくては駄目よ。ね、もうじき夜が明けるわ。柊萍さんはバスにも市街電車にも乗れないのだから、早く着替えて出掛けなくては遅刻してしまってよ。……それにしたって、バス一つ乗れないなんて、本当に弱虫ねぇ。
「君はそうは言うけど、あんなに押し合いへし合いする中に閉じ込められたら息も出来ないじゃないか。知らぬ間に財布を掏られているかもしれないし、人込みには近づかない方が身の為だよ」
──……ふうん。身の為ねぇ……。
僕はどきりとして顔を上げ、慌てて眼鏡を押し上げた。
真っ黒な大きな目が、じっと僕を見ているのにどぎまぎしながら、僕はしどろもどろ言い訳をするように言った。
「……そ、そりゃ僕だって、追い剥ぎにでも遭って、いっそあっさりと包丁や何かで刺されでもして死んでしまえるというならいいさ。けれど、蛇の生殺しみたいな目に遭わされたのでは、敵わないよ……」
──……そうねぇ、そりゃあそうでしょうとも。
「────…………」
小さな文机と前の住人の置き土産の壁掛け丸鏡しかない殺風景な四畳半に、息詰まる沈黙が影を落としていた。
──いいわよ、何だって。兎に角、あたしとしては柊萍さんがいつまでも都会の暮らしに馴染めないのを心配してあげるだけよ。
「そ、そうだね……、有難う……」
取り繕うように引き攣った笑顔を琴枝に見せ、僕は重い體を布団から無理に引き剝がし、未だに着慣れないシャツとズボンの洋装に着替え始めた。
何とか手勝手を覚えたタイを襟元に締めていると、長押に掛けた夏物の背広の袖口が擦り切れ掛けているのが目に付いた。
──随分と草臥れているわねぇ。そろそろ衣替えをしてはどう?
立ち現れる場所を長押の下に変え、しげしげと吊り下げられた背広を見回しながら言う琴枝に、僕は困ったような笑みを向けた。
「さすがに冬の物を羽織るにはまだ暑いよ。それに、虫食いの跡をまだ修繕していないから……」
──そうだったわねぇ。だけどもう冬支度の話をする時期なのねぇ。
「うん、そうだね……」
帝都で冬を迎えるのは二度目だ。
冬の寒さは郷里も帝都も変わらない。
けれど、琴枝が姿を消し、ぽっかりと穴の開いた心に降り積もる雪の冷たさと重みは、僕の骨身にかつてない凍瘡を生じさせ、今にも壊疽してしまいそうだった。
項垂れるように毛羽立った畳に目を落とし、何とか着替えを終えた僕は、軋む廊下に出て、あちこちの部屋から聞こえる鼾の間を縫って外に出た。
降り続いていた雨は、やはり止んでいた。
だが空には厚い雲が垂れ込めていた上、連日の雨天ですっかり澱み切った空気は體に纏わりつくように重かった。
下宿の家賃には朝食と夕食の分が含まれていたが、帝都に出て来て以来めっきり食欲を落としていたし、悠長に朝飯を食べる時間などは持ち合わせていない。
もう間もなくすれば、この帝都東京は急速に目を覚まし始める。
朝の早い帝都に於いて、未だ人の多さに慣れず、何処に行くにも徒歩の僕は、勤め先の大日本帝国大学へ向かうにも、これぐらい早いうちから下宿を出なければならないのだ。
市街電車かバスに乗ればもう少し朝寝をする余裕はあるが、そんな酔狂に身を投じるなんて、僕にとっては浅草十二階付近をうろつく事と同等に剣呑な難事だった。
──いいわねぇ、浅草……! 仲見世通り、行ってみたいわぁ。
ときめきに浮き立つような聲が耳元に聞こえ、ゆらゆらと揺れる琴枝の幻が傍らに現れた。
琴枝はふわふわと浮いて僕の隣を滑るようについて来ながら、
──あたし、観光らしい観光も出来ないうちにあんな事になったのよ。ね、柊萍さん。可哀相だと思ってくれてよね?
「…………」
──あたし、人形焼きなんか食べてみたいわぁ。
琴枝はうっとりした口ぶりで言いながら、ちらりと上目遣いに僕の顔を見た。
「そんな無理を言わないでくれよ。あんな人の多い所、考えただけで酔ってしまうよ。第一、此処からでは遠いじゃないか」
──そりゃあ歩けば遠いでしょうよ。つまらないわねぇ。……でも仕方ないわね、蛇の生殺しなんですものね。
「────」
──本当に臆病なんだから。厭になっちゃう。……ね、柊萍さん。あの人に一緒に行ってくれるように頼んではどうかしら?
「あの人って、まさか冬月の事かい?」
僕は思わず傍らの琴枝を振り向いた。
まだ薄暗い通りを向こうから歩いて来た男が一人、虚空に向かって話しかける僕を怪訝な目で見ながら通り過ぎた。
「……君があんまり吃驚するような事を言い出すから、つい大きな聲を出してしまったじゃないか……」
聲を落とし、知らず咎めるような口調で言った僕に頬を膨らませ、琴枝はお下げをいじった。
──どうしてそんなに吃驚しなきゃいけないの?
「当り前じゃないか。とんでもない事を言い出すんだから……」
──……あたし、行ってみたいんだもの。人形焼きやお団子を食べてみたいんだもの。柊萍さん一人ではとても行く気にはなってくれそうにないんだもの。だから言ったのよ、あの人に頼むのはどうかしらって。
「冗談言っちゃいけない。あの冬月にそんな事……」
──でも、あの人以外に頼めるような人が居て?
「冬月にこそ頼めないよ」
──あら、どうして?
「どうしてって、そりゃあ──……」
言い掛けた脳裏に、寒月に浮かぶ深い緋色を思わす影が旋風のように過った。
僕はその影を振り切るように何度か強く目を瞬かせると、眼鏡を押し上げて言った。
「どうしても何も、冬月はそんな事を頼めるような相手じゃないだろ。第一、冬月は旅行中で、いつ帰って来るかも知らされていない。……いや、そんなのは僕の立場では当然だけどね……。いずれにしたって、あの冬月蘇芳に頼み事をするなんて無理だよ。そんなのが許される間柄じゃないんだ」
──……本当につまらないんだから。あたし、これじゃあ何の為に東京に出て来たのかわからないわ。まるで死に損よ。
「……!!」
息を呑んで立ち止まった僕に「いっ」と舌を出してそっぽを向き、琴枝はまたゆらゆらと揺れながら消えてしまった。
心臓がどくどくと厭な具合に鼓動を打っていた。
僕は額に滲んだ汗を手の甲で拭うと、重い足を引き摺って再び歩き出した。
僕の見ている幻の琴枝は、もう記憶の中の本当の琴枝とは違っていた。
実際の琴枝は、何か気に入らない事があったり、軽い口喧嘩をしたりと言った時にも、思わず微笑んでしまいそうな可愛らしさで拗ねたり、泣きべそを掻くような事はあっても、あんな風に厭味な言い方で当てこすって罪悪感を煽るような娘ではなかった。
琴枝の幻影を見始めた当初は、あくまで記憶の凝縮のような物でしかなかった。
ただ微笑んでいるだけだったり、一言二言短い言葉を口にしたりするだけの、儚い記憶の再現に過ぎなかった。
それが次第に本当に生きて其処に居るのではと勘違いしてしまいそうな程の生気を帯び始めると、琴枝の幻が話す言葉も飛躍的に増え、その口ぶりは生き生きと鮮明なものになっていった。
僕の記憶の籠の外に出た琴枝は新たな人格をさえ得、僕を離れて自由に飛び回るかのようだった。
とは言え、琴枝の幻が言う事は、結局のところ普段は押し隠した僕の本音なのだった。
琴枝の口を借り、まるで琴枝がそうするのだというように僕自身を詰り、糾弾する事で、無意味に生きる事への罪悪感を抑えようとしているだけだ。
琴枝の幻の懐に逃げ込む僕は、所詮は自分勝手で臆病な男に過ぎないのだ。
──卑怯な奴……。自分自身に反吐が出る────。
考え事をしながら歩いているうちに、大日本帝国大学に到着していた。無意識に歩いていても辿り着けるぐらいにはこの町で暮らしているのだという事実が、却って僕の虚しさを煽り立てる。
溜息を吐きながら、連日の雨ですっかりぬかるんだ敷地を歩いて研究棟に入り、薄暗く長い廊下を進んで御子柴研究室の扉の前に立った。
しかし施錠されている事に気がつくと同時に、今日は御子柴先生が河原崎主任や的場副主任をはじめ、研究員の多くを伴って鳥類学会の会合に出席する為、臨時の休みとなっていた事を思い出した。
──何と間の抜けた事だ……。
僕は力なく首を振り、とぼとぼと長く暗い廊下を引き返した。
──ほらほら、柊萍さん。元気を出さなくては駄目よ。ね、もうじき夜が明けるわ。柊萍さんはバスにも市街電車にも乗れないのだから、早く着替えて出掛けなくては遅刻してしまってよ。……それにしたって、バス一つ乗れないなんて、本当に弱虫ねぇ。
「君はそうは言うけど、あんなに押し合いへし合いする中に閉じ込められたら息も出来ないじゃないか。知らぬ間に財布を掏られているかもしれないし、人込みには近づかない方が身の為だよ」
──……ふうん。身の為ねぇ……。
僕はどきりとして顔を上げ、慌てて眼鏡を押し上げた。
真っ黒な大きな目が、じっと僕を見ているのにどぎまぎしながら、僕はしどろもどろ言い訳をするように言った。
「……そ、そりゃ僕だって、追い剥ぎにでも遭って、いっそあっさりと包丁や何かで刺されでもして死んでしまえるというならいいさ。けれど、蛇の生殺しみたいな目に遭わされたのでは、敵わないよ……」
──……そうねぇ、そりゃあそうでしょうとも。
「────…………」
小さな文机と前の住人の置き土産の壁掛け丸鏡しかない殺風景な四畳半に、息詰まる沈黙が影を落としていた。
──いいわよ、何だって。兎に角、あたしとしては柊萍さんがいつまでも都会の暮らしに馴染めないのを心配してあげるだけよ。
「そ、そうだね……、有難う……」
取り繕うように引き攣った笑顔を琴枝に見せ、僕は重い體を布団から無理に引き剝がし、未だに着慣れないシャツとズボンの洋装に着替え始めた。
何とか手勝手を覚えたタイを襟元に締めていると、長押に掛けた夏物の背広の袖口が擦り切れ掛けているのが目に付いた。
──随分と草臥れているわねぇ。そろそろ衣替えをしてはどう?
立ち現れる場所を長押の下に変え、しげしげと吊り下げられた背広を見回しながら言う琴枝に、僕は困ったような笑みを向けた。
「さすがに冬の物を羽織るにはまだ暑いよ。それに、虫食いの跡をまだ修繕していないから……」
──そうだったわねぇ。だけどもう冬支度の話をする時期なのねぇ。
「うん、そうだね……」
帝都で冬を迎えるのは二度目だ。
冬の寒さは郷里も帝都も変わらない。
けれど、琴枝が姿を消し、ぽっかりと穴の開いた心に降り積もる雪の冷たさと重みは、僕の骨身にかつてない凍瘡を生じさせ、今にも壊疽してしまいそうだった。
項垂れるように毛羽立った畳に目を落とし、何とか着替えを終えた僕は、軋む廊下に出て、あちこちの部屋から聞こえる鼾の間を縫って外に出た。
降り続いていた雨は、やはり止んでいた。
だが空には厚い雲が垂れ込めていた上、連日の雨天ですっかり澱み切った空気は體に纏わりつくように重かった。
下宿の家賃には朝食と夕食の分が含まれていたが、帝都に出て来て以来めっきり食欲を落としていたし、悠長に朝飯を食べる時間などは持ち合わせていない。
もう間もなくすれば、この帝都東京は急速に目を覚まし始める。
朝の早い帝都に於いて、未だ人の多さに慣れず、何処に行くにも徒歩の僕は、勤め先の大日本帝国大学へ向かうにも、これぐらい早いうちから下宿を出なければならないのだ。
市街電車かバスに乗ればもう少し朝寝をする余裕はあるが、そんな酔狂に身を投じるなんて、僕にとっては浅草十二階付近をうろつく事と同等に剣呑な難事だった。
──いいわねぇ、浅草……! 仲見世通り、行ってみたいわぁ。
ときめきに浮き立つような聲が耳元に聞こえ、ゆらゆらと揺れる琴枝の幻が傍らに現れた。
琴枝はふわふわと浮いて僕の隣を滑るようについて来ながら、
──あたし、観光らしい観光も出来ないうちにあんな事になったのよ。ね、柊萍さん。可哀相だと思ってくれてよね?
「…………」
──あたし、人形焼きなんか食べてみたいわぁ。
琴枝はうっとりした口ぶりで言いながら、ちらりと上目遣いに僕の顔を見た。
「そんな無理を言わないでくれよ。あんな人の多い所、考えただけで酔ってしまうよ。第一、此処からでは遠いじゃないか」
──そりゃあ歩けば遠いでしょうよ。つまらないわねぇ。……でも仕方ないわね、蛇の生殺しなんですものね。
「────」
──本当に臆病なんだから。厭になっちゃう。……ね、柊萍さん。あの人に一緒に行ってくれるように頼んではどうかしら?
「あの人って、まさか冬月の事かい?」
僕は思わず傍らの琴枝を振り向いた。
まだ薄暗い通りを向こうから歩いて来た男が一人、虚空に向かって話しかける僕を怪訝な目で見ながら通り過ぎた。
「……君があんまり吃驚するような事を言い出すから、つい大きな聲を出してしまったじゃないか……」
聲を落とし、知らず咎めるような口調で言った僕に頬を膨らませ、琴枝はお下げをいじった。
──どうしてそんなに吃驚しなきゃいけないの?
「当り前じゃないか。とんでもない事を言い出すんだから……」
──……あたし、行ってみたいんだもの。人形焼きやお団子を食べてみたいんだもの。柊萍さん一人ではとても行く気にはなってくれそうにないんだもの。だから言ったのよ、あの人に頼むのはどうかしらって。
「冗談言っちゃいけない。あの冬月にそんな事……」
──でも、あの人以外に頼めるような人が居て?
「冬月にこそ頼めないよ」
──あら、どうして?
「どうしてって、そりゃあ──……」
言い掛けた脳裏に、寒月に浮かぶ深い緋色を思わす影が旋風のように過った。
僕はその影を振り切るように何度か強く目を瞬かせると、眼鏡を押し上げて言った。
「どうしても何も、冬月はそんな事を頼めるような相手じゃないだろ。第一、冬月は旅行中で、いつ帰って来るかも知らされていない。……いや、そんなのは僕の立場では当然だけどね……。いずれにしたって、あの冬月蘇芳に頼み事をするなんて無理だよ。そんなのが許される間柄じゃないんだ」
──……本当につまらないんだから。あたし、これじゃあ何の為に東京に出て来たのかわからないわ。まるで死に損よ。
「……!!」
息を呑んで立ち止まった僕に「いっ」と舌を出してそっぽを向き、琴枝はまたゆらゆらと揺れながら消えてしまった。
心臓がどくどくと厭な具合に鼓動を打っていた。
僕は額に滲んだ汗を手の甲で拭うと、重い足を引き摺って再び歩き出した。
僕の見ている幻の琴枝は、もう記憶の中の本当の琴枝とは違っていた。
実際の琴枝は、何か気に入らない事があったり、軽い口喧嘩をしたりと言った時にも、思わず微笑んでしまいそうな可愛らしさで拗ねたり、泣きべそを掻くような事はあっても、あんな風に厭味な言い方で当てこすって罪悪感を煽るような娘ではなかった。
琴枝の幻影を見始めた当初は、あくまで記憶の凝縮のような物でしかなかった。
ただ微笑んでいるだけだったり、一言二言短い言葉を口にしたりするだけの、儚い記憶の再現に過ぎなかった。
それが次第に本当に生きて其処に居るのではと勘違いしてしまいそうな程の生気を帯び始めると、琴枝の幻が話す言葉も飛躍的に増え、その口ぶりは生き生きと鮮明なものになっていった。
僕の記憶の籠の外に出た琴枝は新たな人格をさえ得、僕を離れて自由に飛び回るかのようだった。
とは言え、琴枝の幻が言う事は、結局のところ普段は押し隠した僕の本音なのだった。
琴枝の口を借り、まるで琴枝がそうするのだというように僕自身を詰り、糾弾する事で、無意味に生きる事への罪悪感を抑えようとしているだけだ。
琴枝の幻の懐に逃げ込む僕は、所詮は自分勝手で臆病な男に過ぎないのだ。
──卑怯な奴……。自分自身に反吐が出る────。
考え事をしながら歩いているうちに、大日本帝国大学に到着していた。無意識に歩いていても辿り着けるぐらいにはこの町で暮らしているのだという事実が、却って僕の虚しさを煽り立てる。
溜息を吐きながら、連日の雨ですっかりぬかるんだ敷地を歩いて研究棟に入り、薄暗く長い廊下を進んで御子柴研究室の扉の前に立った。
しかし施錠されている事に気がつくと同時に、今日は御子柴先生が河原崎主任や的場副主任をはじめ、研究員の多くを伴って鳥類学会の会合に出席する為、臨時の休みとなっていた事を思い出した。
──何と間の抜けた事だ……。
僕は力なく首を振り、とぼとぼと長く暗い廊下を引き返した。
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