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其の三 御子柴玄人

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──ねぇ柊萍しゅうへいさん。そう悄気しょげていないで、御本の続きでも読んだら?

 耳元に軽やかに鈴を振るようなこえが聞こえ、顔を上げた。
 ゆらゆらと陽炎かげろうのように空気を揺らして現れた琴枝の幻が、僕の目の前にきちんと正座をし、にこにこと笑っていた。
 琴枝は目線で枕元の御子柴先生の最新の著書──『有翼の歴史──偉大なる鳥を巡る人間の遍歴』を指した。
 この高額の本は御子柴先生が研究室の蔵書の中から貸して下さった物だった。
 先生の役に立てる事があるかもしれないという思いもあり、勉強するつもりで身を入れて読もうとするのだが、内容が難解過ぎて、ページ遅々ちちとして進んでいなかった。
 僕は重いからだをごろりと反転させて腹這いになると、分厚い書物の固い表紙に手を伸ばし、無意味にぱらぱらと頁をった。

 ──……而して従前の拙著に記した認識の過ちこそ最大の斧鉞であり、翳鳥をして四霊たる瑞獣、鳳凰の苗裔たる鸞とその後胤である青鸞の祖とは言わず……──

 ──……亦此処に風鳥の最古の英姿を見出さんと試みる時、同時に最古の人間の原型とその亜種たるを塑像せしむる全能の神の偉業と併存するが如く、その鴻業を以てして……──

 ──……就中、鳥類の白眉を西洋人の始祖たる天使と定義するにあたっては基督教に於ける精神性の黎明と並列して喚起される人間人類の普遍的霊性の……──

「……さっぱり理解出来ない……」
 僕は溜息ためいきを吐いて本から手を放すと、再び仰向あおむけになって天井を見詰めた。
 御子柴先生のこの著作はどうやらその大部分が西洋において信教される神と天使についての考察で占められている他、『進化論』についてもかなりのページいて言及げんきゅうしている模様だったが、そもそも僕は鳥類学など全くの門外漢である上、西洋の宗教思想や『進化論』などについても馴染なじみがないと来ている為、これらがいったいどう結び付くのかもわからず、半分も読み進めないうちからあきらめの倦怠けんたいに本を投げ出さん勢いとなっていた。
 結局、御子柴先生のお役に立ちたいという気持ちだけがむなしく空回りしていた。

 ──柊萍しゅうへいさんたら。そんな事じゃ子ども達のお手本とは言えなくてよ?

 琴枝は溜息を吐いた僕にぐっと顔を近づけ、わざとらしく叱るような口ぶりで言った後、可笑おかしくて笑い出したいのを無理にこらえる時の癖で下唇を噛んだ。
「……そうか……、……うん、そうだね……。……皆、元気にしているかな……」
 呟いた頭の中に、懐かしい故郷の尋常小学校と、子ども達の顔が思い浮かんだ。
 代用教員としての奉職だったが、考えてみれば僕には本当に勿体もったいない、尊い仕事だった。
 今更ながら後先考えずに辞職してしまった愚行が悔やまれる。

 ──また自分を責めてるの? もう、そんな顔をしないで。またいやになってるのね、自分が。そう言うの、何て言ったかしら。ねぇ、柊萍さん?

「……自己嫌悪かい?」

 ──そうそう、それそれ。そんな物、後生大事に抱え込んでいる事なんかないのに。柊萍さんの生真面きまじめ目な性格がそんなところにも出ているのかしらねぇ。

「そんなんじゃないよ。ただ、僕は自分だけ、こうしてのうのうと生きている事がたまらないんだよ……」

 ──本当に仕様のない人ねぇ。ね、ほら、先生の事を思い出して。あの白いおひげを生やしたお優しい顔を思い出せば、つまらない自己嫌悪なんてなくなるわよ。

 琴枝の言葉に誘われて懇篤こんとくな人柄を象徴しているような御子柴みこしば先生の微笑が思い浮かぶと、郷里で初めて会った時の事が、まるで昨日の事のように思い出された。

 鳥類学者、御子柴玄人みこしばつねひと教授──。
 この国の英知とすいが集められた大日本帝国大学に籍を置く御子柴先生が風鳥ふうちょうの研究を専門にしていると知ったのは、先生が帝都に帰る前夜に開かれた宴席上だった。
「──風鳥……ですか」
「うん。極楽鳥と言った方が馴染なじみがあるかな」
「あ、それなら聞いた事があります」
「一般的にはあまり知られていないけれど、とても美しい外国の鳥だよ。熱帯の島々に生息しているんだが、人里離れた森の奥深くに暮らしてほとんど人目に触れる機会もない上、渡りをしないから世界に向けて知名度を上げるという点では不利なのかもしれないね」
「不利、ですか」
「ははは、妙な言い方だけどね」
 先生は酒でほんのり赤くなった額を小さくなぞるようにきながら笑った。



「わたしはね、小鳥遊君。この時勢でこういう事を口にするのははばかられるのかもしれないが、やはり鳥こそが生物としての究極だと考えるんだよ。残念だが、今この国では黒い鳥のみならず鳥類全般を嫌悪する風潮が広がりつつあるが、骨格や鳴管めいかんなどの各器官をはじめ、からだの構造はまさに種としての優位性を示して余りある。わたしは確かに風鳥の研究者だが、しかし今回の調査対象だったノスリに対しても、その比類のない完全性に脱帽する思いで胸はいっぱいだよ。本当に、鳥類というものに対する畏敬の念を禁じ得ない。どうだね、君も同感してくれるだろうか」
「……そう……ですね……。何分僕は鳥に詳しい方ではないので……」
 僕は曖昧あいまいに言葉尻をにごし、先生の酒坏さかづきに酒を注いだ。
 その時分、僕の郷里で、群れを形成しないはずのノスリが五、六羽で行動しているという事例が鳥類学会の会合の席上で報告された事を受け、東京や京阪の学者を中心に結成された調査団が町を訪れる事になり、御子柴先生はその一員としてその調査旅行に参加していたのだった。
 当時勤めていた尋常小学校の校長が調査団の世話役を県から仰せつかったのだが、くだんのノスリの集団形成が見られた地点が偶然にも僕が世話になっていた青葉家の付近だった事もあり、校長と一緒に一月ひとつき間にわたり、調査団の世話をする事になったのだ。
 しかし一介の代用教員である僕には都会から来駕らいがする偉い学者たちを前に失礼がないように振る舞えるだけの自信などなかった上、実のところ猛禽もうきんというものが苦手だった。
 だからノスリが集団で飛び回っているような場所にも、権威の権化のような都会の学者先生たちにも近づきたくない、と言うのが僕の本音ではあった。
 けれど如何いかにも識者然とした一行の中に、まるで好奇心に溢れる少年のような瞳でにこにこと楽し気な、つ優しい微笑を見せる御子柴先生を見つけた瞬間、訳もなく心がかれた。
 そして如何いかにも頼りなくしたる学歴などもない僕に対しても、何ら分けへだてるところなく接してくれる先生の人柄に、僕の緊張は、気がついた時には跡形もなくほぐされていた。
 いささか軟弱で感傷的であると非難される事を恐れずに告白するならば、早くに両親を亡くした僕は、年がずっと上の男性や女性に対して理想的な父母の像を重ねて憧れるという幼い時分の傾向を成人してからも持ち続けていた為、御子柴先生に対しても、父親的存在への憧憬どうけい思慕しぼを抱いたというのが正直な気持ちだった。
 だから先生の傍らに座って、得意な方ではない酒を飲む行為の上に、僕はもしも父親が生きていればこうして酒をみ交わす事もあったかもしれないという思いを重ね、物寂しい気持ちになっていた。
 明日には先生は帰ってしまうのだという寂寥せきりょうも、僕の感傷を深めていた。
「いやぁ、小鳥遊たかなし君。君の御蔭で今回の調査旅行は実に楽しいものになったよ」
「そんな……。何分立派な大学出という身でもありませんので、先生をはじめ皆さま方には至らない事ばかりだったと恥ずかしくて仕方がありません」
「いやいや、小鳥遊君。わたしはね、君のその謙虚さと誠実さに、いたく感じ入っていたんだよ。近頃では君のような──」
 その時、手伝いを買って出た尋常小学校の先輩に当たる女の教師が僕の隣の座布団に座り、先生の話の腰を折る恰好かっこうで割って入った。
「まぁ、お二人は随分ずいぶん仲がよろしいんですねぇ」
 酒が入っているせいか、名前もあまりよく知らないその人は、妙なぐらいの親しさで笑い掛けながら、僕の腕に手を置いた。一瞬不快な感覚が腕をい上がったが、あからさまにいやな顔をする訳にもいかず困惑こんわくしていると、
「失礼だが学術上の重要な話の最中でね。あ、ほら。向こうの大阪帝大の教授、さっきから美人の君を気にして落ち着かないようだ。ひとつ酒でも注いでやってはくれないかね?」
 にこやかに身を乗り出した御子柴先生に、女教師は真っ赤な唇を大袈裟おおげさに手でおおい、
「ま、年増女を揶揄からかうなんて先生はお人が悪いですわ。でも、折角せっかくのお話のお邪魔をしては申し訳ありませんから」
 言って、立ち上がりざま僕の肩に手を掛けて、
「また学校でね」
 と囁くように言って、去っていった。
 額に浮き出たいやな汗をさり気なくぬぐっていると、
「──何処にもああいう女性は居るものだね」
 低い先生の聲に、わずかな嫌悪をぎ取り、僕は慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません……。僕がうまく合いの手を入れて居れば……」
 先生はまたほがらかな笑顔を浮かべると、
「いやいや、今の様子でますます君が近頃には稀有けうな青年だという事がわかった。いや、こんな事を言うようになってはわたしも老い先短いと言っているようなものだがね、しかし老人の戯言ざれごとと思って耳を傾けて欲しい。わたしはね、君のような青年が未来を担う子ども達の教育に深くたずさわる事こそ、この大本帝国の将来にとって絶対必要だと信じているんだ。大衆は我が国が列強に肩を並べるようになった事を誇っているが、日本が今や大国であるという民衆の信念はまやかしでしかないかもしれない。いや、これは決して国家を批判しているのではないよ。しかし科学は日々進歩している。それに伴って思想や観念も成長していく。健全な拡大ならば問題はないが、一度ひとたび肥大という事になると、それは大いなる過ち、不幸へと足を突っ込む事にも等しい。これは嘆かわしい悲劇だ。──時に小鳥遊君。聞いたところによると、君は自分で作った物語を子ども達に朗読してやっているそうだね。子どもたちの方でも、随分ずいぶんと君の物語を楽しみにしているとか……」
「お、お恥ずかしい限りです。つづかたに毛が生えたようなもので……」
謙遜けんそんする事はない。君は少し控え目になり過ぎるようだが、子ども達に好かれるいい先生に違いない。生真面目さは時に一本気が形を変えて表出したものでもあるが、君の場合も恐らくそれに当たるんじゃないかね。この一月ほど、多分に意志の強さというものを感じられたよ」
「……よ、よく、僕は頑固で扱い難いと、幼馴染おさななじみにもたしなめられます……」
「ははは、それは困ったね。だが強い信念というものは自分を助けてくれるものでもあるからね。──ところで、小鳥遊君。君は幼少のみぎりに御両親を相次いで亡くし、親戚筋でもない他人の家に引き取られたそうだね」
 御子柴先生の質問に、僕は一瞬身を硬くした。
 幼少時から自分の身の上に引け目を感じていた僕は、自分の事を誰か他の人に話す事を避けたいと思う気持ちがあった。
 しかし一月ひとつきわたって御子柴先生と共に過ごすうちに、先生に対する信頼と尊敬の念を深くしていた僕は、慣れない酒の力もあって、自然と先生に対して胸襟きょうきんを開く心持ちになった。
 それで素直に頷くと、
「──はい……。今も其方そちらで──青葉家でお世話になっています……」
 僕の返事に御子柴先生は白い髭を一度、でるように触って、
「ふむ……。そういう場合、君の年齢になるより前に──……あぁ、失礼だが、君は幾つになるのだったかね?」
「……二十はたちになります」
「そうか、うん……。君のような事情では、もっと早い時分に独り立ちをするものと思うが、今もその青葉さんの御宅に身を寄せているのには何か訳があるのかな? いや、立ち入った事を聞くようだが、青葉家では商売をしているとも聞いたものでね、ひょっとして、その家に奉公しながら代用教員として務めているのかと気になったんだがね」
「あ、いえ、そういう訳ではないんです……」
「ふむ……?」
「……その……、両親を亡くした後、親戚の家を転々としていましたが、皆貧しくて僕を養う余裕まではなくたらい回しになっていたところを、見るに見兼ねてくださったのでしょうか、たまたま近所で駄菓子屋を営んでいた青葉家が、引き取ると申し出てくれたんです。その家の一人娘である琴枝と僕はもともと仲が良かったので、そういう縁もあったとは思いますが、本当の息子のように扱ってくれた青葉のおじさんやおばさんには感謝しかありません。駄菓子屋を営んでいるとは言え、こういう田舎では、自由に菓子を買う小遣いを子どもに与えるだけの金銭的な余裕のある家は少ないですから、生活が楽な訳ではありません。ですから当然学校で戴く給金は青葉家に預けて足しにして貰っていますが、奉公しているというような事ではないんです。……その、今も青葉家に寄食きしょくする理由ですが……」
「娘さんとの縁談があるのかね?」
 耳が熱くなるのを感じ、思わずうつむいた僕に頷きながら、先生は白い髭をゆっくりと撫でた。
「なるほど、それなら納得だ。いや、めでたいね。……しかし、それならどうして君はそんなに打ち沈んだ様子で居るんだろうか」
 はっとして顔を上げると、じっと僕を見詰める先生の目と行き会った。
「君が時折ひど憔悴しょうすいした様子になるのがずっと気になっていてね。君が奉職する尋常小学校の校長から文学をする青年だとは聞かされていたから、そういう若者に特有の神経過敏や情緒過多の故かとも思ったんだが、どうもそういう類ではないような気もしてね」
「…………文学なんて、僕はそんなに立派なものなどは……」
 言葉が続かず沈黙した僕を、やはりうかがうように見詰め、先生はおもむろに口を開いた。
「……小鳥遊君、君はひょっとすると今、人生に迷うところがあるのではないかね……?」
 僕は再び顔を伏せ、膝の上に握った拳に視線を落とした。
「……うん、やはりそうかね……。何が君を思いわずらわせているのか、聞く事は出来るかね……?」
「…………その……本当に、僕のような男が、琴枝に相応ふさわしいのかと、悩んでいます……」
 途切れ途切れに答えると、先生は白い髭を撫でていた手を止め、
「君と娘さんは好き合っているというのではないのかね……?」
「いえ、勿論もちろん、その……互いに子どもの頃から、その、好意を寄せ合っていました……。け、けれど、こうして大人になってみますと、ただ好き合っているというだけでは割り切れない問題がある事を痛感するのです。大変恥ずかしく情けない話ではありますが、幼い僕の養育を拒否した親戚の者の中には、いまだに青葉家に無心をしに来るような人間も居ます。問題は他にもいくらだってあります。今後もどんな事が起こるかもしれません。僕と結婚する事で、どんな悪い影響が、琴枝やおじさんやおばさん、ひいてはその……僕たちの子どもの上に及ぶかもしれません。色々な事を考えると、琴枝には、僕などより、余程相応しい相手が居るのではないかと、思わざるを得ません……」
 自分の気持ちを、ましてやこんな泣き言めいた胸の内を御子柴先生のような名士と目される人に対して話すなど、普段の僕には考えられない事だった。
 あるいは、結局のところ、この送別会の後には別れ別れになる、わば人生の通りすがりの人であるという思いがあったのかもしれなかった。
 いずれにしても、腹を割って自分の心情を話した事で、一人苦悩していた心の重荷が幾らか軽くなったような気分と、常にない自分の行動とに驚くような不可思議な感覚を味わっていた。
 何処どこか解放感にも似たその感覚に急に酔いが回り始めたようで、僕は半ばぼんやりと沈黙し、酒坏さかづきに映り込んだ自分の顔を見詰めていた。
 そんな僕をしばらく無言で見詰めていた先生は、ゆっくりと僕の酒坏に日本酒を注ぎ足した。
 慌てて杯を取った僕に、先生は静かな聲で語り掛けるように言った。
「若いという事は思い悩むという事でもある。それだけ真摯しんしにすべてを受け止めているという証だよ。若い日の懊悩おうのうは後から振り返った時、それがどんなに些細ささいなものに思えても、すべて年た自分を支える血や肉や骨となるものだ。だから小鳥遊君、大いに悩みなさい」
 そう言ってにっこりと笑った先生に、僕は雪に閉ざされた山中でにわかに太陽を仰ぎ見たような気分がした。
 思わぬ温かな激励に、一人孤独な胸の内を抱えていた僕はにじなみだに眼鏡を曇らせた。
 ずり落ちた眼鏡を押し上げるふりをして素早く目尻を指で拭っていると、
「──しかし健康や精神を害するまで煩悶憂苦はんもんゆうくするのは戴けない。失礼だが今の君の世界は非常に小さなものだ。無論、田舎には田舎の良さがあるのは重々承知しているが、しかし何と言っても可能性という点では、やはりどうしても限りが出て来るのもまた事実だ。停滞してしまったものはいずれよどんで腐ってしまうね。しかし流れる水は腐らない。思い切って都会に出てみるのも一つの策だよ。都会での生活は確かに油断のならない面もあるが、しかし大局的に物事をる目を養える可能性もある。井底せいていは大海を知る事で『タオ』──即ち万物をつかさど摂理せつりを悟ると荘子そうしも言っているよ」
 にこにこと微笑みながら、年端としはも行かない子どもに教えさとすような口調で言う御子柴先生の言葉に、僕は何か深遠な妙諦みょうてい神髄しんずいに触れてでも居るような気になった。
 先生は続けて、
「近頃は子ども向けの雑誌が流行はやるようだが、寄稿しているのはいずれも一流の文学者や文壇の関係者ばかりだ。そうした人士じんしの下で研鑽けんさんを積み、修練する事が出来れば、確実に君の将来もひらけるだろう」
 僕は曇った眼鏡の奥の目を大きく見開いて先生を見た。
 御子柴先生はにっこりと微笑むと、
「それに実を言うとね、うちの研究室は少々人手が足りなくて困っているんだよ。もし君が手伝ってくれれば、とても助かるんだがね」
 僕はにわかにドキドキと鼓動を打ち始めた心臓の音を聞きながら、
「……そ、それはどういう……?」
 ごくりと喉を鳴らして見詰めると、御子柴先生は白い頭をきながら、
「いやぁ、突然こんな事を言われては君も困るだろうとは十二分に承知した上で言うんだがね。どうだろう、わたしの研究室で働く気はないだろうか」
「──えっ!?」
 僕は思わず絶叫に近い聲を出した。
 先生はふと真面目な顔つきになって、手元の酒坏さかづきに視線を落とすと、
「いやね、わたしはどうも君の事が放っておけない気になっていてね。こんな事を言っても君にはただ迷惑でしかないとはわかっているんだが、君のように純一無雑じゅんいつむざつな青年が居ると知れた事は、わたしにとって世の中まだまだ捨てたものではないという希望になったんだよ」
「そ、そんな……。勿体もったいない御言葉です……」
 早鐘のように鳴り続ける心臓に息が上がりそうだった。
 ドクドクと流れる血の音まで聞こえそうだった。
「本当の事なんだよ、小鳥遊君。老婆心ろうばしんではあるが、わたしは君のような将来有望な若人わこうどが、こういう片田舎に埋もれてしまうのは残念で仕方ないと常常思っているんだよ。出色しゅっしょくの才能やすぐれた資質があるにもかかわらず、巡り合わせが悪いばかりに日の目を見ないまま終わってしまった……と、そういう若者をわたしはいやになる程見て来た。君にはそんなき目を見て欲しくないんだよ……」
「せ、先生……」 
 親身に心配してくれるだけではなく、僕を見込みのある人間として評価するような先生の言葉に、僕はすっかり舞い上がり、感動さえして居た。
 感極まって泣き出したい気持ちに駆られた僕に、御子柴先生はふと気がついたように目を上げると、
「君のような青年に、こんな鳥莫迦ばか瘋癲ふうてん老人の仕事を手伝って貰えれば、大いにはかどるというものだがね」
 そう言って片目をつむって見せた御子柴先生の茶目な仕草に、僕は久方ぶりに心の晴れ間を見る思いだった。
 一寸先も見えない暗闇を右往左往していた僕の足元には一条の光が射し、行くべき道を示していると直感した。
 この世への不信や失意にとらわれ、灰色の海でおぼれかけていた僕は、頭の片隅で蛍の光のように明滅する琴枝のあどけない笑顔を振り切るように目をつむり、差し出された御子柴先生の手を、わらにもすがる思いでつかんだ。
 あの時の僕は冷静な判断力を失っていたのだろう。
 僕の出自や代用教員という身分をかえりみるまでもなく、大日本帝国教授である御子柴先生の誘いを二つ返事で受けるなど、普通ならば有り得なかった筈だ。
 それがどれほど無謀むぼう且つ僭越せんえつであるかという事を度外視してしまう程、あの時の僕は追い詰められていたのだ。
 夜汽車に飛び乗り、帝都に出て来てからの一年、僕はただただ先生の御芳情ごほうじょうむくいる為、頑張って来たつもりだ──自分なりに……。
 僕は鈍痛のする蟀谷こめかみを揉みながら、再び深い溜息を吐いた。


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