穢れなき禽獣は魔都に憩う

Arakane

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其の一 悪夢の始まり

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「ねぇ柊萍しゅうへいさん、ひよくれんりって何の事?」
 店番中の駄菓子屋の奥の番台で、真剣な顔つきをして螺子ねじ回しをあやつり、僕の眼鏡のよろい部分のゆるみを直していた琴枝ことえが、突然思い出したように顔を上げ、黒い大きな瞳で僕をじっと見詰めた。
 もうすぐ娘盛りの十八を迎えようとしていながら未だあどけない少女のような琴枝は、三つ組に編んだお下げの先に結んだ水色のリボンをほんのちょっと気にする素振りを見せて僕の答えを待っていた。



 眼鏡がないので琴枝の顔はまるで水のヴェエルを掛けたようにぼんやりとにじんでいたが、幼い頃からずっと間近に見詰め続けていた小鳥のようなその表情を、僕は容易に思い浮かべる事が出来た。
「ああ、比翼連理ひよくれんりの事? 白居易はくきょいだね」
「『はっきょい』? ひよくれんりって、お相撲さんなの?」
 小首を傾げた琴枝に笑いを堪えきれず、
「ははは、違うよ、琴枝」
「違うの? でもそれじゃあ……、──はい、柊萍さん。締め直せたわよ」
「有難う。いつも済まないなぁ」
 礼を言って手渡された眼鏡を掛けると、鼻の上で引き締まった兵隊のように鯱張しゃちほこばった眼鏡の感触が心地好かった。
 いつもの癖でつい眼鏡の鼻当て部分を指先で押さえてしまう僕に、琴枝はわざとらしいふくれっ面をしながら螺子回しを振って見せた。
「もう、柊萍さん。あたしの仕事が不十分だって言うつもり?」
「ごめんごめん。眼鏡を上げるのが癖になっているから、つい」
「うふふ、ちゃんとわかっているわよ。その眼鏡、大分だいぶん年季が入って来たわよねぇ。でも、柊萍さんのお父さんの遺品なのだし、大切にしないといけないわね」
「うん、そうだね……」
 まるでまだ幼い少女のままの邪気のない表情で僕を見上げる二つ下の琴枝を眺めながら、僕はもうほとん面影おもかげも思い出せない両親の姿をおぼろげに思い描こうとして失敗し、溜息ためいきまじりに微笑ほほえんだ。
「柊萍さん、お話の続き。“はっきょい”って、なぁに?」
「はっきょいじゃなく、白居易。白楽天はくらくてんとも呼ばれる中国のとうの時代の有名な詩人だよ。……とえらそうに言っているけど、僕も実はあまりくわしくは知らないんだけどね。その人の作った物に、玄宗げんそう皇帝と楊貴妃ようきひの悲恋をうたった『長恨歌ちょうごんか』と言う物語詩があるんだよ」
「ようきひって、絶世の美人だったっていうあの楊貴妃?」
「うん、そうだよ。比翼連理というのは、その長い詩のいちばん最後のところに出て来る一節なんだ。死んでしまった楊貴妃は仙女となって海の上に突き出た山で暮らしているんだけど、其処そこに楊貴妃を忘れられない皇帝が使者をつかわすんだ。すると楊貴妃は訪ねて来た使者に、かつての皇帝との思い出を語り出す。皇帝と共に『天に在っては願はくは比翼の鳥とらん、地に在っては願はくは連理の枝とらん』と誓い合った──ってね」
「楊貴妃と皇帝は鳥と枝になりたかったの?」
「ははは、たとえとして言ったんだろうけど、極論的にはそういう事になるのかな。『比翼の鳥』というのはね、一つの眼に一つの翼という中国の伝説の鳥で、空を飛ぶ時は互いに助け合わなければならない鳥だったんだ。それで後の人が仲のいい夫婦の譬えとして『比翼の鳥』と言うようになったらしい。そして『連理の枝』というのは、これも昔の中国で、とても愛し合っていた夫婦がある不幸から別々のお墓に埋葬されてしまった事があったんだけど、数日後にはその別々のお墓から木が生えてきて、枝と葉が抱き合うようにからみ合い、木肌きはだ木目もくめつらなって一つになっていたんだって。驚いて根を見てみると、それもつながって絡みついていたらしい。それだけでもあわれなのに、離れて尚一つでろうとするようなその木の枝につがいの鳥が飛んで来て、如何いかにも物悲しくさえずり合っていたそうだよ。それを見た人たちは『なんと憐れな連理れんりの枝の比翼ひよくの鳥よ』と言い交わし合ったんだって。楊貴妃と玄宗はその故事になぞらえて互いへの愛を語り、誓い合ったんだよ」
「……何だか可哀相かわいそうねぇ……。でもそれじゃあ、きっと楊貴妃は、のこして来た皇帝の事が心配で、可哀相で、悲しくて仕方なかったでしょうねぇ……。──ああ、駄目だめ、考えていたらとっても悲しくなってきちゃったわ」
「死んでしまった楊貴妃はそりゃあ悲しかったろうけど、一人遺った玄宗皇帝も気の毒だと思うよ。僕はあまり中国の歴史に明るくないからよくは知らないけど、楊貴妃の死は玄宗にも責任があったと言われているそうなんだ。自分のせいで死んでしまった最愛の人がそんな事を言って、未だ自分を想っているだなんて、僕だったらとても耐えられないよ」
「それもそうねぇ……。だけど柊萍しゅうへいさん、さすが尋常小学校の先生だけあるわ。あたし、そんなにかしこくないけど、よくわかったもの」
「いや、僕は校長先生の好意で代用教員をさせてもらっているだけのだよ。琴枝のおじさんとおばさんが拾ってくれなきゃうに死んでいたさ」
「そんな悲しい事言わないで、柊萍さん。お父さんもお母さんも、柊萍さんの事いつも誉めているじゃない。あたしだって柊萍さんは凄い人だと思っているのよ。いつも言っているでしょう? 柊萍さんが学校の子ども達のために作っているお話、あたしね、あれとっても楽しみにしているのよ。ね、今度はいつ出来るの?」
「そんなに次々とは思い浮かばないよ……。一つ考え出すにも随分ずいぶん頭をひねるんだから。今に僕の脳味噌はカラカラになってしまうよ」
「まぁ、柊萍さんたら駄目ねぇ。そんな事では偉い作家先生になれなくてよ」
「またそんな事を……。僕なんかがそんな大それたものになれる訳──……」
 笑いながら琴枝の目を見ると、その黒い大きな瞳はにわかにうるみ、物言いたげな視線をじっと僕に注いでいた。
 僕は思わずどきりと口をつぐんで見詰め返した。
 しんと静まり返った空気の中に、かすかに金木犀きんもくせいの香りが混じっていた。
 琴枝は突然ぱっと花が開くように笑顔を弾けさせると、
「今年もあたし達の隠れ家、綺麗な絨毯じゅうたんになるかしら」
 隠れ家──という言葉に、僕はすぐに山の中に打ち捨てられた廃寺を思い起こした。
 幼い頃、琴枝と共に見つけたその廃寺の前庭には、一本の大きな金木犀の樹が佇立ちょりつしていて、毎年秋の終わりになると、散った小花が廃寺の敷地いっぱいにだいだい色の絨毯を広げるのだった。
 せ返るような甘酸っぱい香りに誘われ、敷き詰められた小花にそっと足を下ろす時、僕たちはいつも必ず幻想の世界に入り込むような、わずかに物寂しさの含まれた甘美な喜びにひたった。
 美しい橙色に染まった廃寺の光景を心のうちに眺めていた僕は、琴枝の輝く瞳を見下ろしながら、ゆっくりとうなずいた。
「うん、きっとね──」
「楽しみねぇ。ね、柊萍さん?」
 小首を傾げてにっこりと笑った後、不意に黙りこくった琴枝は、やがて愛らしい小鳥のような瞳をまたたかせ、真剣な眼差しで僕を見上げた。
「──ねぇ、柊萍さん、あたし達もなれるかしら。比翼連理に──……」
 思い詰めたようにも聞こえるこえで言った琴枝は、急に恥ずかしさに気がついたようにうつむくと、白い頬をうっすらと朱に染めた。
 けがれを知らない若い桃のようなその頬のうぶ毛が日差しに当たって金色に光っていた。
 思わず手を伸ばしそうになった僕を、琴枝のはにかんだ笑顔が捉えた。
 つられて気恥ずかしく微笑んだ僕の前で、琴枝の姿が突然水面みなもに映った虚像きょぞうのようにゆらゆらと揺れ出した。
「琴枝?」
 吃驚びっくりして声を上げた僕の目の前で、微笑を浮かべた琴枝の小さな口元がぐにゃりとゆがんだ。
 次の瞬間、琴枝の顔の下半分は、まるでしぎのような長い鳥のくちばしの形に引き伸ばされていた。
 溌溂はつらつとしていた表情からは生気がぎ取られ、悲しみに打ち沈むような黒い瞳がじっと僕を見上げていた。
「こ、琴枝……!?」
 琴枝に向かって伸ばそうとした手を遮断しゃだんするように、一瞬、墨で塗りつぶしたような闇が目の前に広がった。
 再び視界がひらけると、僕は淡い芳香を漂わせる金木犀の花の絨毯の中にくるぶしまで埋もれて立っていた。
 見ると、長いくちばしの白い鳥が金木犀の花の上にじっとからだを横たえていた。
 瞬間、僕はそれがむくろとなりつつある琴枝の姿である事をさとった。
 暗晦あんかいな恐怖が全身を襲い、大急ぎで鳥と化した琴枝の傍らにひざまずき、ふるえる腕で抱き上げると、わずかに開かれた嘴の間から、弱々しい吐息のようなささやきが漏れた。

 ──柊萍しゅうへいさん…… 柊萍さん……。

「琴枝……、何て事だ、どうしてこんな姿に……!?」

 ──あたし、もうかなくては……。さようなら……。

「だ、駄目だ、琴枝……っ。逝っては駄目だ……っ」
 必死に琴枝の名を呼んで引き留めようとする僕の腕の中で、白い鳥となった琴枝が静かに目蓋まぶたを閉じた。
「……僕を……、僕を一人にしないでくれ……!」

 絶叫はむなしく小花の絨毯に吸い込まれた。
 腕の中から、琴枝の姿が消えていた。
 くずおれるように橙色の小花のしとねに突っ伏してむせび泣いていた僕は、いつの間にか自分が巨大な黒い鳥の翼にいだかれている事に気がついた。
 なみだで曇った眼鏡を押し上げながら仰ぎ見ると、まなじりが深く切れ込むように吊り上がった鳥の目が、一心不乱に僕を見詰めていた。
「琴枝……?」
 かすれた聲でたずねた僕に、黒い眼を細め、鳥が答えた。

 ──不是プゥーシィー。……違う。

 その低く含み笑いをしながら秘密を打ち明けるような囁きを聞いた途端、抗い難い睡魔に襲われ、生温い泥のような眠りの中へ、僕は絶望ごとずるずると引きずり込まれ始めた。

 ──このまま、僕も死んでしまうのだろうか……。それとも、本当はもうっくに死んでいるのだろうか……。

 考えようとするが、すべてがわずらわしく、何もかもがもうどうでもいいような気になった。

 ──柊萍さん…… 柊萍さん……。

 か細い聲が僕を呼んでいる──。
 懐かしく、そして悲しくはかないその聲は、僕の心に金木犀の花が散るさまを思い起こさせた。

 ──これはそう……琴枝の聲だ。何て心地いいんだろう……。

 僕はゆっくりと目蓋を閉じ、大きな黒い翼に抱かれた僕のからだ散華さんげするような琴枝の聲に耳を傾けた。


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