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五十崎檀子の手記
三十一
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「蔵の中でのおじいさんは、あれはほんとうのおじいさんではないのだよ。あそこには、お嬢さんのひいおじいさんやひいひいおじいさんがいて、きみのおじいさんはその人たちの言う通りにしただけなのだからね」
「え……いたって、あそこに?」
「怖がることはないのだよ。ひいおじいさんも、ひいひいおじいさんも、きみのご先祖様なのだから」
「……」
わたしは蔵の中で聞いた祖父と李大龍の会話を思い出しました。高祖父とあの少女の首の関係や、或いはまた李大龍と高祖父や曽祖父の関係など、依然としてわたしにはまったく見当がつかないままでしたが、しかしあの少女の首をあんな寂しい蔵の片隅に閉じ込めていたのが高祖父や曽祖父であることは間違いなく思われましたから、わたしにはそんなことをした二人が人でなしの悪人のように想像されてくるのでした。ましてやその人たちのために、祖父があんな尋常ではない言動をしていたと言うなら猶更でした。
「……わたしのひいおじいさんやひいひいおじいさんは……悪い人だったの……?」
わたしはそう聞かずにはいられませんでした。李大龍は一瞬の沈黙の後、静かに口を開きました。
「……良い人だったよ。ただ、叶わぬ恋をしてしまったのだよ」
誰かの口から「恋」という言葉を聞いたのは、このときが初めてでした。わたしはその甘酸っぱい響きに軽い眩暈を感じながら、寒い冬の夜の澄んだ月のような李大龍の目を見上げ、匂やかな花々の咲き乱れる庭を幻想の裡に思い描いていました。
「目が覚めたら、きみのおじいさんはもうすっかり元のおじいさんに戻っているよ」
「……ほんとう?」
「ほんとうだよ。ただ、今日のことは忘れてしまっているけれど」
「おじいちゃん、今日のこと忘れちゃうの……?」
「忘れる。でもそれは皆のためになることだから」
「そう……」
わたしは俄かに不安の火が胸中に熾るのを感じ、膝の上でぎゅっと両手を握りしめ、小さな声を振り絞るようにして李大龍に訊ねました。
「……もしかして、わたしも忘れちゃうの? 今日のこと……」
「いいや、きみは忘れないよ」
わたしは安堵の息を吐き出しました。けれど今度はもっと大きな不安に駆り立てられました。わたしはどうしても訊きたい衝動と、訊ねること自体への羞恥にも似た怖さによって喉を詰まらせながら、消え入りそうな声を吐き出しました。
「……じゃあ、わたしのことは……? 李さんは、忘れちゃいますか……?」
思い切って彼の名を呼び、そう訊ねた途端、ひどく恥ずかしい思いが込み上げて、わたしは俯いて涙が零れ落ちそうになるのを堪えていました。その涙は、真摯な響きの李大龍の言葉によって拭い取られました。
「忘れない。さっき約束したよ、きみの最期の時には、わたしが必ず迎えに行くと」
顔を上げると、李大龍がまっすぐにわたしを見おろしていました。わたしの全身に、青い眼差しが月光のように、或いは雪のように、しんしんと降って来るようでした。
「え……いたって、あそこに?」
「怖がることはないのだよ。ひいおじいさんも、ひいひいおじいさんも、きみのご先祖様なのだから」
「……」
わたしは蔵の中で聞いた祖父と李大龍の会話を思い出しました。高祖父とあの少女の首の関係や、或いはまた李大龍と高祖父や曽祖父の関係など、依然としてわたしにはまったく見当がつかないままでしたが、しかしあの少女の首をあんな寂しい蔵の片隅に閉じ込めていたのが高祖父や曽祖父であることは間違いなく思われましたから、わたしにはそんなことをした二人が人でなしの悪人のように想像されてくるのでした。ましてやその人たちのために、祖父があんな尋常ではない言動をしていたと言うなら猶更でした。
「……わたしのひいおじいさんやひいひいおじいさんは……悪い人だったの……?」
わたしはそう聞かずにはいられませんでした。李大龍は一瞬の沈黙の後、静かに口を開きました。
「……良い人だったよ。ただ、叶わぬ恋をしてしまったのだよ」
誰かの口から「恋」という言葉を聞いたのは、このときが初めてでした。わたしはその甘酸っぱい響きに軽い眩暈を感じながら、寒い冬の夜の澄んだ月のような李大龍の目を見上げ、匂やかな花々の咲き乱れる庭を幻想の裡に思い描いていました。
「目が覚めたら、きみのおじいさんはもうすっかり元のおじいさんに戻っているよ」
「……ほんとう?」
「ほんとうだよ。ただ、今日のことは忘れてしまっているけれど」
「おじいちゃん、今日のこと忘れちゃうの……?」
「忘れる。でもそれは皆のためになることだから」
「そう……」
わたしは俄かに不安の火が胸中に熾るのを感じ、膝の上でぎゅっと両手を握りしめ、小さな声を振り絞るようにして李大龍に訊ねました。
「……もしかして、わたしも忘れちゃうの? 今日のこと……」
「いいや、きみは忘れないよ」
わたしは安堵の息を吐き出しました。けれど今度はもっと大きな不安に駆り立てられました。わたしはどうしても訊きたい衝動と、訊ねること自体への羞恥にも似た怖さによって喉を詰まらせながら、消え入りそうな声を吐き出しました。
「……じゃあ、わたしのことは……? 李さんは、忘れちゃいますか……?」
思い切って彼の名を呼び、そう訊ねた途端、ひどく恥ずかしい思いが込み上げて、わたしは俯いて涙が零れ落ちそうになるのを堪えていました。その涙は、真摯な響きの李大龍の言葉によって拭い取られました。
「忘れない。さっき約束したよ、きみの最期の時には、わたしが必ず迎えに行くと」
顔を上げると、李大龍がまっすぐにわたしを見おろしていました。わたしの全身に、青い眼差しが月光のように、或いは雪のように、しんしんと降って来るようでした。
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