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五十崎檀子の手記 

三十

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 李大龍の両手が静かに離されると、わたしは驚きに目をみはって彼を見上げました。
「人の寿夭じゅようを変えることはわたしには許されていない。けれど、これできみは杖家じょうかの頃まで、健やかに過ごすことができるよ」
 彼の言葉が理解できず、また首を傾げているわたしに、李大龍はふと微笑みを浮かべ、やさしく言い諭すような口調でこう続けました。
「お嬢さん、ひとつ約束をしよう。今日のことは、誰にも喋ってはいけない。もし誰かに話してしまったら、おまじないが破れて悪いものがたくさん寄って来てしまう。だから今日見たことのすべては、きみだけの秘密にしておくのだよ」
 その言葉に、わたしははっとして李大龍を見つめました。蔵の中で彼に見られたような気がしたのはやはり思い違いではなかったということに気がついて、罪悪感と恥ずかしさでいっぱいになりました。思わずうつむいてカーディガンの裾を握りしめたわたしに、李大龍はまるでわたしの心を見透かした上で慰めるように言いました。
「いいのだよ」
 そのやさしい声の響きに、わたしはそっと顔を上げ、李大龍の美しい顔を見ました。李大龍はわたしを包み込むような微笑で頷くと、
「もし約束を守って、この秘密を大切に守り通すことができたなら、きみの最期のときには、きみが無事に冥府に行けるよう、この李大龍が必ず迎えに来てあげよう」
 その刹那、脳裏には彼があの蔵の中で首の少女に囁きかけた言葉が響き渡りました。

 ──「我迎ウォーイン接你ヂィエニィー

 途端に目の前にはあの青白く発光する大龍の神秘に満ちた威容や、少女の首の吐いた瘴気から生まれた美しい鳥の姿などが雪の結晶のようにきらきらときらめきながらよみがえり、その幻想と神秘に満ちた光景は、わたしを目くるめく夢幻の世界へといざない導くようでした。
「──きみにお礼を言わなければ」
 不意に耳朶を打った李大龍の言葉に、幻影の世界に翻弄されていたわたしはふと現実世界に引き戻されました。半ばぼんやりとしたまま彼の青い水晶のような目を見つめていると、静かに囁くような声がわたしの上に降ってきました。
「きみがあそこにいてくれたおかげで、わたしは彼女を助けることができたのだよ。どうもありがとう」
「……わたしがいたからって、どうして……?」
 李大龍は透き通るような微笑を浮かべて沈黙したまま、何も教えてくれようとはしませんでした。
 けれどわたしには李大龍が謝意を告げるその理由を知ることよりも、「ありがとう」というその言葉それ自体の方がずっと重要な意味を持っているのでした。
 いつの間にか、わたしの心の中には一匹の魚の棲む青い池ができているようでした。その魚は李大龍のほんのわずかな身の動きや言葉にも、身をよじ切りそうなほどに反応し、時に激しく、時にうっとりと、池の中を泳ぎ回っているのでした。
 わたしの視界は再びぼんやりと滲み始め、水底の世界を覗いているようにゆらゆらと揺れ出しました。ぼやけて歪んだ世界の中で、李大龍が微笑みを浮かべたのがわかりました。彼は傍らに置いた少女の眠る箱に手をかけると、如何にも大事なもののように持ち上げ、それからゆっくりと立ち上がりました。その踊るような、揺れるような、しなやかな動きを目で追っていたわたしを見おろして、彼は静かな声で言いました。
「おじいさんをゆるしてあげなさい。きみのおじいさんは良い人だよ」
 わたしはその頃にはもう、李大龍のどんな言葉を聞いても驚かなくなっていました。彼がその透き通る青い瞳でどんなことでも見通してしまうのはごく自然のことのように思えました。わたしは黙ってゆらゆらと揺れる李大龍の輪郭を見上げていました。



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