孤悲纏綿──こひてんめん

Arakane

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五十崎檀子の手記 

二十七

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 李大龍は少女の首に向き直ると、静かに何事か囁きかけました。苦しげに頭を動かしていた少女ははっとしたように動きを止め、それから俄かに李大龍の存在に気がついた様子で、黒い大きな瞳をゆっくりと上げました。李大龍の青い瞳と少女の黒い瞳とが重なり合うと、少女の苦悶に歪められた顔はみるみるうちに緩み、清らかな花のかんばせへと立ち返っていきました。
 李大龍はおもむろに右手の人差し指と中指を自分の唇に当て、強く噛んだようでした。二本の指を離したとき、唇に真っ赤な鮮血が付着しているのが、彼の目の光の中に浮かび上がって見えました。──もっとも、薄暗い蔵の中、青白い月明かりのような光のもとで見た血の色が、そんなにも鮮やかな赤色に見えたはずはなかったでしょうから、もしかするとこれはわたしの心象であるのかもしれません。
 李大龍は少女の額に描かれた花模様の上に、先ほど噛み切った二本の指をそっと押し当て、何かを書きつけるように動かしていきました。しなやかな指先が離された少女の額には、わたしには読めない複雑な形の漢字が一字、書きつけられていました。それは非常に強力な効果を発揮する一字であったのでしょう──少なくともこの首だけの少女にとってはそうであったに違いありません──、愛らしい桃色をその頬に取り戻した少女は深い吐息をついた後、ゆっくりと瞼を閉じていきました。咲きかけた花のつぼみのような唇を時折微笑の形にほころばせながら、安らかな眠りを李大龍の呪言の揺りかごで楽しんでいるのがわかりました。そうやって眠っている少女は、ほんとうにあどけない、可憐な野の花のようにいじらしく見えました。
 少女の眠りを確かめると、李大龍は顔を上げ、未だ辺りを漂っている瘴気の残滓に青く光る目を向けました。すると瘴気はゆらゆらと羽衣のように舞いながらだんだんと透き通っていくのでした。瘴気はやがてひとつに寄り集まって李大龍の目の前で軽やかに揺蕩たゆたっていましたが、みるみるうちに半透明の結晶石を思わす美しい鳥の姿へと変じ、その翼をゆっくりと蔵の薄闇に広げました。
 わたしは驚嘆と感嘆に息を呑み、李大龍と鳥が見つめ合っているその光景を凝然と見つめ続けていました。
 鳥はふと長い首を動かして、少女の首を静かに見おろしました。その目には、何か別れを告げているように寂しげな、それでいて毅然とした高貴さが揺らめくように見えました。その姿を見つめるうちに、わたしの目からははらはらと熱い涙がこぼれ落ち始めました。あふれる涙でわたしの視界は滲み、そのために透明な水底の世界にいるようでした。その深い水の世界の中で、李大龍は板の間に片膝を着いた姿勢のまま、ゆっくりと鳥に向かって両腕を広げました。
过来グオライ──」
 今度もわたしには李大龍が「おいで──」と泣きたくなるほどにやさしい声で呼びかけたことがわかり、いよいよ嗚咽を上げそうになる喉を押さえて堪えていると、鳥が半透明の石英せきえいのような翼をはためかせながら李大龍の胸に舞い降りていくのが見えました。鳥の羽ばたきは宙に美しい波紋を描いて広がり、その波はわたしの足元にまで届いて清らかな水でつま先を湿らせるようでした。
 鳥は眩い光を放ちながら李大龍の胸の中へと吸い込まれていきました。涙に濡れたわたしの目に、その光輝は万華鏡のようにきらきらと眩しく反射し、思わず目をすがめながらも鳥の長い尾羽の最後の一枚までが李大龍の体内に消えていくのを見守りました。
 鳥のすべてが吸い込まれると、李大龍の体からはかっとひときわ強い閃光が放たれました。あまりの光の強さに、目を開けていることができないほどでした。やがて閉じた瞼の向こうで次第に光が引いて行くのを感じて目を開けると、瞼を伏せてうつむく李大龍の体のまわりを、彼のしもべのような妖気が、蔵の天井に届きそうなほどに大きくなったり、或いは彼の体にぴったりと張りつくように小さくなったりするのを繰り返すのが見えました。
 やがて妖気が凪いで、静かに顔を上げた李大龍のその瞳からは、あの霊妙な青白い光が消えていました。けれどその瞳には未だやさしい火が、消えもせず灯っているようでした。李大龍は眠り続ける少女の首を、その眼差しで抱くように見つめました。労わるような、慈しむような視線にくるまれた少女の首は、まるで幸福な夢に浸かる喜びを表すように、安らいだ微笑を唇に浮かべました。



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