孤悲纏綿──こひてんめん

Arakane

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五十崎檀子の手記 

二十

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「李大龍よ、わしはあんたを見たとき、これまでのわしの月日が報われる気がした。親父は晩年は精神を病んでいつも虚構の世界を彷徨うようだった。だからわしは、わしを殴り飛ばしたあのときの親父の話というのも、実は狂気の前兆だったのではないかと疑ってもいたんだ。だがそうではなかった。親父の話はほんとうだった……親父は正気だったんだ……」
 李大龍の眼光に照らされた祖父の目には涙が滲んでいました。
「……あんたのおかげでようやくわしの心労は終わる……肩の荷を下ろせる……そう思った。……だが、そんなのは間違っている……何でわざわざ終わらせなければならない。そうだとも、この箱を守ることが、わしの生きるよすがだ。この箱はわしの人生そのものだ。この中には、親父やじいさんがいるんだ。さあ、箱を返せ。そして今すぐここを出て行け!」
 そう叫んだ祖父の声は、わたしの耳に悲痛な響きを伴って聞こえました。李大龍を睨みつけている祖父は、もはや泣きべそをかいた一人の少年のようでした。
 しかし李大龍は青白い光を放つ目で真正面から祖父をとらえたまま、低い声で言いました。
「あなたは今とても危うい状態にある。あなたとこの箱、互いに無事であるためには、離れていなければならないのです。渡してください」
「わしの話を聞いていなかったのか?」
「聞いていたからこそ言うのです。さあ、はなすのです」
「おまえがはなせ!」
 祖父は全身の力を振り絞るようにして箱を奪おうとしましたが、やはり頑丈な樫の大木のように李大龍の体は微動だにしないのでした。
 李大龍は慎重に研ぎ澄まされたナイフの切っ先を当てるように、祖父に向かって言いました。
「駄々をこねるのは終わりです。はなしなさい」
 祖父は李大龍の言葉に顔を歪め、さっと手を引っ込めました。しかし次の瞬間、いきなり黄色の布紐の端を掴んで思いきり引っ張りました。
 布の引き裂かれる鋭い音と共に、李大龍の手の中にあった箱はごとんと鈍い大きな音を立てて床に落ちました。
 そのはずみで箱の蓋が、既にほとんど破れかけていた布紐を完全に押し切って外れ、ばたんと床に倒れました。間髪を入れず、開いた箱の中から飛び出すように転がり出してきたものがありました。わたしは思わずあっと絶叫して昏倒しかけました。箱の中から転がり出たものは、瞼を閉じたまだあどけなさの残る美しい少女の首であったからです。
 わたしは両手で口を覆ってどうにかこうにか悲鳴を堪えましたが、全身からは汗が吹き出し、腹の底は恐怖に縮み上がっていました。
 祖父もまたわたし同様甚だ驚いて、後ろに飛ぶように後ずさりました。ぱくぱくと口を動かしながら声にならない声で喘ぎ、驚怖と驚愕の目で転がり出た少女の首を凝視していました。
 恐慌が嵐のようにわたしを襲おうとしましたが、しかしふと、目の前の板の間に転がっているものは実によくできた人形の頭部であるという考えが、明滅する星の光の素早さで頭の中を過りました。
 するとそれはいかにももっともらしい考えに思え、わたしは一刻も早く自分を安心させるためにその考えが正しいことを確認しようと試みました。すなわち、しっかりと目を見開いて、努めて冷静に首を見澄ましたのです。少女の首は李大龍が放つ青白い光の中に、まるで夢幻の舞台に立つ京劇の役者を模した唐人形の如く浮かび上がっていましたから、つぶさに観察することが可能でした。
 そうやって見た首は、こちらを夢見心地にさせるほどに美しく、愛らしいものでした。薄暗い蔵の湿った闇を吸って重々しさと光沢を増した黒髪は後頭部で綺麗に結い上げられており、その豊かな髪の下にある白い肌にはまるでたった今施したかのような鮮やかな化粧が乗っていました。今にも物を言いそうな唇は健やかな血色を湛えて花びらのようにほころび、閉じた瞼と頬の濃い桃色の色粉は匂うように咲いています。丸く秀でた額に赤い花模様のようなものが描かれているのが、少女の首の桃源郷のような美しさを一層強調するようでした。以前、祖父に連れられて訪れた美術館で、中国の古い時代の女性たちの描かれた絵を見たことがありましたが、首はその女性たちとよく似ているように思いました。
 まるで生きているような、そっと手を伸ばして触れればあたたかい血の通う肌を感じられそうな少女の人形の首を見つめれば見つめるほど、いったいどんな卓越した技術を持つ人形師の手になるものなのだろうかと驚嘆する思いに圧倒されました。同時に、わたしは自然、毎年桃の節句の頃になると奥の間に飾られる雛人形のことを思い出し、無意識のうちに、しどけない寝姿を見せているかに見える目の前の少女の首とを比べていました。

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