19 / 36
五十崎檀子の手記
十七
しおりを挟む
わたしは紙幣が山と積まれた下駄箱からつっかけを取り出して履くと大急ぎで玄関を飛び出そうとしましたが、しかし玄関先にこれほどの大金を置いたまま家を空けてもいいものかと、一瞬逡巡する気持ちが頭の片隅をかすめないでもありませんでした。それに、日頃どんな物でも決してぞんざいに扱うことのない祖父が、お金をこんな風に放り出し、戸も閉めないままに出て行ったことが信じられなくもありました。
けれどこうしてぐずぐずしている間にも、祖父と李大龍が蔵の中に入って行ってしまうかと思うと、小さな頭を悩ます様々な考えは頭の中から滑り落ちるが如く掻き消えて、二人を追いかけるべく大急ぎで飛び出しました。祖父に倣って、戸は閉めないままにしておいたことがほんの少し気がかりでしたが、とにもかくにも一刻も早く二人に追いつこうと必死でした。
母屋の裏手に向かって庭を駆けて行くと、入口の木戸が大きく開け放たれた蔵が見え、わたしの足は知らず速度が緩まりました。
田舎の古い家にはよくあることですが、我が家の蔵というのはほとんど母屋と変わらないほどの大きさで、実際昔は住み込みで働いていた使用人たちの住居として使われていたそうでした。
わたしは物心ついた頃から、この蔵が何故かずっと怖くて仕方がありませんでした。ゆうべ食卓で父が言ったようにほぼ一年中閉ざされているこの蔵は、わたしには我が家の敷地にありながら、もう一棟別の、誰か他人の家が建っているような、全くわたしの関知しえない他所の領域であるかのように感じるのでした。
もっと言ってしまうなら、わたしはその大きくて古い蔵を見るといつも、どこか別の世界に引きずり込まれるような気になって、どうしようもない恐怖を感じてしまうのでした。それでわたしは一人庭で遊ぶときなどにも、決して蔵の近くに近寄ったりすることはありませんでした。
歩むにつれて次第に目前に迫って来る蔵の入り口の奥に巨大な漆黒の空間を垣間見るような思いに晒されると、その暗黒の虚空が大口を開けてわたしを飲み込もうとしている想像に襲われて、途端にお腹の底がきゅうっと縮み上がるようでした。
蔵の入口のすぐ手前まで来ると、わたしの足は完全に動きを止め、それどころかぴたりと地面に吸い付いたようになってしまいました。開け放たれた入口からはどろりと濃い墨のような闇が吐き出され、その暗い闇の向こうには何か恐ろしいもの──たとえば昨夜こども部屋の暗がりに蠢いていた妖しく禍々しい生き物たちが潜んでいるという想像がひっきりなしにわたしの体にぶつかっては通り過ぎていくようでした。蔵の奥から流れ出してきたひんやりと冷たい空気が分厚いカーディガン越しに絡みつき、思わず身震いをして後ずさりました。
中に入るのはあきらめて家に戻ろうかと思い始めたとき、低くぼそぼそとしゃべる祖父と李大龍の声が聞こえました。その瞬間、気がつくとわたしはほとんど反射的に蔵の内に飛び込んでいました。押し寄せる真っ暗な闇の洪水に圧倒されましたが、しかし恐慌を来すよりも前に、わたしの目はその暗い闇にわずかな光の帯を描いている明かり取りの窓があるのを見て取りました。そのわずかな外の光に縋って、埃と蜘蛛の糸をかぶった古い道具や機械などで埋まる蔵の中を恐る恐る見回すうちに、暗闇にも目が慣れてきました。
しかし闇に目が慣れたとはいえ、不安や恐怖心までがなくなったわけではありませんでしたから、薄暗い蔵の埃とカビの入り混じった空気に心は押し潰されそうでした。やはり踵を返して外の世界に戻ろうかと思い始めた矢先、奥の方に細い木の梯子がかかっているのを見つけました。わたしはぐっと下唇を噛んで、震える足を無理やりに梯子の方へと運びました。
長い間使われていなかったことが窺える古い木製の梯子を見上げると、上の方に一層密度の濃い暗闇の漂う空間が広がっているのが見えました。梯子の先はその濃い闇に吸い込まれるように消えていました。とてものぼる勇気は出ない……と思っていると、再び低い話し声が聞こえてきました。その声が二階から梯子を伝って下りて来ることに気がつくと、わたしは思い切って梯子に足をかけ、一段のぼってみました。ぎしぎしと軋む音がしたので、一度地面に下りて履いていたつっかけを脱ぐと、出来得る限り音を立てないように注意しながら、そろそろと梯子の上を目指して行きました。
けれどこうしてぐずぐずしている間にも、祖父と李大龍が蔵の中に入って行ってしまうかと思うと、小さな頭を悩ます様々な考えは頭の中から滑り落ちるが如く掻き消えて、二人を追いかけるべく大急ぎで飛び出しました。祖父に倣って、戸は閉めないままにしておいたことがほんの少し気がかりでしたが、とにもかくにも一刻も早く二人に追いつこうと必死でした。
母屋の裏手に向かって庭を駆けて行くと、入口の木戸が大きく開け放たれた蔵が見え、わたしの足は知らず速度が緩まりました。
田舎の古い家にはよくあることですが、我が家の蔵というのはほとんど母屋と変わらないほどの大きさで、実際昔は住み込みで働いていた使用人たちの住居として使われていたそうでした。
わたしは物心ついた頃から、この蔵が何故かずっと怖くて仕方がありませんでした。ゆうべ食卓で父が言ったようにほぼ一年中閉ざされているこの蔵は、わたしには我が家の敷地にありながら、もう一棟別の、誰か他人の家が建っているような、全くわたしの関知しえない他所の領域であるかのように感じるのでした。
もっと言ってしまうなら、わたしはその大きくて古い蔵を見るといつも、どこか別の世界に引きずり込まれるような気になって、どうしようもない恐怖を感じてしまうのでした。それでわたしは一人庭で遊ぶときなどにも、決して蔵の近くに近寄ったりすることはありませんでした。
歩むにつれて次第に目前に迫って来る蔵の入り口の奥に巨大な漆黒の空間を垣間見るような思いに晒されると、その暗黒の虚空が大口を開けてわたしを飲み込もうとしている想像に襲われて、途端にお腹の底がきゅうっと縮み上がるようでした。
蔵の入口のすぐ手前まで来ると、わたしの足は完全に動きを止め、それどころかぴたりと地面に吸い付いたようになってしまいました。開け放たれた入口からはどろりと濃い墨のような闇が吐き出され、その暗い闇の向こうには何か恐ろしいもの──たとえば昨夜こども部屋の暗がりに蠢いていた妖しく禍々しい生き物たちが潜んでいるという想像がひっきりなしにわたしの体にぶつかっては通り過ぎていくようでした。蔵の奥から流れ出してきたひんやりと冷たい空気が分厚いカーディガン越しに絡みつき、思わず身震いをして後ずさりました。
中に入るのはあきらめて家に戻ろうかと思い始めたとき、低くぼそぼそとしゃべる祖父と李大龍の声が聞こえました。その瞬間、気がつくとわたしはほとんど反射的に蔵の内に飛び込んでいました。押し寄せる真っ暗な闇の洪水に圧倒されましたが、しかし恐慌を来すよりも前に、わたしの目はその暗い闇にわずかな光の帯を描いている明かり取りの窓があるのを見て取りました。そのわずかな外の光に縋って、埃と蜘蛛の糸をかぶった古い道具や機械などで埋まる蔵の中を恐る恐る見回すうちに、暗闇にも目が慣れてきました。
しかし闇に目が慣れたとはいえ、不安や恐怖心までがなくなったわけではありませんでしたから、薄暗い蔵の埃とカビの入り混じった空気に心は押し潰されそうでした。やはり踵を返して外の世界に戻ろうかと思い始めた矢先、奥の方に細い木の梯子がかかっているのを見つけました。わたしはぐっと下唇を噛んで、震える足を無理やりに梯子の方へと運びました。
長い間使われていなかったことが窺える古い木製の梯子を見上げると、上の方に一層密度の濃い暗闇の漂う空間が広がっているのが見えました。梯子の先はその濃い闇に吸い込まれるように消えていました。とてものぼる勇気は出ない……と思っていると、再び低い話し声が聞こえてきました。その声が二階から梯子を伝って下りて来ることに気がつくと、わたしは思い切って梯子に足をかけ、一段のぼってみました。ぎしぎしと軋む音がしたので、一度地面に下りて履いていたつっかけを脱ぐと、出来得る限り音を立てないように注意しながら、そろそろと梯子の上を目指して行きました。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
逢魔ヶ刻の迷い子3
naomikoryo
ホラー
——それは、閉ざされた異世界からのSOS。
夏休みのある夜、中学3年生になった陽介・隼人・大輝・美咲・紗奈・由香の6人は、受験勉強のために訪れた図書館で再び“恐怖”に巻き込まれる。
「図書館に大事な物を忘れたから取りに行ってくる。」
陽介の何気ないメッセージから始まった異変。
深夜の図書館に響く正体不明の足音、消えていくメッセージ、そして——
「ここから出られない」と助けを求める陽介の声。
彼は、次元の違う同じ場所にいる。
現実世界と並行して存在する“もう一つの図書館”。
六人は、陽介を救うためにその謎を解き明かしていくが、やがてこの場所が“異世界と繋がる境界”であることに気付く。
七不思議の夜を乗り越えた彼らが挑む、シリーズ第3作目。
恐怖と謎が交錯する、戦慄のホラー・ミステリー。
「境界が開かれた時、もう戻れない——。」
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
都市伝説ガ ウマレマシタ
鞠目
ホラー
「ねえ、パトロール男って知ってる?」
夜の8時以降、スマホを見ながら歩いていると後ろから「歩きスマホは危ないよ」と声をかけられる。でも、不思議なことに振り向いても誰もいない。
声を無視してスマホを見ていると赤信号の横断歩道で後ろから誰かに突き飛ばされるという都市伝説、『パトロール男』。
どこにでもあるような都市伝説かと思われたが、その話を聞いた人の周りでは不可解な事件が後を絶たない……
これは新たな都市伝説が生まれる過程のお話。
ファムファタールの函庭
石田空
ホラー
都市伝説「ファムファタールの函庭」。最近ネットでなにかと噂になっている館の噂だ。
男性七人に女性がひとり。全員に指令書が配られ、書かれた指令をクリアしないと出られないという。
そして重要なのは、女性の心を勝ち取らないと、どの指令もクリアできないということ。
そんな都市伝説を右から左に受け流していた今時女子高生の美羽は、彼氏の翔太と一緒に噂のファムファタールの函庭に閉じ込められた挙げ句、見せしめに翔太を殺されてしまう。
残された六人の見知らぬ男性と一緒に閉じ込められた美羽に課せられた指令は──ゲームの主催者からの刺客を探し出すこと。
誰が味方か。誰が敵か。
逃げ出すことは不可能、七日間以内に指令をクリアしなくては死亡。
美羽はファムファタールとなってゲームをコントロールできるのか、はたまた誰かに利用されてしまうのか。
ゲームスタート。
*サイトより転載になります。
*各種残酷描写、反社会描写があります。それらを増長推奨する意図は一切ございませんので、自己責任でお願いします。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
電車内では邪魔なモノは折り畳め
蓮實長治
ホラー
穏当に、そう言っただけの筈なのに……?
「なろう」「カクヨム」「アルファポリス」「Novel Days」「ノベリズム」「GALLERIA」「ノベルアップ+」に同じモノを投稿しています。
不労の家
千年砂漠
ホラー
高校を卒業したばかりの隆志は母を急な病で亡くした数日後、訳も分からず母に連れられて夜逃げして以来八年間全く会わなかった父も亡くし、父の実家の世久家を継ぐことになった。
世久家はかなりの資産家で、古くから続く名家だったが、当主には絶対守らなければならない奇妙なしきたりがあった。
それは「一生働かないこと」。
世久の家には富をもたらす神が住んでおり、その神との約束で代々の世久家の当主は働かずに暮らしていた。
初めは戸惑っていた隆志も裕福に暮らせる楽しさを覚え、昔一年だけこの土地に住んでいたときの同級生と遊び回っていたが、やがて恐ろしい出来事が隆志の周りで起こり始める。
経済的に豊かであっても、心まで満たされるとは限らない。
望んでもいないのに生まれたときから背負わされた宿命に、流されるか。抗うか。
彼の最後の選択を見て欲しい。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる