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五十崎檀子の手記
十六
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李大龍の腕が露わになっていくにつれ、わたしは息を呑まずにはいられませんでした。そしてそれは祖父も同じらしく、ぎくりと身を固くして、慄然と息を詰めた気配が廊下の角の柱の陰に身を隠したわたしの元にまで伝わってきました。
肘の辺りまで袖をまくった李大龍は、両腕を祖父の前に掲げるように持ち上げました。その腕には、漢字と記号のようなものとを組み合わせた黒い文字がびっしりと隙間なく並んであるのでした。それらはどうかすると気味の悪い触手や触覚を持った蟲が蠢いているようにも見えて、それがわたしに昨日の──李大龍のスーツの袖の下にわずかに見えた文字の一部が魚の尾鰭のように動いて見えたことを思い出させ、知らず首筋がざわざわと粟立ちました。
李大龍は次にネクタイをゆるめ、きっちりと一番上まで留めていたシャツのボタンの上段を三つほど外して胸元を開いて見せました。まずくっきりと浮き出た鎖骨が目に入りましたが、すぐにわたしの目はその鎖骨より下の、彼の白い肌を覆い尽くす奇妙な黒い文字の群れに釘づけになりました。一瞬、それらの文字が李大龍のシャツの中に身を隠そうと蠢動したように見え、息を呑んで目を凝らしましたが、文字の群れは李大龍の肌の上でひっそりと息を潜めているだけでした。
わたしは気味悪さを覚える一方で、うすぼんやりとではありましたが入れ墨というものがどうやって施されるのかを知っていましたから──これは祖父の会社で働く人たちの中に、筋肉の盛り上がった背中や肩などに和彫りの墨の入っている人が何人かいたためですが──これほどに夥しい文字が優美な柳のような李大龍の体中、その皮膚という皮膚に刺突され、墨が流し入れられる光景などを思い描くと、いったいどれほどの苦痛を伴うものであったかと想像し、慄然とせずにはいられませんでした。
そのとき祖父がふうっと大きく息を吐き出して、手の甲で額をぐっと拭うのが見えました。家紋の染め抜かれた羽織の内側で背中が小刻みに震えているようでした。
「……檀子は昨日、それを見たというわけか……」
かすれた声でひとりごとのように言った祖父に、それまでずっと口を閉ざしていた李大龍が、やはり奇妙に抑揚のついた日本語で、
「お孫さんは、熱が出たでしょう」
思いがけず李大龍がわたしのことを話題にしたのが耳に入ると、全身は火がついたような熱さになり、昨夜の発熱をも知っているような口ぶりに何故か羞恥心が湧き上がってきて、心臓はどきどきと激しく鳴っていました。
李大龍は滴る水音を思わせる声で続けました。
「あなたのお父様と初めてお会いしたとき、お父様はまだ幼いお子さんでしたが、やはり熱を出していました。ときどき、お子さんの中には敏感に反応する子がいるのです」
李大龍の言葉にいよいよ驚きを大きくしていると、祖父が一瞬大きく息を呑んだらしい気配がしました。それからまるで糸の切れた操り人形のようにがくりと肩を落とし、
「……あんたは李大龍なのか……。親父が言ったことは、ほんとうだったんだな……」
そう絞り出すようにして言った祖父の背中は普段より一回りも二回りも小さく見えました。
李大龍は無言でそんな祖父を見ていましたが、やがてまくり上げていた袖を静かに下ろすとシャツのボタンを留め直し、ネクタイをまた元のようにきちんと締めました。そして猫のように目を細めると、力なくうつむく祖父に観察するような視線を送りながら、
「あなたはずいぶんおじい様に似ています。生き写しと言っても良いくらいです。けれどそうやってうつむいたときの鼻の辺りなどは、幼い時分のお父様を思い出します」
李大龍の言葉にますます深く項垂れた祖父はまるで萎れた青菜のようでした。いつも綺麗に整えられている祖父のえり首が、このときほど寒々と頼りなげに見えたことはありませんでした。
しかし実のところそのときのわたしの頭の中には李大龍の言葉が山に轟く雪解けの音声のように響いていたせいで、祖父がどんな心情であったかということにまで思いを馳せる充分な余裕などはありませんでした。李大龍がわたしの曽祖父のみならず、高祖父のことも知っているらしいとわかった以上、冷静ではいられないのも当然のことでした。
いったいどうしてまだ若い彼が、しかも中国から来たという李大龍が、こんな片田舎に住んでいた曽祖父や高祖父を知っているというのか、いくら考えても頭はますます混乱するばかりで、一向に合点がいきませんでした。
ですが、どういうからくりがあるにせよ、李大龍が何かしら我が家と関係があるらしいことを覚ったわたしの胸は弥が上にも高鳴り、全身の血は興奮に渦巻いていました。
李大龍は式台に置いていたぼろぼろの旅行鞄を持ち上げると、昨日母にしたのと同じように、鞄の口を開いて中に詰まった紙幣の束を見せました。しかし祖父は母の話を聞いていたせいか、特別に驚くような素振りも見せず、静かに首を横に振りました。
「もらう道理はない」
すると李大龍は穏やかな、しかしどこか有無を言わさぬ口調で、
「決まりですから、納めてください」
そう言って、鞄から次々と紙幣の束を取り出し、祖父の腕の中に積み上げていきました。
祖父は俯いたまま、李大龍が紙幣を自分の腕に重ね上げていくのを見ているようでしたが、わたしにはいつになく小さく、まるで少年のそれのように頼りないその背中しか見ることはできませんでした。
「蔵の中を拝見できますか」
「……ああ、もちろんだとも……」
力なく頷くと、祖父は抱えていた紙幣の山を無造作に下駄箱の上に置きました。いくつか祖父の腕からこぼれるように土間の上に落ちるのが見えましたが、祖父はそれらを拾い上げるでもなく、土間に下りて草履を履くと、玄関の戸も閉めないまま李大龍を伴って蔵の方へと歩いて行きました。
わたしは慌てて柱の陰から飛び出しました。土間には紙幣の束がいくつかと、落ちた拍子に白い帯封が切れたらしく、ばらけた数枚が冷たい地面に散っていました。
肘の辺りまで袖をまくった李大龍は、両腕を祖父の前に掲げるように持ち上げました。その腕には、漢字と記号のようなものとを組み合わせた黒い文字がびっしりと隙間なく並んであるのでした。それらはどうかすると気味の悪い触手や触覚を持った蟲が蠢いているようにも見えて、それがわたしに昨日の──李大龍のスーツの袖の下にわずかに見えた文字の一部が魚の尾鰭のように動いて見えたことを思い出させ、知らず首筋がざわざわと粟立ちました。
李大龍は次にネクタイをゆるめ、きっちりと一番上まで留めていたシャツのボタンの上段を三つほど外して胸元を開いて見せました。まずくっきりと浮き出た鎖骨が目に入りましたが、すぐにわたしの目はその鎖骨より下の、彼の白い肌を覆い尽くす奇妙な黒い文字の群れに釘づけになりました。一瞬、それらの文字が李大龍のシャツの中に身を隠そうと蠢動したように見え、息を呑んで目を凝らしましたが、文字の群れは李大龍の肌の上でひっそりと息を潜めているだけでした。
わたしは気味悪さを覚える一方で、うすぼんやりとではありましたが入れ墨というものがどうやって施されるのかを知っていましたから──これは祖父の会社で働く人たちの中に、筋肉の盛り上がった背中や肩などに和彫りの墨の入っている人が何人かいたためですが──これほどに夥しい文字が優美な柳のような李大龍の体中、その皮膚という皮膚に刺突され、墨が流し入れられる光景などを思い描くと、いったいどれほどの苦痛を伴うものであったかと想像し、慄然とせずにはいられませんでした。
そのとき祖父がふうっと大きく息を吐き出して、手の甲で額をぐっと拭うのが見えました。家紋の染め抜かれた羽織の内側で背中が小刻みに震えているようでした。
「……檀子は昨日、それを見たというわけか……」
かすれた声でひとりごとのように言った祖父に、それまでずっと口を閉ざしていた李大龍が、やはり奇妙に抑揚のついた日本語で、
「お孫さんは、熱が出たでしょう」
思いがけず李大龍がわたしのことを話題にしたのが耳に入ると、全身は火がついたような熱さになり、昨夜の発熱をも知っているような口ぶりに何故か羞恥心が湧き上がってきて、心臓はどきどきと激しく鳴っていました。
李大龍は滴る水音を思わせる声で続けました。
「あなたのお父様と初めてお会いしたとき、お父様はまだ幼いお子さんでしたが、やはり熱を出していました。ときどき、お子さんの中には敏感に反応する子がいるのです」
李大龍の言葉にいよいよ驚きを大きくしていると、祖父が一瞬大きく息を呑んだらしい気配がしました。それからまるで糸の切れた操り人形のようにがくりと肩を落とし、
「……あんたは李大龍なのか……。親父が言ったことは、ほんとうだったんだな……」
そう絞り出すようにして言った祖父の背中は普段より一回りも二回りも小さく見えました。
李大龍は無言でそんな祖父を見ていましたが、やがてまくり上げていた袖を静かに下ろすとシャツのボタンを留め直し、ネクタイをまた元のようにきちんと締めました。そして猫のように目を細めると、力なくうつむく祖父に観察するような視線を送りながら、
「あなたはずいぶんおじい様に似ています。生き写しと言っても良いくらいです。けれどそうやってうつむいたときの鼻の辺りなどは、幼い時分のお父様を思い出します」
李大龍の言葉にますます深く項垂れた祖父はまるで萎れた青菜のようでした。いつも綺麗に整えられている祖父のえり首が、このときほど寒々と頼りなげに見えたことはありませんでした。
しかし実のところそのときのわたしの頭の中には李大龍の言葉が山に轟く雪解けの音声のように響いていたせいで、祖父がどんな心情であったかということにまで思いを馳せる充分な余裕などはありませんでした。李大龍がわたしの曽祖父のみならず、高祖父のことも知っているらしいとわかった以上、冷静ではいられないのも当然のことでした。
いったいどうしてまだ若い彼が、しかも中国から来たという李大龍が、こんな片田舎に住んでいた曽祖父や高祖父を知っているというのか、いくら考えても頭はますます混乱するばかりで、一向に合点がいきませんでした。
ですが、どういうからくりがあるにせよ、李大龍が何かしら我が家と関係があるらしいことを覚ったわたしの胸は弥が上にも高鳴り、全身の血は興奮に渦巻いていました。
李大龍は式台に置いていたぼろぼろの旅行鞄を持ち上げると、昨日母にしたのと同じように、鞄の口を開いて中に詰まった紙幣の束を見せました。しかし祖父は母の話を聞いていたせいか、特別に驚くような素振りも見せず、静かに首を横に振りました。
「もらう道理はない」
すると李大龍は穏やかな、しかしどこか有無を言わさぬ口調で、
「決まりですから、納めてください」
そう言って、鞄から次々と紙幣の束を取り出し、祖父の腕の中に積み上げていきました。
祖父は俯いたまま、李大龍が紙幣を自分の腕に重ね上げていくのを見ているようでしたが、わたしにはいつになく小さく、まるで少年のそれのように頼りないその背中しか見ることはできませんでした。
「蔵の中を拝見できますか」
「……ああ、もちろんだとも……」
力なく頷くと、祖父は抱えていた紙幣の山を無造作に下駄箱の上に置きました。いくつか祖父の腕からこぼれるように土間の上に落ちるのが見えましたが、祖父はそれらを拾い上げるでもなく、土間に下りて草履を履くと、玄関の戸も閉めないまま李大龍を伴って蔵の方へと歩いて行きました。
わたしは慌てて柱の陰から飛び出しました。土間には紙幣の束がいくつかと、落ちた拍子に白い帯封が切れたらしく、ばらけた数枚が冷たい地面に散っていました。
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