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五十崎檀子の手記
十三
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朝になって目を覚ましたわたしの熱はもうほとんど平常に戻り、体のどこにも特に不調を感じるようなこともありませんでしたが、母は学校を休んでもう一日安静にしているよう言いました。
学校というものがあまり好きではなかったわたしにとっては、病の後の大事を取っての欠席は嬉しいものでした。特にその日は李大龍が来るのですから、家に居られるということがこの上なくわたしを元気づけました。
ところが母はわたしにこども部屋から出ることを許さず、布団の中に無理やり寝かしつけようとするのでした。
「だめよ、今日は一日こうしていなさい」
「でも……」
「いいから」
きつく言いつけるように言った後、母は部屋を出て行き、一人きりになったわたしは大きなため息を吐いて、布団の中、無駄に寝返りばかり打っていました。
普段ならば朝になると、どんな天候の日にも必ず開けられる廊下の板戸が閉じられたままになっており、ただでさえ障子によって隔てられた部屋の中にごろごろとしていたわたしは、いつまでも夜が続いているようなおかしな気分になっていました。
次第に苛立ってくるわたしの頭はもう李大龍のことでいっぱいでした。わたしは居ても立ってもいられず布団に身を起こすと、今にも彼が玄関の戸を開けて入って来るのではないだろうかと、息を殺して耳をそばだてていました。
そこへ母が湯気の立つお粥を手に入って来ました。
「ちょっと、横になっていないとだめじゃないの」
「だって、もう元気だし、退屈なんだもの」
母はわたしの額に手を当てて体温の具合を確認すると、ため息まじりに、
「……仕方がないわねぇ。別に起きていても構わないけど、部屋からは絶対出ないでよ」
お粥の器を差し出され、わたしはふぅふぅと息を吹きかけて冷ましながら、何気ない調子を装って、
「ねぇお母さん、今朝は戸を開けないの? 暗くて不便だし、外の空気を吸いたいんだけど」
「電燈をつけておけば大丈夫でしょ。まだ外の冷たい風に当たるのは良くないから我慢しなさい」
「でも、冷たい風に当たると気分がいいんだけどな」
母はため息を吐き、辺りの様子を窺うようにきょろきょろとしながら、
「もうしばらくはこのままでいなさい。お客様の後でなら、戸を開けてもいいから」
声を潜めて言う母のその言葉に、わたしは内心憮然たる思いでお粥を口に含みました。そのお客様のために戸を開けて欲しかったのに……とすっかり気分は消沈し、お粥を飲み込んだ喉元には苦い塊がつっかえているようでした。
食欲が失せ、ほとんど手つかずのお粥の器を持って母が部屋を出て行くと、わたしは布団に潜り込みました。頭から布団をかぶって膝を抱いていると、涙が流れたのに気がついて、乱暴に手の甲で拭い固く目を閉じましたが、しばらくの間わたしは胸の中をちくちくと鋭い針でもって責め苛まれるような痛みにじっと耐えなければなりませんでした。
そうやって布団の中で丸くなっているうちに、自分でも気づかぬ間についうとうとと眠ってしまっていたわたしは、昼の時報が鳴ったのではっと目を覚ましました。瞬間、しまったと思って大慌てで布団を跳ねのけ飛び起きると、寝間着の上に母の編んでくれた厚手の赤いカーディガンを羽織って、こっそりと部屋を出ました。
板戸が閉められたままの廊下に素足で立って耳を澄ましましたが、家の中はひっそり静まり返って物音ひとつ聞こえてきませんでした。父が早くから家を出ていることはいつも通りだとして、祖母ももう婦人会の集まりのために外出したのでしょうか。母はたぶん勝手口横の台所にいるはずですが、在宅している筈の祖父はどうしているのでしょう。もしかして、既に李大龍の対応を済ませて会社にでも行ってしまったのでしょうか……。わたしはたちまち不安になると、足音を忍ばせて歩き出しました。座敷と呼べるほど大層なものではありませんでしたが、我が家では床の間のある奥の間を客間として使っており、とにかくそこへ行ってみようと思いました。
部屋をいくつか通り抜け、唐紙の張ってある襖の閉められた客間の前まで来ると、わたしは意識を集中させて部屋の中の様子を窺いましたが、やはりしんとした静けさだけが冷たい空気に乗ってわたしの横をするすると揶揄するように通り過ぎていくだけでした。
わたしは思い切って襖をごく細く、わずかばかり開けてみました。隙間からそっと中を覗いて見ますと、そこには紋付き羽織袴姿の祖父が床の間を背にして座っているのが見えました。祖父の姿を目にした途端、思わず安堵の息が漏れるのと同時に、如何にも人待ちをしているらしい祖父の様子から李大龍がまだ来ていないことも察せられ、突如として全身に嬉しげな興奮が燃え立つのを感じました。
それに、祖父が家紋の染め抜かれた羽織姿になるときは大切なお客様をお迎えするときだと知っていたわたしは、李大龍が賓客のように迎えられることに、まるで自分がそうされるような喜びと誇らしさを感じていたのです。
しかし、羽織の袂に腕をしまって目を閉じている祖父の顔に、いつにない暗く険しい色が浮かんでいることにすぐに気がつくと、華やかな喜びに踊っていた心には胸騒ぎが起こり始め、お腹の辺りにごつごつと冷たい氷の塊を飲み込んだような嫌な感覚をおぼえました。
学校というものがあまり好きではなかったわたしにとっては、病の後の大事を取っての欠席は嬉しいものでした。特にその日は李大龍が来るのですから、家に居られるということがこの上なくわたしを元気づけました。
ところが母はわたしにこども部屋から出ることを許さず、布団の中に無理やり寝かしつけようとするのでした。
「だめよ、今日は一日こうしていなさい」
「でも……」
「いいから」
きつく言いつけるように言った後、母は部屋を出て行き、一人きりになったわたしは大きなため息を吐いて、布団の中、無駄に寝返りばかり打っていました。
普段ならば朝になると、どんな天候の日にも必ず開けられる廊下の板戸が閉じられたままになっており、ただでさえ障子によって隔てられた部屋の中にごろごろとしていたわたしは、いつまでも夜が続いているようなおかしな気分になっていました。
次第に苛立ってくるわたしの頭はもう李大龍のことでいっぱいでした。わたしは居ても立ってもいられず布団に身を起こすと、今にも彼が玄関の戸を開けて入って来るのではないだろうかと、息を殺して耳をそばだてていました。
そこへ母が湯気の立つお粥を手に入って来ました。
「ちょっと、横になっていないとだめじゃないの」
「だって、もう元気だし、退屈なんだもの」
母はわたしの額に手を当てて体温の具合を確認すると、ため息まじりに、
「……仕方がないわねぇ。別に起きていても構わないけど、部屋からは絶対出ないでよ」
お粥の器を差し出され、わたしはふぅふぅと息を吹きかけて冷ましながら、何気ない調子を装って、
「ねぇお母さん、今朝は戸を開けないの? 暗くて不便だし、外の空気を吸いたいんだけど」
「電燈をつけておけば大丈夫でしょ。まだ外の冷たい風に当たるのは良くないから我慢しなさい」
「でも、冷たい風に当たると気分がいいんだけどな」
母はため息を吐き、辺りの様子を窺うようにきょろきょろとしながら、
「もうしばらくはこのままでいなさい。お客様の後でなら、戸を開けてもいいから」
声を潜めて言う母のその言葉に、わたしは内心憮然たる思いでお粥を口に含みました。そのお客様のために戸を開けて欲しかったのに……とすっかり気分は消沈し、お粥を飲み込んだ喉元には苦い塊がつっかえているようでした。
食欲が失せ、ほとんど手つかずのお粥の器を持って母が部屋を出て行くと、わたしは布団に潜り込みました。頭から布団をかぶって膝を抱いていると、涙が流れたのに気がついて、乱暴に手の甲で拭い固く目を閉じましたが、しばらくの間わたしは胸の中をちくちくと鋭い針でもって責め苛まれるような痛みにじっと耐えなければなりませんでした。
そうやって布団の中で丸くなっているうちに、自分でも気づかぬ間についうとうとと眠ってしまっていたわたしは、昼の時報が鳴ったのではっと目を覚ましました。瞬間、しまったと思って大慌てで布団を跳ねのけ飛び起きると、寝間着の上に母の編んでくれた厚手の赤いカーディガンを羽織って、こっそりと部屋を出ました。
板戸が閉められたままの廊下に素足で立って耳を澄ましましたが、家の中はひっそり静まり返って物音ひとつ聞こえてきませんでした。父が早くから家を出ていることはいつも通りだとして、祖母ももう婦人会の集まりのために外出したのでしょうか。母はたぶん勝手口横の台所にいるはずですが、在宅している筈の祖父はどうしているのでしょう。もしかして、既に李大龍の対応を済ませて会社にでも行ってしまったのでしょうか……。わたしはたちまち不安になると、足音を忍ばせて歩き出しました。座敷と呼べるほど大層なものではありませんでしたが、我が家では床の間のある奥の間を客間として使っており、とにかくそこへ行ってみようと思いました。
部屋をいくつか通り抜け、唐紙の張ってある襖の閉められた客間の前まで来ると、わたしは意識を集中させて部屋の中の様子を窺いましたが、やはりしんとした静けさだけが冷たい空気に乗ってわたしの横をするすると揶揄するように通り過ぎていくだけでした。
わたしは思い切って襖をごく細く、わずかばかり開けてみました。隙間からそっと中を覗いて見ますと、そこには紋付き羽織袴姿の祖父が床の間を背にして座っているのが見えました。祖父の姿を目にした途端、思わず安堵の息が漏れるのと同時に、如何にも人待ちをしているらしい祖父の様子から李大龍がまだ来ていないことも察せられ、突如として全身に嬉しげな興奮が燃え立つのを感じました。
それに、祖父が家紋の染め抜かれた羽織姿になるときは大切なお客様をお迎えするときだと知っていたわたしは、李大龍が賓客のように迎えられることに、まるで自分がそうされるような喜びと誇らしさを感じていたのです。
しかし、羽織の袂に腕をしまって目を閉じている祖父の顔に、いつにない暗く険しい色が浮かんでいることにすぐに気がつくと、華やかな喜びに踊っていた心には胸騒ぎが起こり始め、お腹の辺りにごつごつと冷たい氷の塊を飲み込んだような嫌な感覚をおぼえました。
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