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五十崎檀子の手記
六
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母はその後ほどなくして所用を済ませ帰って来た祖母──母にとっては義母ですが──に、さっそく李大龍の話をしました。母はわたしには聞こえないようにわざと声を潜めて話すのですが、祖母の顔がだんだんと怒色を帯びていくことから、もともと他人に対しては僻見と言わざるを得ない祖母が、李大龍のことを史上稀に見る悪漢か何かのように思ったことは見当がつきました。
やがて夕方になり、祖父の会社での仕事と村の青年会の仕事とを終えた父が戻ってくると、祖母は大変な剣幕で──祖母曰く──「怪しい中国人」の話をしました。
父は最初こそ眉をしかめて聞いていましたが、李大龍が鞄に大金を入れていたというところに話が及ぶと、俄かに顔じゅうに喜色を浮かべ、母を振り返りました。
「おい、聡子。お袋の言っていることはほんとうなのか」
「え、ええ……」
「それじゃそいつは案外ほんとうの話なんじゃないか。もっと詳しく聞かせろよ」
「一彦、あんたいったい何をそんな嬉しげに言う必要があるのよ。これは大変な問題じゃないの」
「なんの問題があるって言うんだよ、お袋」
「へたをすれば国際問題になるようなことじゃないの」
「またそんな大げさなことを」
そんな言い合いをしているところへ、ちょうど祖父が帰って来たので、祖母と父は一斉にわっと取りつくようにして話し出しました。祖父はそれを両手で遮って待つように言い、わたしの頭を撫でた後、仕事着を脱ぐために、一人書斎の方へと行ってしまいました。
やきもきしながら夕食の膳を整える祖母と母を手伝いながら、わたしは内心どきどきしていました。夕食の席でどんな話が展開されるのか、期待と不安の入り混じる気持ちでいっぱいでいたのです。
祖父は会社や村の行事に出席した際などには立派なスピーチなどもしますが、家の中では多弁な方ではなかったので、そうした祖父の態度もさして不思議ではありませんでしたが、祖母にはそれが不満であることは明らかでした。いきなり息巻くような調子で、
「だいたいそんな大金を持ち歩いているなんてこと自体が怪しいんですよ。それに、名刺のひとつも置いて行かなかったって言うんじゃ、ますますいかがわしいですよ。ただでさえ外人が村の中を我が物顔にうろついているっていうだけでも気持ちが悪いのに……」
わたしは黙々と箸を動かしていましたが、内心ではそれまでに感じたことのない気分の悪さを感じていました。田舎の人というのは概して他所の人たちのことを警戒して敬遠するものですが、祖母はとりわけ閉鎖的な性質の人で、このときもまるで汚らしいものでも見るような目つきをして、会ったこともない李大龍への──実際には何も李大龍に限ったわけではなく、外国人全般に対してそうだったと言わざるを得ないことではありますが───偏見をあからさまにしました。
「そもそも、いったいどこでうちのことを聞いたって言うのか……。ああもう、考えるだけでも恐ろしい。聡子さん、あなたちゃんと塩をまいておいたんでしょうね」
そのとき、それまでずっと黙っていた祖父が顔を上げ、いささか強い口調で言いました。
「こどもの前なんだ、もう止しなさい」
祖母も父も母も、叱られたこどものように急に押し黙り、しばらくは気まずい雰囲気が食卓を覆っていましたが、そのうちに口元をむずむずと動かし始めた父が、新たなビール瓶の栓を抜きながら、おもむろに会話を続けるべく口を開きました。
「……まぁさ、お袋。その男がなんでうちに目をつけたかっていう話だけど、仮にも親父はこの村いちばんの会社を経営しているわけだし、どこで誰がうちの名前を出したっておかしくはないだろ。それに、うちの蔵はこの村じゃ確かにまぁ立派な方には違いないしな。でもまぁ、そいつがほんとうにどこかでうちの話を聞いて来たとは限らないんじゃないか」
「どういうこと?」
怪訝な表情をした母に、父が薄い笑いを唇に浮かべながら言いました。
「うちの蔵は前の通りからも見えるだろ。たまたまこの前を歩いていて、目に入っただけってこともある。でも人に聞いて来たと言った方がこっちの心証がいいし、警戒心だって薄まるだろ。ああいう手合いはもっともな理由をつけて取り入るのがうまいんだよ」
「だけど、なんだってわざわざこんな田舎を回るのかしら。都会の方がよっぽど宝物の見つかる可能性は高いんじゃないかしら」
「ああいう連中は鼻が効くからな。考えようによっちゃ、何かそれらしい確証があってうちに来たのかもしれない。なぁ聡子、その金は全部間違いなくちゃんとした紙幣だったんだろうな。表の一枚だけ本物で、あとは新聞紙を束にしているなんてことはなかったか」
「そんなの一瞬見ただけじゃわからないわよ」
「仕方ねぇなぁ、これだから女はさ。だけどまぁ、それだけぎっしり詰まっていたとなると、だいたい幾らぐらいかな。一千万……いや、二千万か? なぁ、どれくらいの大きさの鞄だったんだ?」
「ちょっと、食卓でそんな話はよしなさい」
祖母に睨まれ父は口を閉じましたが、ビールの泡のついた口元はにやにやと歪んだままでした。
やがて夕方になり、祖父の会社での仕事と村の青年会の仕事とを終えた父が戻ってくると、祖母は大変な剣幕で──祖母曰く──「怪しい中国人」の話をしました。
父は最初こそ眉をしかめて聞いていましたが、李大龍が鞄に大金を入れていたというところに話が及ぶと、俄かに顔じゅうに喜色を浮かべ、母を振り返りました。
「おい、聡子。お袋の言っていることはほんとうなのか」
「え、ええ……」
「それじゃそいつは案外ほんとうの話なんじゃないか。もっと詳しく聞かせろよ」
「一彦、あんたいったい何をそんな嬉しげに言う必要があるのよ。これは大変な問題じゃないの」
「なんの問題があるって言うんだよ、お袋」
「へたをすれば国際問題になるようなことじゃないの」
「またそんな大げさなことを」
そんな言い合いをしているところへ、ちょうど祖父が帰って来たので、祖母と父は一斉にわっと取りつくようにして話し出しました。祖父はそれを両手で遮って待つように言い、わたしの頭を撫でた後、仕事着を脱ぐために、一人書斎の方へと行ってしまいました。
やきもきしながら夕食の膳を整える祖母と母を手伝いながら、わたしは内心どきどきしていました。夕食の席でどんな話が展開されるのか、期待と不安の入り混じる気持ちでいっぱいでいたのです。
祖父は会社や村の行事に出席した際などには立派なスピーチなどもしますが、家の中では多弁な方ではなかったので、そうした祖父の態度もさして不思議ではありませんでしたが、祖母にはそれが不満であることは明らかでした。いきなり息巻くような調子で、
「だいたいそんな大金を持ち歩いているなんてこと自体が怪しいんですよ。それに、名刺のひとつも置いて行かなかったって言うんじゃ、ますますいかがわしいですよ。ただでさえ外人が村の中を我が物顔にうろついているっていうだけでも気持ちが悪いのに……」
わたしは黙々と箸を動かしていましたが、内心ではそれまでに感じたことのない気分の悪さを感じていました。田舎の人というのは概して他所の人たちのことを警戒して敬遠するものですが、祖母はとりわけ閉鎖的な性質の人で、このときもまるで汚らしいものでも見るような目つきをして、会ったこともない李大龍への──実際には何も李大龍に限ったわけではなく、外国人全般に対してそうだったと言わざるを得ないことではありますが───偏見をあからさまにしました。
「そもそも、いったいどこでうちのことを聞いたって言うのか……。ああもう、考えるだけでも恐ろしい。聡子さん、あなたちゃんと塩をまいておいたんでしょうね」
そのとき、それまでずっと黙っていた祖父が顔を上げ、いささか強い口調で言いました。
「こどもの前なんだ、もう止しなさい」
祖母も父も母も、叱られたこどものように急に押し黙り、しばらくは気まずい雰囲気が食卓を覆っていましたが、そのうちに口元をむずむずと動かし始めた父が、新たなビール瓶の栓を抜きながら、おもむろに会話を続けるべく口を開きました。
「……まぁさ、お袋。その男がなんでうちに目をつけたかっていう話だけど、仮にも親父はこの村いちばんの会社を経営しているわけだし、どこで誰がうちの名前を出したっておかしくはないだろ。それに、うちの蔵はこの村じゃ確かにまぁ立派な方には違いないしな。でもまぁ、そいつがほんとうにどこかでうちの話を聞いて来たとは限らないんじゃないか」
「どういうこと?」
怪訝な表情をした母に、父が薄い笑いを唇に浮かべながら言いました。
「うちの蔵は前の通りからも見えるだろ。たまたまこの前を歩いていて、目に入っただけってこともある。でも人に聞いて来たと言った方がこっちの心証がいいし、警戒心だって薄まるだろ。ああいう手合いはもっともな理由をつけて取り入るのがうまいんだよ」
「だけど、なんだってわざわざこんな田舎を回るのかしら。都会の方がよっぽど宝物の見つかる可能性は高いんじゃないかしら」
「ああいう連中は鼻が効くからな。考えようによっちゃ、何かそれらしい確証があってうちに来たのかもしれない。なぁ聡子、その金は全部間違いなくちゃんとした紙幣だったんだろうな。表の一枚だけ本物で、あとは新聞紙を束にしているなんてことはなかったか」
「そんなの一瞬見ただけじゃわからないわよ」
「仕方ねぇなぁ、これだから女はさ。だけどまぁ、それだけぎっしり詰まっていたとなると、だいたい幾らぐらいかな。一千万……いや、二千万か? なぁ、どれくらいの大きさの鞄だったんだ?」
「ちょっと、食卓でそんな話はよしなさい」
祖母に睨まれ父は口を閉じましたが、ビールの泡のついた口元はにやにやと歪んだままでした。
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