3 / 36
五十崎檀子の手記
一
しおりを挟むずいぶんと昔に気まぐれで買ったきり、何年も放置していたこの日記帳にこれから書き記すことをもしも読む人があったなら、そのときにはわたしはもうこの待つだけの人生を終えているということです。しかしその瞬間、わたしが飲まれるものが、歓喜の渦であるのか、それとも失望或いは絶望であるのかは、この時点をもってしてもまだわかりません。
しかしいずれにしてもたったひとつはっきりしていることがあるとするなら、それはわたしの命がきっと今夜のうちに途切れるだろうということです。
これは予感でしかありませんが、しかしわたしは確信をもって言うでしょう──今夜やっと、わたしは死ぬことができるのだと。
あの人は確かに杖家──五十歳を迎えるまでは健やかに過ごせると言い、それはいつしかわたしの中では予言とも預言ともなって絶えずわたしの心をさざ波のようにあの人の元へと寄せていました。
そしてこうして実際に四十八歳という年齢で、死出の旅路に赴こうとしている今、わたしはある種の満足と安心感を抱くと共に、一種不安な、それでいて胸ときめく恍惚感とでも表現できそうな、ざわざわと落ち着かない気持ちでいっぱいです。
この沈黙の時間に耐え兼ねて、あの日の記憶を書き連ねようとするこの行為があの人との約束を違えることにはならないと信ずるしかないのが現状ですが、いずれにしてもわたしはこの時間のあまりに残酷な遅さに気も狂わんばかりになっているのです。
何もせず、ただじっとしているなど、とてもできそうにありません。今はとにかくこの焦燥にも似た気分を紛らわせるため、書かずにはいられません。
誰かに向けてという訳でもなく、ただひとりごとのようにして書こうというのですから、きっと何も問題はないはずでしょう。
わたしの故郷は……どこというのは今となってはもう意味のないことですが、いちばん近くの町に出るにもバスを使って二時間はかかるという山奥の小さな村でした。
生家である五十崎家の始祖たる彬佑は、元は藩有林の管理をする役人だったそうですが、嘉永三年頃この地域で大規模な災害が起こった際に、近隣の村々の立て直しのために山林の払い下げを藩主に申し出て許され、中でも特に被害の大きかったわたしの生家のある村において、熱心に民の生活再建の指導に当たったそうです。
そうするうちに、そのまま村に住み着いて終生を過ごすことになったとのことで、村では中興の祖として親しまれると共に敬仰の対象ともなった人物であると聞かされています。
払い下げられた山林は村に居ついた彬佑によって管理されていたそうですが、それがそのまま五十崎家の私有林となった経緯については詳しくはわかっていません。
とにかく、後に明治の新政府によって行われた版籍奉還や廃藩置県などの折には、各所で財政確保の一環として多くの山林が召し上げられたそうですが、五十崎家の山林は召し上げられることもなく次代へと継承されるに至ったのだそうです。
五十崎家は林業とそれにまつわるもろもろの仕事を一手に握って成功を収めたそうですが、中でも今日においても郷里の名を冠する松茸はいわゆる高級食材とされる特用林産物の中でも特に最高級の銘柄として知られ、贈答品などに広く利用されていますが、これは先見の明があった高祖父の丞成が特に心血を注いだ結果であると聞かされています。
高祖父はいずれ人が山に入らなくなる時代が来ることを見越し、所有していた赤松林の整備を熱心に行い、それを次代にも引き継ぐよう常日頃から厳命していたそうですが、そのある意味では常軌を逸した道楽的情熱ぶりは、まだ松茸が今ほど高価ではなかった大戦前においても、郷里で採れる松茸の価値を高めることに寄与し、遂に献上品として皇室に納められるにまで至ったということでした。
それは同時に村の名を時の文化人たちの間に知らしめる契機ともなったそうです。松茸をはじめとするきのこ類の他、山で獲れる滋味に富んだ山菜や、キジやシカ、イノシシなどの肉も、脂の乗り具合が上品で美味であると言う評価を得、食通を自認する趣味人たちの間では、村に滞在して山の珍味を食すのが如何にも風流であるとする向きが生まれ、中央からの賓客が増えたために、高祖父は村の中に数寄を凝らした宿を立てて大いに彼らの遊山に興を添えたそうです。
その宿はわたしが生まれた頃には既に解体されてなく、実際に見ることは叶いませんでしたが、広い跡地のちょうど中庭だったところには、京都の南禅寺の塔頭である金地院の庭園を模して造られたという蓬莱式庭園の石組が残り、往時に思いを馳せることができるのでした。
とにもかくにも高祖父のそうした一連の経済活動は村の外から大いに円貨を呼び込み、どこの農村も貧困に喘いでいた時代にあって、村の経済を潤して多くの人々の生活を支えることに貢献したため、五十崎家は村の人々から大いに頼りとされ、また高祖父自身もよく面倒を見たということでした。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
逢魔ヶ刻の迷い子3
naomikoryo
ホラー
——それは、閉ざされた異世界からのSOS。
夏休みのある夜、中学3年生になった陽介・隼人・大輝・美咲・紗奈・由香の6人は、受験勉強のために訪れた図書館で再び“恐怖”に巻き込まれる。
「図書館に大事な物を忘れたから取りに行ってくる。」
陽介の何気ないメッセージから始まった異変。
深夜の図書館に響く正体不明の足音、消えていくメッセージ、そして——
「ここから出られない」と助けを求める陽介の声。
彼は、次元の違う同じ場所にいる。
現実世界と並行して存在する“もう一つの図書館”。
六人は、陽介を救うためにその謎を解き明かしていくが、やがてこの場所が“異世界と繋がる境界”であることに気付く。
七不思議の夜を乗り越えた彼らが挑む、シリーズ第3作目。
恐怖と謎が交錯する、戦慄のホラー・ミステリー。
「境界が開かれた時、もう戻れない——。」
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
都市伝説ガ ウマレマシタ
鞠目
ホラー
「ねえ、パトロール男って知ってる?」
夜の8時以降、スマホを見ながら歩いていると後ろから「歩きスマホは危ないよ」と声をかけられる。でも、不思議なことに振り向いても誰もいない。
声を無視してスマホを見ていると赤信号の横断歩道で後ろから誰かに突き飛ばされるという都市伝説、『パトロール男』。
どこにでもあるような都市伝説かと思われたが、その話を聞いた人の周りでは不可解な事件が後を絶たない……
これは新たな都市伝説が生まれる過程のお話。
黒い空
希京
ホラー
不倫・陰陽師・吸血鬼(渡来人)出てきます。
結婚相手の夫には美貌の兄がいた。
太古の昔大陸から渡ってきた吸血鬼の一族。
人間や同族の争いの和平のために政略結婚させられる静は、夫の兄が気になりはじめる。
ファムファタールの函庭
石田空
ホラー
都市伝説「ファムファタールの函庭」。最近ネットでなにかと噂になっている館の噂だ。
男性七人に女性がひとり。全員に指令書が配られ、書かれた指令をクリアしないと出られないという。
そして重要なのは、女性の心を勝ち取らないと、どの指令もクリアできないということ。
そんな都市伝説を右から左に受け流していた今時女子高生の美羽は、彼氏の翔太と一緒に噂のファムファタールの函庭に閉じ込められた挙げ句、見せしめに翔太を殺されてしまう。
残された六人の見知らぬ男性と一緒に閉じ込められた美羽に課せられた指令は──ゲームの主催者からの刺客を探し出すこと。
誰が味方か。誰が敵か。
逃げ出すことは不可能、七日間以内に指令をクリアしなくては死亡。
美羽はファムファタールとなってゲームをコントロールできるのか、はたまた誰かに利用されてしまうのか。
ゲームスタート。
*サイトより転載になります。
*各種残酷描写、反社会描写があります。それらを増長推奨する意図は一切ございませんので、自己責任でお願いします。
電車内では邪魔なモノは折り畳め
蓮實長治
ホラー
穏当に、そう言っただけの筈なのに……?
「なろう」「カクヨム」「アルファポリス」「Novel Days」「ノベリズム」「GALLERIA」「ノベルアップ+」に同じモノを投稿しています。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
不労の家
千年砂漠
ホラー
高校を卒業したばかりの隆志は母を急な病で亡くした数日後、訳も分からず母に連れられて夜逃げして以来八年間全く会わなかった父も亡くし、父の実家の世久家を継ぐことになった。
世久家はかなりの資産家で、古くから続く名家だったが、当主には絶対守らなければならない奇妙なしきたりがあった。
それは「一生働かないこと」。
世久の家には富をもたらす神が住んでおり、その神との約束で代々の世久家の当主は働かずに暮らしていた。
初めは戸惑っていた隆志も裕福に暮らせる楽しさを覚え、昔一年だけこの土地に住んでいたときの同級生と遊び回っていたが、やがて恐ろしい出来事が隆志の周りで起こり始める。
経済的に豊かであっても、心まで満たされるとは限らない。
望んでもいないのに生まれたときから背負わされた宿命に、流されるか。抗うか。
彼の最後の選択を見て欲しい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる