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第五話 朝
しおりを挟む「朝霧さま」
夢うつつの耳に、千代の明るい声が飛び込んでくる。
「朝霧さま! そろそろ起きてください!」
と言う声とともに、体がゆさゆさと揺さぶられる。
「もうちょっと……もうちょっと寝かせてよ、千代」
「んもう! ではあと十分だけですよ?」
ごねる自分も自分だが、それを許してしまう千代もたいがいだ。甘すぎる。
うつらうつらしながらそんなことを考えているうちに、だんだんと意識が覚醒してくる。
千代に見つからないようにそっと薄目を開けてみれば、布団の脇に座った彼女が、難しい顔をして懐中時計とにらめっこしている最中だった。
十分間そうしてにらみ合い、時間きっかりになったら朝霧に声をかけるつもりなんだろう。
千代の生真面目さと不器用さに、うっかり笑い声が漏れてしまった。
「あー! 朝霧さま、起きてらっしゃいますね? 狸寝入りなんてしていないで……きゃ!?」
小言を連ねはじめた千代を、強引に布団の中へ引っ張り込んだ。
「おはよう、僕の奥さん」
「あ、朝霧さま! 遊んでないで……」
「遊んでなんかいないよ。千代がちゃんと僕のそばにいることを確かめているだけ」
背後からぎゅっと抱きすくめて、うなじに顔を埋める。
花に似た良い香りがする。
それを肺いっぱいに吸い込んで、朝霧は今の幸せを噛みしめた。
「朝霧さま」
しんみりと呟かれた名前。
千代はきっと嫁ぐためにこの屋敷を辞した日を思い出したのだろう。
胴に巻き付いた朝霧の腕に、そっと手を添えた。
その指先はもう荒れてもいないし、浅黒くもない。白魚の手という言葉があるが、千代の手はまさにそうだった。
下働きの時分にこしらえた傷はいくつか残っているものの、色の白さのおかげでよくよく目を凝らしてみなければ分からない。
いまとなっては千代の傷の場所を知っているのは本人と、そしてなぜか手に執着する夫――朝霧だけだ。
「君を手放さずに済んで良かったよ」
それは何度も何度も繰り返された言葉。
言われるたびに、嬉しくて泣き出したくなる。朝霧に気づかれぬよう、唇を噛んで涙をこらえた。
雪のちらつく日、夜汽車に乗りこもうとしたまさにその時、彼女の手を引いて止めたのは、息を切らせた朝霧だ。
人目もはばからず、彼女を胸に抱き『行かせない』と。切羽詰まった哀切な声は、今も千代の耳の奥に残っている。
「朝霧さまのお傍にいられて、私は幸せです」
兄に代わって当主の座についた朝霧。その妻となった千代もまた女主人として屋敷を切り盛りしている。慣れないことの連続で戸惑うことも多かったが、その苦労も含めて幸せだった。
本当は─一緒にいられるのなら、幽閉されたままの彼でも良かったのだ。いや、どんな身分でも良かったのだ。彼が彼であるのなら。
「さ、朝霧さま。そろそろ起きましょう? 今日は大事な会談があると聞いていますけれど、少し遠いのでしょう?」
「ん。まぁね。でも、急いで帰ってくるから。それまで君は良い子で待っておいで。そうだ、何か土産を買って来よう。何が良い? 翡翠の簪かい? それとも琥珀の帯留めが良いかな? ああ、この前買ったドレスに合うネックレスなんかどうだい。真っ赤なルビーが良いかな。君の白い首に映えるはずだ。ああ、でも似合いすぎるのも問題だな、だって他の男の視線が……」
「朝霧さま!」
あまりの褒められように真っ赤になりながら、立て板に水でしゃべり続ける夫を遮った。
「無駄遣いは駄目ですよ」
たしなめれば、夫は不満そうに鼻を鳴らす。毎朝似たような会話を繰り広げているふたりは、一瞬の沈黙の後、どちらともなくクスクスと笑いだした。
「さて。そろそろ起きようかな。本当は一日中こうして千代とごろごろしていたいけれどね」
朝霧は大仰にため息をついて、千代の黒々とした髪に顔を埋めた。
「では朝餉の用意をさせますね」
「ああ。頼むよ。ところで千代。君の予定は?」
「今日はお義兄さまのところに少し顔を出してみようかと思います」
「そうかい。きっと君の顔を見れば、兄も喜ぶだろう。よろしく頼むよ」
布団の上に身を起こした朝霧は、千代を引き寄せて額に口づけた。
「はい。一日も早くお義兄さまが昔のお義兄さまに戻ると良いのですけれど……」
「そうだね」
何食わぬ口調で答えながら、朝霧は千代に見えないようにそっと嗤った。
可哀想だから、という名目で鉄格子を取り払ったかつての座敷牢。
半地下のそこに彼はいる。うつろな目で、ただわらべ唄を歌いながら。
鉄格子などなくても、兄は出られないのだ。
なぜなら自分が彼の心を壊したのだから。完膚なきまでに粉々に。
――あなたがいけないんですよ、兄さん。
朝霧は心の中の残影に声をかける。
そのまま放っておけば良かったものを、わざわざつまらぬ手出しなどしてくるから。
――だから、そうやって取って代わられる羽目になるんです。
「本当に愚かだ」
「何か、おっしゃいましたか?」
朝霧の独り言が耳に届いたらしく、千代が訊きかえした。
「いいや、何でもないよ」
屈託のない笑顔を浮かべれば、千代ははにかみながらも微笑み返す。
さわやかな朝の光がふたりを包んでいた。
「今日もいい天気だね、千代」
「ええ、本当に」
半地下の座敷に、この光は届かない。
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