5 / 5
第五話 朝
しおりを挟む「朝霧さま」
夢うつつの耳に、千代の明るい声が飛び込んでくる。
「朝霧さま! そろそろ起きてください!」
と言う声とともに、体がゆさゆさと揺さぶられる。
「もうちょっと……もうちょっと寝かせてよ、千代」
「んもう! ではあと十分だけですよ?」
ごねる自分も自分だが、それを許してしまう千代もたいがいだ。甘すぎる。
うつらうつらしながらそんなことを考えているうちに、だんだんと意識が覚醒してくる。
千代に見つからないようにそっと薄目を開けてみれば、布団の脇に座った彼女が、難しい顔をして懐中時計とにらめっこしている最中だった。
十分間そうしてにらみ合い、時間きっかりになったら朝霧に声をかけるつもりなんだろう。
千代の生真面目さと不器用さに、うっかり笑い声が漏れてしまった。
「あー! 朝霧さま、起きてらっしゃいますね? 狸寝入りなんてしていないで……きゃ!?」
小言を連ねはじめた千代を、強引に布団の中へ引っ張り込んだ。
「おはよう、僕の奥さん」
「あ、朝霧さま! 遊んでないで……」
「遊んでなんかいないよ。千代がちゃんと僕のそばにいることを確かめているだけ」
背後からぎゅっと抱きすくめて、うなじに顔を埋める。
花に似た良い香りがする。
それを肺いっぱいに吸い込んで、朝霧は今の幸せを噛みしめた。
「朝霧さま」
しんみりと呟かれた名前。
千代はきっと嫁ぐためにこの屋敷を辞した日を思い出したのだろう。
胴に巻き付いた朝霧の腕に、そっと手を添えた。
その指先はもう荒れてもいないし、浅黒くもない。白魚の手という言葉があるが、千代の手はまさにそうだった。
下働きの時分にこしらえた傷はいくつか残っているものの、色の白さのおかげでよくよく目を凝らしてみなければ分からない。
いまとなっては千代の傷の場所を知っているのは本人と、そしてなぜか手に執着する夫――朝霧だけだ。
「君を手放さずに済んで良かったよ」
それは何度も何度も繰り返された言葉。
言われるたびに、嬉しくて泣き出したくなる。朝霧に気づかれぬよう、唇を噛んで涙をこらえた。
雪のちらつく日、夜汽車に乗りこもうとしたまさにその時、彼女の手を引いて止めたのは、息を切らせた朝霧だ。
人目もはばからず、彼女を胸に抱き『行かせない』と。切羽詰まった哀切な声は、今も千代の耳の奥に残っている。
「朝霧さまのお傍にいられて、私は幸せです」
兄に代わって当主の座についた朝霧。その妻となった千代もまた女主人として屋敷を切り盛りしている。慣れないことの連続で戸惑うことも多かったが、その苦労も含めて幸せだった。
本当は─一緒にいられるのなら、幽閉されたままの彼でも良かったのだ。いや、どんな身分でも良かったのだ。彼が彼であるのなら。
「さ、朝霧さま。そろそろ起きましょう? 今日は大事な会談があると聞いていますけれど、少し遠いのでしょう?」
「ん。まぁね。でも、急いで帰ってくるから。それまで君は良い子で待っておいで。そうだ、何か土産を買って来よう。何が良い? 翡翠の簪かい? それとも琥珀の帯留めが良いかな? ああ、この前買ったドレスに合うネックレスなんかどうだい。真っ赤なルビーが良いかな。君の白い首に映えるはずだ。ああ、でも似合いすぎるのも問題だな、だって他の男の視線が……」
「朝霧さま!」
あまりの褒められように真っ赤になりながら、立て板に水でしゃべり続ける夫を遮った。
「無駄遣いは駄目ですよ」
たしなめれば、夫は不満そうに鼻を鳴らす。毎朝似たような会話を繰り広げているふたりは、一瞬の沈黙の後、どちらともなくクスクスと笑いだした。
「さて。そろそろ起きようかな。本当は一日中こうして千代とごろごろしていたいけれどね」
朝霧は大仰にため息をついて、千代の黒々とした髪に顔を埋めた。
「では朝餉の用意をさせますね」
「ああ。頼むよ。ところで千代。君の予定は?」
「今日はお義兄さまのところに少し顔を出してみようかと思います」
「そうかい。きっと君の顔を見れば、兄も喜ぶだろう。よろしく頼むよ」
布団の上に身を起こした朝霧は、千代を引き寄せて額に口づけた。
「はい。一日も早くお義兄さまが昔のお義兄さまに戻ると良いのですけれど……」
「そうだね」
何食わぬ口調で答えながら、朝霧は千代に見えないようにそっと嗤った。
可哀想だから、という名目で鉄格子を取り払ったかつての座敷牢。
半地下のそこに彼はいる。うつろな目で、ただわらべ唄を歌いながら。
鉄格子などなくても、兄は出られないのだ。
なぜなら自分が彼の心を壊したのだから。完膚なきまでに粉々に。
――あなたがいけないんですよ、兄さん。
朝霧は心の中の残影に声をかける。
そのまま放っておけば良かったものを、わざわざつまらぬ手出しなどしてくるから。
――だから、そうやって取って代わられる羽目になるんです。
「本当に愚かだ」
「何か、おっしゃいましたか?」
朝霧の独り言が耳に届いたらしく、千代が訊きかえした。
「いいや、何でもないよ」
屈託のない笑顔を浮かべれば、千代ははにかみながらも微笑み返す。
さわやかな朝の光がふたりを包んでいた。
「今日もいい天気だね、千代」
「ええ、本当に」
半地下の座敷に、この光は届かない。
11
お気に入りに追加
44
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
【完結】愛に裏切られた私と、愛を諦めなかった元夫
紫崎 藍華
恋愛
政略結婚だったにも関わらず、スティーヴンはイルマに浮気し、妻のミシェルを捨てた。
スティーヴンは政略結婚の重要性を理解できていなかった。
そのような男の愛が許されるはずないのだが、彼は愛を貫いた。
捨てられたミシェルも貴族という立場に翻弄されつつも、一つの答えを見出した。
【完結】王子は聖女と結婚するらしい。私が聖女であることは一生知らないままで
雪野原よる
恋愛
「聖女と結婚するんだ」──私の婚約者だった王子は、そう言って私を追い払った。でも、その「聖女」、私のことなのだけど。
※王国は滅びます。
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
好きでした、さようなら
豆狸
恋愛
「……すまない」
初夜の床で、彼は言いました。
「君ではない。私が欲しかった辺境伯令嬢のアンリエット殿は君ではなかったんだ」
悲しげに俯く姿を見て、私の心は二度目の死を迎えたのです。
なろう様でも公開中です。
優しく微笑んでくれる婚約者を手放した後悔
しゃーりん
恋愛
エルネストは12歳の時、2歳年下のオリビアと婚約した。
彼女は大人しく、エルネストの話をニコニコと聞いて相槌をうってくれる優しい子だった。
そんな彼女との穏やかな時間が好きだった。
なのに、学園に入ってからの俺は周りに影響されてしまったり、令嬢と親しくなってしまった。
その令嬢と結婚するためにオリビアとの婚約を解消してしまったことを後悔する男のお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる