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第三話 桃

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「しかしいつ見ても器用だね、千代は」

 暢気な声で我に返った。
 ぼんやりと聞いていたから定かではないが、異様に声が近かった気がする。
 不思議に思って桃から顔を上げれば、予想以上の近さに朝霧の端正な顔があった。

「朝霧さま!」

 取り落としそうになった桃を慌てて握りなおす。

「前の子たちはね、桃は切りにくいから嫌だってぼやいてたよ。汁も多くて汚れるって」

 千代の焦りなど素知らぬふうで続ける。
 確かに水気が多くて果肉が柔らかい水菓子は切りにくい。
 垂れた汁であちこち汚れるのが嫌なのは分からないでもない。でも、桃は朝霧の好物ではないか。お仕えする方の好物をそんなことで忌避するとはどういうことか。内心で前任者たちを糾弾する。

「コツさえつかんでしまえば、簡単でございますから。最初にこう刃を入れますでしょう? そして、種に沿って切れ目を入れて。ここを縦に切れば……ほらこのように。あとは皮を剥くだけ」
「へぇ。なるほどね」

 感心したように頷く朝霧の横顔に、千代は嬉しくなった。彼に喜んでもらえるよう、綺麗に切る方法を自分なりに考えた。その努力が報われた気がしたのだ。
 布巾で濡れた手を拭い、桃を載せた皿を座卓に滑らせた。

「どうぞお召し上がりください。白桃という新しい桃だそうです。とても甘くてみずみずしいとか」
「ありがとう」

 礼を言うが早いか、朝霧は千代の手首を掴んだ。

「朝霧さま?」

 強い力で掴まれているわけでもないのに、ほどけない。ゆるりとした拘束。彼がこんな風に触れてくるのは初めてで、千代は戸惑った。

「いくら千代が器用でも、やはり手は汚れてしまうね」

 いったい何をするつもりなのだろう? 胸がどきどきと早鐘を打った。

「こんなに荒れて。この傷に桃の果汁は沁みるだろうに」

 ぎくりと千代の身体がこわばった。彼の言ったことが図星だったからだ。
 一年中酷使する指先は治る暇もなく次々とあかぎれを生じたり、がさがさとささくれ立つ。
 冬よりはマシだが、それでも荒れていることに変わりはなく、現に赤々とした傷口に沁み込んだ桃の汁はジンジンぴりぴりとした痛みを生じさせている。
 痛くない、なんて嘘は言えない。
 だから「慣れていますから」と、何でもないことのように告げた。
 が、すぐに後悔することになった。
 彼女を見る朝霧の目を、陰りがさっと横切ったのだ。

「そんな痛みには慣れなくていい。いや、慣れないでくれ」

 頼むから、と小さく呟いて、彼は荒れた指先に口づけた。

「っ!」

 声にならない悲鳴が千代の喉を突く。
 自分の見ている光景が信じられず、彼女は抵抗も忘れて凝視した。
 朝霧は衝撃に身を固くする彼女に視線を向け、目が合うと満足そうに目を細めた。
 ランプの炎が風もないのに揺らめいて、黒々とした瞳が妖しく光る。
 彼は視線を絡めたまま、千代の人差し指をゆっくりと口に含んだ。
 拭いきれなかった果汁が舌の上でとけ出し、甘味が口に広がる。さらに味わいたくて、舌を指の付け根に向かって、ぞろりと伸ばした。

「あ……あさ……」

 顔を真っ赤に染め、泣き出しそうに潤んだ目をした千代の口からは、意味をなさない声しか出ない。困惑と羞恥の狭間で揺れているのは明らかだった。

「朝霧、さま」
「ん?」

 ようやくの思いで名を呼ぶと、朝霧は指を口に含んだまま応える。

「手を、手を離してください」

 答えるかわりに彼は楽しげに目を眇め、舐っていた人差し指から顔を離した。
 終わったと思った千代がほうっとため息を漏らすより早く、今度は中指に舌を這わせはじめた。
 それも口腔に含むのではなく、舌を長く伸ばし、まるで彼女に見せつけるかのように舐めあげる。

「っあ!」

 小さな悲鳴が口を突いた。
 暗い艶に濡れた目がじっと彼女の羞恥に震える姿を見つめる。その視線は、蝶を縫い止めるピンのように怜悧であり、同時に熱を放ち続ける熾火のように熱い。
 千代は混乱した頭で、その怜悧さと熱さをまるで牢獄のようだと思った。
 一度入ってしまえば永遠に出ることのできない、甘くて怖い檻。
 目を逸らさなければ。早く目を背けてしまわねば。でないと、あそこに捕まってしまう。
 理性がそう警鐘を鳴らす。
 なのに、体は言うことを聞いてくれない。
 それどころか、瞳のもっと奥を、その奥に隠れた朝霧の心を知りたいと渇望する感情が全身を支配していった。
 彼の舌に絡みつかれた指から伝わる湿った熱と、かすかな痛みが、千代の心を焦がす。

「朝霧さま……朝霧さま……どうしてこんなことを……」

 尋ねた声はか細く、熱に浮かされたように震えていた。

「どうしてだか分からない?」

 問い返した朝霧の声には、ほの暗い笑みが含まれていた。まるで何も知らない彼女を咎めたいかのように。

「そうだなぁ。僕はね、君が考えるよりずっとずっとたくさん君のことが好きなんだ」

 薄闇に棲む朝霧のような男にとって、彼女から匂い立つ太陽の香りは目を焼くほどに惹きつける。
 しかし、彼女はそれを微塵も分かっていない。
 だから。だから……。

「だからね、僕の気持ちを君に知って欲しくて」

 知って、それでもそばにいてくれ。朝霧は願う。
 ああ、そうだ。この子の実家は貧しい。この子の稼ぎがなければ家族は野垂れ死にだ。千代は逃げない。いや、逃げられない。
 彼女を縛り付けられるこの境遇に、快哉を叫びたい気分だった。
 自分を幽閉した兄に初めて感謝の念を抱いたぐらい、嬉しかった。

「ねぇ、千代。君は、君だけは僕のそばにいてくれるよね?」

 憐れみを誘うような切ない声を作って、彼女の腕に縋る。
 顔を真っ赤にして泣き出しそうに顔を歪めた千代は、戸惑いながらも小さく頷いた。
 彼女の返事に朝霧は顔をほころばせ、もう一度彼女の手の甲に唇を寄せた。
 荒れた指、浅黒い肌。
 しかし、それは彼女がここへやって来たときよりもだいぶ綺麗になっていた。
 肌荒れの度合いは少しずつ改善しているし、野良仕事ほどは日に当たらない今の生活は彼女の肌を徐々に生来の色へと戻し始めている。
 いつかこの手を、自分のそれより白く美しくしてやりたい。そんなことを考えながら、彼女の手の甲をゆっくりと指でなぞった。

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