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第二話 過去
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寒い冬の日だった。
先輩格の女中に連れられて初めて座敷牢を訪れた千代は、緊張と不安でがちがちに身をこわばらせていた。
屋敷に着いて早々、座敷牢に囚われている人物の世話をしろと言われたのだ。どんな人物なのか、なぜ座敷牢などに入れられているのか――。そういった扱いをされる者の中には、取り返しがつかないほど心を病んでいる場合も多いのだ。
果たして、自分のように痩せぎすで、学もなく、弁も立たず、気の回らない自分で世話係が務まるだろうか。不安にならない方がおかしい。
「何をぐずぐずしてるんだい! さっさと挨拶をおし!」
叱責を受けて、恐る恐る顔を上げた途端、時が止まった。
その瞬間、千代は一目で朝霧に好感を覚えた。いや、魅せられたと言った方が正しいかもしれない。
ここに閉じ込められているのは、人ではなくて神か、その眷属なのではないか─とも思いさえした。
それほどまでに朝霧の容姿は浮世離れしていたのだ。
幽閉生活は彼の肌を抜けるように白くし、体を細く華奢にしていた。
どのような偶然が生み出したのかと目を疑いたくなるほどの美貌。黒い瞳は理知的な光をたたえ清冽であるのに対し、紅を刷いたように紅い唇は密が滴るように妖艶である。
そして――。
彼を神秘的に見せているその最たるものは、雪のように真っ白な髪だ。だが、右耳の後ろあたりの髪がひと房、闇が凝ったような黒だった。
他の者であれば奇異に映っるであろうそれすらも、朝霧は魅力に変えていた。
それまで野良仕事に明け暮れていた千代は、己の浅黒さ、荒れた指、もとが何色であったのかさえ分からない擦り切れた着物を恥じ、居心地悪そうに身じろぎをした。
そんな千代に向かって朝霧はにっこりと笑ったのだ。
「やぁ。君が新しい子かい?」
涼やかな声が親しげに響いた。
「あ、はい……。どうぞよろしくお願いいたします」
しろどろもどろで答えたのは、魅了されたからだけではない。彼のわけ隔てのない態度に驚いたからだ。
朝霧と顔を合わせるより前に会った屋敷の者たちはみな一様に、千代を汚いものでも見るかのような目で見た。
きっと朝霧からもそんな視線を受けると思ったのに。
それなのに目の前の男は、興味津々と言った態で目を輝かせている。
「よろしくと言わなければならないのは僕のほうだよ。ねぇ、君。名前は? 出身は? 歳は?」
矢継ぎ早の質問に面食らいながらも、一つひとつ答えて行けば、そのたびに彼は満足そうに頷いた。
千代を案内した女中は、簡単に仕事の内容を説明すると、まるで逃げ出すかのようにそそくさと出て行ってしまった。
女中が出て行ったことなど全く意に介していない朝霧は、それからも時間が許す限り千代に様々な質問をしては、楽しそうに笑ったものだ。
夕餉を取りに来い、と先輩女中から声をかけられ話を切り上げる頃にはもう、朝霧が恐ろしいとは到底思えなくなっていた。
事実、朝霧は心を病んで幽閉されたのではなかったのだ。
それは使用人たちの雑談を小耳にはさんだり、何かとかしましい女中たちの噂話を聞くともなしに聞いているうち、少しずつ知っていった。
異能の一族において、彼だけが無能だった。
いや、幼少の頃は稀代の能力を持ち将来を嘱望されていたが、大病を患いその際に力を全て失ったと言う。
人を超えた力で政を裏から操り、絶大な権力を振るう一族。その権勢は徳川の世が終わり、明治と元号が変わった今でも変わらない。
その一族の中、無能であることは許されなかった。
無能者がいると他に知れれば、侮る者が出てくる。
斜陽を招かぬために、朝霧は屋敷の奥深くに閉じ込められ、対外的には『極度の人嫌いのため外には出ない』とされているのだ。
その事実を知った時、千代はあまりの怒りに体が震えた。悲しみに涙が止まらなかった。使用人風情が何を……との自嘲が脳裏をよぎっても、感情を止めることはできない。
彼女の様子がおかしいことに気づいた朝霧に問い詰められ、洗いざらいぶちまけた。
誰かに盗み聞ぎされても良い。
それがもとで馘首にされても構わない。そんな覚悟で涙ながらに思いを吐露する。
ずっと黙って聞いていた朝霧は、彼女の吐露が終わると凪いだ顔で笑った。
「仕方がないことなのだよ」
と。それがますます千代を泣かせ、朝霧は困ったように眉尻を下げて首を傾げた。
「困ったな。どうしたら泣き止んでくれる? ――ああ、そうだ。良いことを思いついた。ちょっとこっちへおいで」
嗚咽を漏らしつつ、鉄格子へ歩み寄る。
朝霧も同じように歩み寄り、格子の間から腕を伸ばした。
白く細く、しかし男らしく骨ばった手が、娘の頭を撫でた。ゆるり、ゆるりと柔らかく撫でる。
髪に感じる優しい熱に、くしゃりと顔が歪んだ。泣くのをこらえるのは酷く苦しくて、頭がジンジンとしびれる。
「千代は優しい子だね」
優しく悲しい言葉が、最後の堰を強引に断ち切った。
耐え切れなくなった千代は、わぁわぁと大声を上げて泣いた。
泣いて、泣いて、声が枯れ、目が潰れるほど泣いた。
その間、朝霧はずっと彼女の頭を撫でていた。
嬉しいような、悲しいような、くすぐったいような、そんな不思議な笑みを浮かべながら――。
先輩格の女中に連れられて初めて座敷牢を訪れた千代は、緊張と不安でがちがちに身をこわばらせていた。
屋敷に着いて早々、座敷牢に囚われている人物の世話をしろと言われたのだ。どんな人物なのか、なぜ座敷牢などに入れられているのか――。そういった扱いをされる者の中には、取り返しがつかないほど心を病んでいる場合も多いのだ。
果たして、自分のように痩せぎすで、学もなく、弁も立たず、気の回らない自分で世話係が務まるだろうか。不安にならない方がおかしい。
「何をぐずぐずしてるんだい! さっさと挨拶をおし!」
叱責を受けて、恐る恐る顔を上げた途端、時が止まった。
その瞬間、千代は一目で朝霧に好感を覚えた。いや、魅せられたと言った方が正しいかもしれない。
ここに閉じ込められているのは、人ではなくて神か、その眷属なのではないか─とも思いさえした。
それほどまでに朝霧の容姿は浮世離れしていたのだ。
幽閉生活は彼の肌を抜けるように白くし、体を細く華奢にしていた。
どのような偶然が生み出したのかと目を疑いたくなるほどの美貌。黒い瞳は理知的な光をたたえ清冽であるのに対し、紅を刷いたように紅い唇は密が滴るように妖艶である。
そして――。
彼を神秘的に見せているその最たるものは、雪のように真っ白な髪だ。だが、右耳の後ろあたりの髪がひと房、闇が凝ったような黒だった。
他の者であれば奇異に映っるであろうそれすらも、朝霧は魅力に変えていた。
それまで野良仕事に明け暮れていた千代は、己の浅黒さ、荒れた指、もとが何色であったのかさえ分からない擦り切れた着物を恥じ、居心地悪そうに身じろぎをした。
そんな千代に向かって朝霧はにっこりと笑ったのだ。
「やぁ。君が新しい子かい?」
涼やかな声が親しげに響いた。
「あ、はい……。どうぞよろしくお願いいたします」
しろどろもどろで答えたのは、魅了されたからだけではない。彼のわけ隔てのない態度に驚いたからだ。
朝霧と顔を合わせるより前に会った屋敷の者たちはみな一様に、千代を汚いものでも見るかのような目で見た。
きっと朝霧からもそんな視線を受けると思ったのに。
それなのに目の前の男は、興味津々と言った態で目を輝かせている。
「よろしくと言わなければならないのは僕のほうだよ。ねぇ、君。名前は? 出身は? 歳は?」
矢継ぎ早の質問に面食らいながらも、一つひとつ答えて行けば、そのたびに彼は満足そうに頷いた。
千代を案内した女中は、簡単に仕事の内容を説明すると、まるで逃げ出すかのようにそそくさと出て行ってしまった。
女中が出て行ったことなど全く意に介していない朝霧は、それからも時間が許す限り千代に様々な質問をしては、楽しそうに笑ったものだ。
夕餉を取りに来い、と先輩女中から声をかけられ話を切り上げる頃にはもう、朝霧が恐ろしいとは到底思えなくなっていた。
事実、朝霧は心を病んで幽閉されたのではなかったのだ。
それは使用人たちの雑談を小耳にはさんだり、何かとかしましい女中たちの噂話を聞くともなしに聞いているうち、少しずつ知っていった。
異能の一族において、彼だけが無能だった。
いや、幼少の頃は稀代の能力を持ち将来を嘱望されていたが、大病を患いその際に力を全て失ったと言う。
人を超えた力で政を裏から操り、絶大な権力を振るう一族。その権勢は徳川の世が終わり、明治と元号が変わった今でも変わらない。
その一族の中、無能であることは許されなかった。
無能者がいると他に知れれば、侮る者が出てくる。
斜陽を招かぬために、朝霧は屋敷の奥深くに閉じ込められ、対外的には『極度の人嫌いのため外には出ない』とされているのだ。
その事実を知った時、千代はあまりの怒りに体が震えた。悲しみに涙が止まらなかった。使用人風情が何を……との自嘲が脳裏をよぎっても、感情を止めることはできない。
彼女の様子がおかしいことに気づいた朝霧に問い詰められ、洗いざらいぶちまけた。
誰かに盗み聞ぎされても良い。
それがもとで馘首にされても構わない。そんな覚悟で涙ながらに思いを吐露する。
ずっと黙って聞いていた朝霧は、彼女の吐露が終わると凪いだ顔で笑った。
「仕方がないことなのだよ」
と。それがますます千代を泣かせ、朝霧は困ったように眉尻を下げて首を傾げた。
「困ったな。どうしたら泣き止んでくれる? ――ああ、そうだ。良いことを思いついた。ちょっとこっちへおいで」
嗚咽を漏らしつつ、鉄格子へ歩み寄る。
朝霧も同じように歩み寄り、格子の間から腕を伸ばした。
白く細く、しかし男らしく骨ばった手が、娘の頭を撫でた。ゆるり、ゆるりと柔らかく撫でる。
髪に感じる優しい熱に、くしゃりと顔が歪んだ。泣くのをこらえるのは酷く苦しくて、頭がジンジンとしびれる。
「千代は優しい子だね」
優しく悲しい言葉が、最後の堰を強引に断ち切った。
耐え切れなくなった千代は、わぁわぁと大声を上げて泣いた。
泣いて、泣いて、声が枯れ、目が潰れるほど泣いた。
その間、朝霧はずっと彼女の頭を撫でていた。
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