上 下
10 / 12
エンゲージリングと無数の星

3話:ただいま

しおりを挟む


 ほどなくして降り立った地も快晴で、小春日和と言うのにふさわしい暖かさだった。
 羽織ったコートのウエストのリボンを撫でつつ、脱ごうかと悩んだけれど、結局着たままに決めた。
 去年の春、汚れてしまったコートの代わりに和司さんがプレゼントしてくれたもので、着ているとなんとなく落ち着くから。
 空港前の広々としたロータリーに停まっていたタクシーに乗り込んで、空港から約三十分。
 渋滞もなく車は順調に進み、降りたのは新築の五階建てのオフィスビルの真ん前。
 周りのビルに比べて人の出入りが激しく見えるのは、完成して間もないため、どの企業もほぼ同時期に入居を開始しているからだろう。
 真新しい匂いのする事務所には既に四人が勤務している。所長と、営業担当がふたり、そして事務員がひとり。
 契約社員として現地採用になった女性事務員――江藤さんという方は、今日が初出社らしい。
 彼女も私も初めての場所であたふたしながら、それでも他の三人の手助けを受けつつ、何とか一日目に予定していたことは全てこなせた。
 彼女は私と同年代で、話し方や性格がさばさばしていて少し美香ちゃんに似ている。
 すごくよく気が付く人で、仕事のコツを飲み込みも早い。
 大きなトラブルもなくてスケジュール通りどころか、ハイペースで予定が消化されていった。出張も半ばを過ぎたあたりで、帰りの飛行機を夜の便から、午後の便へと早めるほどに。

 仕事中は気にならないけれど、宿泊先のホテルに戻るとどうしても寂しさが胸に湧いてくる。そういえばこんなに長い間、一人で夜を過ごすのは初めてだ。
 見るともなしにつけっぱなしにしたテレビではバラエティ番組が流れていて、時折どっと笑い声が起きる。普段なら家族と一緒に楽しく見てるはずだと思えば、笑い声さえ寂しさを際立たせるものでしかなくて、すぐに消してしまった。
 ため息を吐きつつ勢いよくベッドに座れば、二度三度と体がはねた。

「和司さん、今ごろ何してるかなぁ」

 今頃はまだ会社かな? それとも、もう家に帰ってるかな? 声が聴きたい。
 携帯を手に、和司さんの番号を呼び出した。
 けれど……。
 もし仕事中だとしたら邪魔はしたくない。
 私が帰るのはちょうどバレンタインデー。一目で良いから会えないかと思って、予定を聞くためのメールを送ったけれど、いまだに返事は来ていない。
 いつもは手が空き次第返信してくれるのに、今回に限っては何日も返事がない。と言うことは相当仕事が忙しいんだろう。
 そうと思うと通話ボタンを押すのが躊躇われて、結局押せないままベッドの上に放り出した。

「んー。とりあえずメールしておこうかな」

 電話は諦めて、メール画面を立ち上げた。
 いつも通り書いては消し、書いては消しを繰り返し、挙句の果てに出来上がった素っ気ない文面で、帰りの予定を早めたことと到着時間を送った。

「会いたいなぁ」

 絶対言うまいと思っていたと弱音が口をついてしまったのは、夜特有の感傷に負けただけだと思いたい。







 出張は半ばを過ぎれば後は矢のように過ぎて、気が付けば十四日になっていた。
 あの後も和司さんからの返信はなくて、今日は帰っても彼には会えなさそうだ。

「仕方ないよね、忙しい人だし!」

 こんなことで落ち込んでてどうするの! と頬を叩いて気合を入れる。
 荷物の整理は昨夜終わってるし、あとは朝ごはんを食べてチェックアウトすればいいだけ。
 私はベッドの上に勢いよくひっくり返って天井を見上げた。真っ白いそこにカーテンから漏れた朝日がレース模様を作っている。

「なーんかあっという間だったな」

 良い経験だから行っておいでと言ってくれた和司さんの言葉を思い出す。彼の言う通り確かに良い経験をさせて貰ったと思う。

「さて! ご飯食べてこよっと」

 ルームキーと朝食券をバッグに入れて部屋を出た。
 成長したかどうかは疑問だけど、たった一週間なのに確実に独り言が多くなっている。そんなことに気付いて私はひとり苦笑いした。 
 教えることは全て教え終わっているので、今日の午前中は再確認の作業だけ。お昼を食べたら空港に向かう。
 新事務所のメンバーはみんな良い方ばかりで、短い間一緒に仕事をしただけなのにちょっと別れがたくなっていた。
 特に江藤さんとはずいぶん打ち解けて、携帯の番号とメアドまで交換したり。
 昼休みと同時に私はみんなにお別れの挨拶をして営業所をあとにした。
 平日昼と言うこともあってか空車のタクシーはなかなか見当たらないかなと思ったけれど、運よく捕まえられた。
 一週間前は見知らぬ街で、どこかよそよそしく感じたここも、一週間のうちに少し身近に感じられるようになったし、もうよそよそしいとも思わない。流れさる景色を眺めながら、また来る機会があったらいいなぁとぼんやりと考えていた。







 十五時発の便は定刻通りに出発した。
 この一週間は冬晴れの日が続き、朝晩は酷く冷え込むけれど、日中は暖かい。機内から見える景色もうららかで、西に傾いた日が世界を薄い黄昏色に染めている。
 地上から見上げるのとは全く違う顔を見せる富士山を眺めながら、もうすぐ戻れるんだと、肩の力が抜けた。
 空の旅は行きと同じでほぼ一時間程度。定刻通りにの到着だった。
 広々とした到着ロビーはそこそこ混雑している。
 沢山の人々が行き交う中、私は開いているベンチを見つけて座った。
 搭乗する際にオフにておいた携帯の電源を入れるためだ。
 電源ボタンを長押し、起動画面が表示される。少しして表れた待受け画面には着信と留守メッセージがそれぞれ一件ずつあると表示されている。
 着信は和司さんから。きっと留守メッセージも彼からだろう。
 私は慌ててメッセージを聞く。

『雪乃? ごめん。今朝のメール、今読んだ。あ、今は十四時半ね。そろそろ搭乗した頃かな? 飛行機の到着時間了解した。何が何でも迎えに行くから、到着ロビーのあたりで待ってて。空港着いたらまた電話する。じゃあ』

 忙しい合間をぬっての連絡だったのか、いつもの和司さんらしくないほどせわしない早口の伝言。
 迎えに来るって……それってすっごく無理してるんじゃないの!? 
 慌てて電話をかけてみたけれど繋がらなくて、留守番電話サービスへと接続されてしまった。電話に出られない理由については色々な可能性がある。いずれにせよ、立て続けに電話をするのは迷惑になるのだし、行き違いになるのも怖いから、しばらくここでじっとしているのが一番良さそうだ。
 もししばらく待っても彼が来なかったり、連絡がなかったらもう一度連絡してみよう。
 もともとはもっと遅く帰ってくる予定だったし、今日はこのまま直帰していいと言われているし、大して疲れてもいないし、待つのは全然苦にならないのだから。
 着信したらすぐ気が付くように、手に携帯を持ったまま目の前の雑踏をぼんやりと見つめる。色々な人が自分の目的地に向かって、自分のペースで歩いて、そして交差する。沢山の人にそれぞれの用事があってここにいて、そしてそれは私も同じで、そう考えるとなんだか不思議な気分になってくる。
 そうやって行き交う人々をぼんやりと眺めていたけれど、だんだん手持ち無沙汰になったので立ち上がった。上の階には色々なお店が入っているはずだ。そこをブラブラと見て回りながら和司さんを待とう。
 ざっと辺りを見回して、一番手近なエスカレーターを見つけてそちらへ向かう。数歩踏み出したところでいきなり背後から腕が伸びてきた。

「ひゃっ!?」

 変な悲鳴が口から漏れる。何が起きたのか分からず混乱する私の耳に聞き慣れた、そして懐かしい声が聞こえてくる。

「待っててって言ったでしょ。どこに逃げるつもり?」

 からかいを含んだ声が甘い。体に回された腕にぎゅっと力がこもる。

「和司さん!」
「お帰り雪乃。予定より早く帰って来てくれて嬉しいよ」
「ただいま、です。――そろそろ離して貰えませんか」

 衆人環視の中でこの抱擁はひっじょーに恥ずかしい。嬉しいけれど恥ずかしい。

「もー。雪乃は相変わらず恥ずかしがり屋だなぁ」
「そう言うことじゃありませんっ!! 少しは時と場所を選んでください」

 真っ赤になりながら食ってかかってもあまり効果はないかも。

「場所? これ以上相応しい場所もないでしょ? 恋人同士が久々に再会したんだし!」

 涼しい顔でそんなことを言い放てる和司さんがある意味羨ましい。
 開いた口が塞がらず呆然としていると和司さんは楽しそうに笑って、今度は正面から抱きすくめられた。

「か、和司さんってばっ!!」
「本物の雪乃だー」

 咎める私の声は彼ののんびりしたそれに遮られた。
 ぎゅーっと抱きしめられてると周りの雑踏も見えないし、ざわめきも聞こえなくなって来て、恥ずかしがってばっかりいるのが少しだけ虚しくなってきた。
 そうっと彼の背中に手を回して、それから腕に力を込めた。

「ただいま帰りました、和司さん」

 もう一度ただいまを言うと、和司さんは小さく「うん」と頷いて、私を抱く手に力を込めた。
 ああ、帰ってきたんだ……
 心の底からそう思えて、肩から力が抜けた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

友情結婚してみたら溺愛されてる件

鳴宮鶉子
恋愛
幼馴染で元カレの彼と友情結婚したら、溺愛されてる?

溺愛ダーリンと逆シークレットベビー

葉月とに
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。 立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。 優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?

隠れ御曹司の愛に絡めとられて

海棠桔梗
恋愛
目が覚めたら、名前が何だったかさっぱり覚えていない男とベッドを共にしていた―― 彼氏に浮気されて更になぜか自分の方が振られて「もう男なんていらない!」って思ってた矢先、強引に参加させられた合コンで出会った、やたら綺麗な顔の男。 古い雑居ビルの一室に住んでるくせに、持ってる腕時計は超高級品。 仕事は飲食店勤務――って、もしかしてホスト!? チャラい男はお断り! けれども彼の作る料理はどれも絶品で…… 超大手商社 秘書課勤務 野村 亜矢(のむら あや) 29歳 特技:迷子   × 飲食店勤務(ホスト?) 名も知らぬ男 24歳 特技:家事? 「方向音痴・家事音痴の女」は「チャラいけれど家事は完璧な男」の愛に絡め取られて もう逃げられない――

あの夜、あなたがくれた大切な宝物~御曹司はどうしようもないくらい愛おしく狂おしく愛を囁く~

けいこ
恋愛
密かに想いを寄せていたあなたとのとろけるような一夜の出来事。 好きになってはいけない人とわかっていたのに… 夢のような時間がくれたこの大切な命。 保育士の仕事を懸命に頑張りながら、可愛い我が子の子育てに、1人で奔走する毎日。 なのに突然、あなたは私の前に現れた。 忘れようとしても決して忘れることなんて出来なかった、そんな愛おしい人との偶然の再会。 私の運命は… ここからまた大きく動き出す。 九条グループ御曹司 副社長 九条 慶都(くじょう けいと) 31歳 × 化粧品メーカー itidouの長女 保育士 一堂 彩葉(いちどう いろは) 25歳

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

十年越しの溺愛は、指先に甘い星を降らす

和泉杏咲
恋愛
私は、もうすぐ結婚をする。 職場で知り合った上司とのスピード婚。 ワケアリなので結婚式はナシ。 けれど、指輪だけは買おうと2人で決めた。 物が手に入りさえすれば、どこでもよかったのに。 どうして私達は、あの店に入ってしまったのだろう。 その店の名前は「Bella stella(ベラ ステラ)」 春の空色の壁の小さなお店にいたのは、私がずっと忘れられない人だった。 「君が、そんな結婚をするなんて、俺がこのまま許せると思う?」 お願い。 今、そんなことを言わないで。 決心が鈍ってしまうから。 私の人生は、あの人に捧げると決めてしまったのだから。 ⌒*。*゚*⌒*゚*。*⌒*。*゚*⌒* ゚*。*⌒*。*゚ 東雲美空(28) 会社員 × 如月理玖(28) 有名ジュエリー作家 ⌒*。*゚*⌒*゚*。*⌒*。*゚*⌒* ゚*。*⌒*。*゚

【完結】やさしい嘘のその先に

鷹槻れん
恋愛
妊娠初期でつわり真っ只中の永田美千花(ながたみちか・24歳)は、街で偶然夫の律顕(りつあき・28歳)が、会社の元先輩で律顕の同期の女性・西園稀更(にしぞのきさら・28歳)と仲睦まじくデートしている姿を見かけてしまい。 妊娠してから律顕に冷たくあたっていた自覚があった美千花は、自分に優しく接してくれる律顕に真相を問う事ができなくて、一人悶々と悩みを抱えてしまう。 ※30,000字程度で完結します。 (執筆期間:2022/05/03〜05/24) ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ 2022/05/30、エタニティブックスにて一位、本当に有難うございます! ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ --------------------- ○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。  (作品シェア以外での無断転載など固くお断りします) ○雪さま (Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21 (pixiv)https://www.pixiv.net/users/2362274 ---------------------

不埒な一級建築士と一夜を過ごしたら、溺愛が待っていました

入海月子
恋愛
有本瑞希 仕事に燃える設計士 27歳 × 黒瀬諒 飄々として軽い一級建築士 35歳 女たらしと嫌厭していた黒瀬と一緒に働くことになった瑞希。 彼の言動は軽いけど、腕は確かで、真摯な仕事ぶりに惹かれていく。 ある日、同僚のミスが発覚して――。

処理中です...