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第二十九話 勇気を出します。

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 何事もなく、夜は静かに明けた。
 夕陽や夜の闇の中では不気味な様相を呈していた幽霊屋敷も、朝の光に照らされてみればただの色あせた古屋敷に見える。
 廊下や玄関ホールでは、昨夜の掃除で払いきれなかった蜘蛛の巣や埃が、手の届かぬ遠く……天井近くで、朝陽にキラキラと光っている。
 足元の絨毯は色が褪せきっているが、元ははさぞ美しかっただろうと思わせる。
 客室から続く廊下を進み、玄関ホールまで戻ると、食堂のほうから人の気配がする。
 木製の分厚いドアのせいで正確なところはわからないが、おそらくツェラとトーニの声だ。
 ファーナはドアの少し手前で躊躇うように足を止めた。
 昨夜決めたことなのに、いざその場になるとやっぱり不安で緊張する。

「だいじょうぶだよ、ファーナ。行こう」

 エドガルトがそっと背を押した。

「やっぱり緊張しますね」

 と、冗談めかした口調に本音を混ぜて吐露すると、少しだけ気が楽になった。

「今日のところはやめておく?」

 エドガルトの気遣いに、ファーナは首を横に振った。一度決めたことを簡単に覆したりしたくない。
 エドガルトが一緒の時は自分でドアを開けたことがない。けれど今はどうしても自分で開けたくて、ドアノブへ手を伸ばせば、意図を組んだらしいエドガルトは伸ばしかけた手をそっと引いた。
 そんな彼へ目礼をして、ドアを開ければ油の切れた蝶番がギギ、と不快な音を立てた。
 その音に、食堂内にいた者が一斉にファーナのほうへ視線を向けた。

「お……はようござい、ます……」

 食堂内にはツェラとトーニだけでなく、ファーナとエドガルトを覗く全員が顔をそろえていた。合計十四の目に見つめられて気圧され、ファーナは思わず一歩後退ろうとした。
 が、半歩も後退しないのに背がエドガルトにぶつかってしまった。
 勇気づけるようにか、はたまたもう逃げ出しても遅いよ、という意味か、彼の手がファーナの両肩にかかる。

「みんな、おはよう」

 落ち着いた声が、ファーナの真上から聞こえた。
 それぞれ朝食の手伝いをしていたらしい、護衛たちがその場で立ち止まり、深々と頭を下げた。

「おはようございます」

 と、護衛たちの声がきれいに揃う。
 背が高く、厳つい男たちの間から、小柄なトーニがひょっこりと姿をのぞかせた。

「おはようございます、エドガルト様、ファーナ様。朝食はすぐお召し上がりになりますか?」

 いつもと変わらぬ、静かな口調だ。

「ああ。頼む。みんな、仕事の手を止めて悪かったね。続けてくれ」

 エドガルトの声を機に、皆が三々五々作業に戻った。

「みんな、食事は?」
「まだです」

 エドガルトの問いに対し、生真面目な答えを返したのはシュタールだ。

「そうか。では、みなで食べよう。時間が勿体ないからね。食後にニャーから呪いについての話を聞きだし、終わり次第ここを出発しよう。あまり長居はしないほうがいい」
「はっ」

 短く答えるシュタールの声に戸惑いはないし、他の四人の護衛たちにも驚いている様子は見えない。
 どうやら主従で食事をともにするのは珍しいことではないらしい。

「エドガルト様、ファーナ様、食事の前に昨夜の報告だけでもしたいのですが」
「なにかあったのか?」
「いえ。これと言ったことはなにもありませんでした」

 だからこそ、食事の前に簡単に報告してしまおうと考えたのだろう。

「だろうね。僕が張った結界を破れるヤツなんて、そうそういないから」

 ただ、結界は魔物には有効だが、人には意味を成さない。夜盗の類いを警戒するために交代で警備してもらっていたのだ。

「そうだ、ニャーとギィは戻ってきてる?」
「はい。そこに」

 シュタールが視線を流す方向を見れば、ツェラが城から持って出た籐かごに布を敷き詰めたベッドで、ふたり仲良くスヤスヤと眠っている。

「あらまぁ。よく眠っているわ」
「今朝がた、玄関の軒先で丸まって寝ているのを見つけまして、ツェラ殿とトーニ殿が寝床を作ってくださいました」

 小さなベッドはなかなか寝心地がいいらしく、二匹はぐっすり熟睡している。

「朝食の匂いがし始めたら起きるでしょう。夕食の時もそれは大騒ぎでしたから」

 トーニはそう言うと、焼きたてのパンをテーブルにのせた。
 ことり、という小さな音とともに、香ばしい匂いがふんわりと立ち上った。
 途端、トーニの言葉を裏付けるかのように、かごの二匹はもぞもぞと身じろいだ。

「ツェラから、支度中のつまみ食いがすごかったと聞いたけれど……」
「食卓に着いてからも、うまいうまいと大はしゃぎで」

 ツェラから聞いた話を思い出して口にすれば、トーニはあっさりとそれを肯定する。しかも事態はもっとすごかったようだ。
 ニャーにしてみれば焼き菓子以来の、ギィにしてみれば初めて食べる人間の食事だったが、どうやら二匹の口には合ったらしい。

「そうそう、すごかったですよ。ぼーっとしていたら盗られそうなくらいで」

 と、横からユリアンが苦笑い交じりで口を挟んだ。

「そう言えば、一番盗られそうになってたのは、ユリアンだったな」
「げ! 言わないでくださいよ、シュタール様!」
「まぁ、あれだけちょっかいかけられて、一口も盗られなかったのは偉いぞ」

 シュタールのからかいにユリアンはムキになって言い返すが、さらりと交わされてしまってそれ以上文句が言えない。
 ふたりのやりとりに護衛の男たちも、侍女たちもどっと笑った。

「みんな、悪かったね。僕から注意しておくよ」

 ひとしきり笑いが収まったところでエドガルトがそう告げたことで、その話題は終わりになった。
 ちょうど食卓の支度ができたというので、みんなで席に着くと、トーニの予想通り、ニャーとギィは目を覚まし、食卓の一角に陣取った。
 行儀もなにもなく、即座に食べはじめようとする二匹を制止してエドガルトが注意をすれば、二匹は素直に『もう人のものは取らない』と約束したので、一同――特にユリアンは――安心して朝食を食べはじめた。
 穏やかな雰囲気の中、和やかな会話が続く。誰もファーナの顔を恐れたり、好奇心や嫌悪の入り混じった目を向けない。
 話のついでに誰かがファーナを見ても、それは他の者に対する目と同じで、何も特別なことはない。
 それが嬉しく、また面映ゆいような感じもした。
 最初は緊張気味だったファーナも、徐々に皆に打ち解けた。
 隣のエドガルトと視線が合うと、彼は小さく頷いた。

 ――ほらね。心配する必要なんてなかっただろう?

 そう言っているようだ。
 ファーナは彼の目をじっと見つめ、それから小さく頷いた。
 するとエドガルトは、満面の笑みを浮かべるのだった。




 多少騒がしかったが、特に問題もなく食事は進み、食後はツェラが入れたお茶で一息入れることになった。

「そう言えば、ニャーとギィ、あなたたち、昨日と比べて少し大きくなった?」
「あー? そうか? そうかもなー」

 ニャーは器用にカップを両手で持ち、ずずーっと茶をすする。

「あなたたちはそんなに早く成長するものなの?」
「まーな。姫さん喰い損なったけど、昨夜は別のもんたらふく食ったから、ちょっと成長した」
「ギーギー!」
「このままいけばよー、ギィもすぐに喋れるようになるかもなぁ。な、ギィ?」

 ニャーが話を振ると、ギィは嬉しそうにゆさゆさと枝のような腕を揺らした。

「まぁ、昨日なにかあったの? 私、全然知らなくて」
「いいの、いいの。ファーナは気にしないで!」
「んあ? なにが『いいの』なんだ、なにが! 俺たちは昨夜、すげえ頑張って魔物」
「あー、あのね! ニャーとギィには町の外の見回りをお願いしたんだ。そこで人に害をなしそうな魔物を喰らっ……じゃなくて、退治したんじゃないかな? だよね、ニャー? ギィ?」

 エドガルトはファーナに気づかれないように二匹を睨めつけた。

 ――余計なことを言うな。ファーナを怖がらせるな、不安にさせるな、大人しくしろ。

 そんな思念が込められた視線だ。
 エドガルトとしては、自分の使い魔が魔物を『喰らう』などと知れば、ファーナが怖がるかもしれないと思ったのだ。魔物同士の感覚ではどうか知らないが、人間から見れば共食いのように見える。特に魔法となんの縁もなく過ごしてきた者からしたら、さらに不気味に見えるだろう。
 また、いまのファーナが魔物にとってとても魅力的な餌だということは、彼女自身も昨日からのやりとりでそれなりに自覚しているだろうが、それでも残り香さえ魔物を引きつけると知れば、どれだけ怖い思いをするだろう?
 そんな思惑から、ニャーの言葉を強引に遮ったのだが、ニャーには理解できないようだ。
 しかし理解できなくても、エドガルトが本気で睨んでいるのはわかる。
 怖いから、とりあえず話を合わせようそうしよう。そう考えるくらいにはニャーだって賢いのだ。

「そ、そうだにゃー! 悪いヤツらは許せないからにゃー。ヤツらが悪さしないように退治したにゃー。それだけにゃー」

 ニャーはカップをテーブルに置くと、両手を胸の前で合わせて、小さく小首をかしげた。うるうるとした目でファーナを見上げる。
 可愛いでしょ? 可愛いんだからいじめないでね? のアピールなのだが、エドガルトにやっても通用しないのは学習済みらしく、ニャーはファーナに狙いを定めたのだ。
 少し離れたところでは、可愛いもの好きのトーニが「ぐふっ」と殺しきれなかった奇声を漏らした。

「魔物はね、魔物を倒すと倒した相手の力を取り込むことができるんだ。だから、今日のニャーとギィは少し強くなったんだよ」

 『取り込む』とは我ながらいい言い換えだったとエドガルトは、ほっとため息をついた。
 これなら頭からバリバリ喰らうような、生々しい想像はしにくいだろう。
 実際、ファーナは嫌悪も驚きもせず、強くなった二匹を偉いと褒めている。どうやら彼女は『強くなった』というのを『背が伸びた』だの『体が大きくなった』くらいに思っているようだが、別に訂正する必要もないだろう。

「ところでそろそろ本題に入りたいんだけど、いいかな、ニャー?」

 エドガルトの一声で、場に緊張が走った。
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